朴念仁の戯言

弁膜症を経て

生きる意味 №13

人間はなぜ、こんなになってまで、生きていなければならないのだろう。何のために、人間はこの世のなかに生まれてくるのだろう。
身動きのできない病室の天井を見つめながら、私は、来る日も来る日も、そのことばかり考えていた。
分からなかった。
分かるのは、それでも私は生きていて、私が生きていることで、家族も大変な苦労を強いられている、ということだけだった。
一介のサラリーマンの家庭で、何年もこうした重症の患者を抱えるということは、精神的のみならず、経済的にも、それは大変なことだった。
私が倒れたのは、東京オリンピックの年だった。1964(昭和39)年、日本中がオリンピックの開会を控えて沸き立っていた。
日本はまだ貧しく、ようやく高度成長期に向かって走り始めたばかりだった。どこの家庭にも車があるという時代ではない。「車」が欲しい。「テレビ」が欲しい。「電気冷蔵庫」が欲しいと、みんなが願い、走りだしたころだった。
交通事故の補償なども、今のようには考えられなかった。何かあればすぐ「訴訟」、そんな時代ではなかった。
病院は、医療費はともかく、私のような重症の患者になると、家政婦さんの代金や、部屋の差額など、何かとお金がかかる。それに当時は、保険の利かない薬というものもあった。そんな時にも、お医者さんは父や母に尋ねた。
「この薬は、子どもさんの体には効きます。しかし保険は利きません。どうなさいますか」
それが子どもの体に効くと聞かされて、しかし、支払いが大変だから使わなくていいとは言わないのが、親だったようである。どんなに支払いが大変であろうとも、それでいくらかでも、子どもの病気が良くなるというのなら、使ってくださいというのが、親だった。
そんなことで、私の家では、わずかに残されていた、隣の土地も売り払われた。若いころの父と母が、苦労して抵当権を外した土地だった。
妹は、せっかく入った東京の学校を2年で中退して、家政婦さんの代わりに、私に付き添わざるを得なくもなっていた。
忘れられない夜がある。
ある夜、父が声を殺して妹に何かを言っていた。病室の隅で、何かを頼んでいた。私が眠っているものと思っていたのだろう。妹の忍び泣く気配に私は目を覚ましていた。
父は妹に、学校をやめて帰ってきてほしいと言っていた。妹は、仕送りが大変ならバイトでも何でもやる。夜学に変わってもいい。だから学校は続けさせてほしいと、病室の壁に顔を押し付けて泣いていた。
父は言った。「お金のことだけじゃない。クーちゃんは、そうは生きられない。だから、お前に付き添ってもらいたいんだ。今まで家族の看病を、受けることができなかったんだ、分かるな」
母は、がんの後、重い心臓病を患っていた。みんな私のせいだった。私は眠れない夜の底で、妹の涙を思って、涙をこぼした。
※エッセイストの大石邦子さん(平成22年8月28日地元紙掲載)