朴念仁の戯言

弁膜症を経て

人生

手紙 №19

拝啓 邦子さん私は目が悪いので「この生命ある限り」を、秘書に読ませました。秘書の声音がたえず濁ります。私の目はその都度曇ります。心からご同情いたします。私は主義に生きるため、努めて苦難の道を選び、死に勝る一生を送りました。この苦しみは八十を…

出版 №18

酸素吸入はまだ取れなかったが、だいぶ元気になった風立つ朝、母が私の枕元で言った。「おまえの書いたノートがね、本になるんだって」。父と母への遺書のつもりで書いたノートだった。「良き径」と記したもので、講談社から出版されることが決まったのだ。…

神を呼ぶ №17

私の高校は、旧制の女学校時代の建物を引き継いだ、古い木造平屋の学校だった。ただ、どういうわけか正門前に教会、裏門前にも教会があった。表は日本キリスト教団、裏はカトリック教会だった。県立の学校で、こんなにも教会にぴたりと挟まれた学校は、全国…

洗礼 №16

土曜日、真っ先に私の異常に気付いたのは、同級生の成ちゃんだった。いつもより早く病室を訪ねた彼女は、昏々と眠る私の顔色が普通じゃないと感じた。体を揺すっても、耳元で声を掛けても、反応がない。成ちゃんは、慌てて看護婦詰め所に駆け込んだ。大騒ぎ…

妹の涙 №14

私が倒れた時、妹は高校1年生だった。高校は汽車通学だったので、冬は暗いうちに家を出なければならない。3年間、自分で弁当を作って学校に通っていたと聞いた。かわいそうだった。母はがんの手術を受けた後だったので、無理ができなかった。妹はそれでも明…

生きる意味 №13

人間はなぜ、こんなになってまで、生きていなければならないのだろう。何のために、人間はこの世のなかに生まれてくるのだろう。身動きのできない病室の天井を見つめながら、私は、来る日も来る日も、そのことばかり考えていた。分からなかった。分かるのは…

命を救う熱意に心を動かされる

私は父親を知らずこの世に誕生し、大人たちの偏見と、差別の中で子ども時代を過ごしました。私は国や行政を批判もしませんし、批判する価値がないと、何も期待しないで今まで生きてきました。そんな、私の気持ちを変えたのは、いわき市保健所の獣医さんでし…

縁の糸

これまでの60年間の人生にはあまたの不思議な出会いがあった。縁(えにし)の糸がグルグルと絡み合い、私の人生を紡いできたと思う。その一つに美空ひばりさんをめぐる糸がある。私の父が東山温泉の旅館で板長を務めていた時、当時20歳ぐらいで絶大な人気を…

生の無常を描く

インド・ムンバイを舞台に、貧困の中で運命に翻弄される路上の子どもたちを追い続けたノンフィクション作家石井光太さんの新作「レンタルチャイルド」(新潮社)。スラムの奥深くへ踏み込んだ取材の先にあったのは、「立ち尽くすしかない」現実だったという…

息子の思い出・母の存在

息子を思い出す緑色の歯ブラシ皆さんはどんな歯ブラシを使用していますか。形、色、使いやすさ、好みの硬さ、テレビの宣伝の影響など、さまざまな理由で選ばれているのでしょうね。私の歯ブラシの右側に、これから先、誰にも使われることのない緑色の歯ブラ…

花と私

カーネーション白い花の思い出時には花に慰められたり、勇気をもらったりした。65年前、私が小学生の頃だ。「明日は母の日です。お母さんに赤いカーネーションを一輪あげましょう」と担任の先生が話された。私の母は私を産んだ1年後に病で他界していた。当日…

「文章を書く」苦しみ

つぶやき太陽は音をたてずに昇る。夜明けを久しぶりに体感した。それは想像以上の濃いオレンジ色を放っていた。冬の地上にあるすべてのものを、つめたい闇からすくい取り、力を与えてくれる。古代の人々が太陽を崇めたことにうなずける。最近、人や動物を描…

母の後ろ姿

50年以上経った今も、忘れられない母の後ろ姿、それは、私が修道院に入って数ヶ月後、初めての面会が応接間で許された後、1人で門を出て帰っていった時の母の後ろ姿です。 30歳で修道院に入った時、母はすでに70代の半ばで、1人で出掛けると、時に方…

動物愛にあふれた情熱の人

世界的なフラメンコダンサーで本県出身の長嶺ヤス子。私は彼女を「やっこ」と呼び、家族も仲良くさせてもらっているが、個性的な人といって彼女の右に出る者はいない。本人には誠に悪いが、普段の生活では理解不能な人間。やっこは私より2歳ぐらい下、ほぼ同…

仏様のような生き方

「蓄えも年金も少なく、皆さんとお付き合いすることはもうできません。暖かい土地へ移り、妻と静かに暮らします」。そんなあいさつ状を出し、親しい人にも転居先を告げずに姿を消した男性がいた。20数年前のことだ。直前まで、東京で学ぶ会津出身者のための…

不食という生き方⑥

家族には、思うほど深いつながりはない 家族や血縁にこだわる必要もありません。私たちの本質が、元はたった一つの魂であることが理解できれば、この意味がすぐわかると思います。もちろん親から生まれる以上、その人物のDNAを受け継いでいることは否定しま…

不食という生き方⑤

男女の垣根を超えると豊かになる 私は「男女」についても、こだわりがなくなりました。生まれ持った肉体上の性別はあっても、こうすべき、こうしなきゃいけないという強迫観念が、自分の中から消えました。女性性が強い時代になると先述したのも、女性が男性…

不食という生き方④

歩く(走る)ことで不調は解消される ※(走る)は朴念仁の追記 事務所に相談に来られる方に中には、不調や病気の原因が「運動不足」によるものである方が割といらっしゃいます。まったく歩けないならまだしも、普通に生活しているのに心身が不調だというケー…

不食という生き方③

おたがいに譲ればすべて解決する 最近は、弁護士会から講演を依頼されることもあります。そこでよく言われるのが「あなたの考え方には正直驚きましたが、実は私も興味があります」という感想です。弁護士というのは、依頼人の利益や権利を守るために仕事をし…

不食という生き方②

どんな存在であれ、つながっている 争うというのは「善悪のラベル貼り」です。自分は正しく、相手は間違っている。それをどんな方法を用いて明白にするか? 係争はその最もたるものです。相手を非難することで一方的な立場を得ると、一時的に高揚します。自…

不食という生き方①

年末、久しぶりにアマゾンで本を数冊購入した。パソコンの画面には消費者の購買欲を煽るように、注文した本に関連する本が次から次へと紹介される。その中にあった本を、行く予定がなかった図書館で偶々見つけ、借りた。数時間で読める文量だ。その内容は、…

センター試験以前

大学入試にまつわる不快な記憶が消えたのは、厄年の前にパニック障害やうつ病を患い、死なないでいるだけで精いっぱいの底つき体験を経たあたりからだ。要するに、底上げの価値観のもとでは生きのびられなくなり、ただ生きて在ることの大事さが身にしみた時…

楽屋で聞いた いまわの〝喝〟

◆母の最期私は、母の龍千代が大好きだった。15歳で娘歌舞伎の世界に飛び込んだ母は、とても厳しく、そして優しい人だった。私が4、5歳の時、当時流行したインフルエンザで40度の熱にうなされ、ほとんど意識がなくなってしまった時があった。医者が「す…

大衆演劇を守り続けた堅物

◆厳格な父父清は、私が紅白歌合戦に出場した年の1983(昭和58)年6月に亡くなった。75歳だった。紅白のシーンは見せられなかったが、劇団の公演が超満員御礼になる姿は見せられたと思う。大衆演劇全盛期の昭和初期、父は剣劇の大スター市川梅三郎として全国…

幻想をかなえる仕事

セックスワーカー(オランダ)アレクサンドラ(21)がガラス戸の中で体を揺らしている。人懐(なつ)こい笑み。下着を付けただけの引き締まった肢体。道行く男たちの視線を集めて楽しんでいる。オランダは売春が合法化されている世界でも珍しい国。首都アム…

最も健康だった薄幸の妹を思う

きょうだい3人のうち最も健康であった妹は、隣町の女学校を卒業すると、その町の委嘱で代用教員になった。やがて正教員の資格を取り、学校の評価も良く、生徒からも慕われる存在になった。 22歳の時、望まれてある男性と結婚したが、初めての子が心臓弁膜…

乗り越えたかったのかも

脳溢血で入院中は不思議な感覚だった。 出入り自由って状態だったな。 あっちの世界に。 生と死の境 「影のない光」というものにとても興味がある時期があってね。それがちょうど脳溢血で倒れる前だったんだよ。光って、影があるじゃん。チベット仏教の「死…

家業のパン作り手伝いたい

◆子としての責任 左足を切断してから「幻痛」との闘いが始まった。人は手足を急に失うと今まであった手足の幻覚に見舞われる。ないはずの手や足にかゆみを感じたり、痛みを感じたりするのだ。 先生に訊くと放っておけばいつの間にか消えるというのだが、待ち…

支えてくれた左足切断

◆新たな試練 1979(昭和54)年7月25日。23歳の誕生日。自宅に友人、知人、レストラン従業員を招いて誕生会を開き、みんなの前でゆっくり歩いて見せた。閉店後の秘密の特訓は、コックしか知らなかったので、その時のみんなの呆気にとられた顔は忘れられない。…

一瞬の出会い

昼休みの束の間、パソコンを通してイヤホンから流れるピアノのメロディーを子守唄に、椅子の背もたれに身を預けて瞼を閉じようとした時、視界に人影が入った。 顔を起こすと、白髪で短髪頭の、60過ぎの男の姿が目に入った。 イヤホンを耳から外し、すぐに立…