朴念仁の戯言

弁膜症を経て

喪失

先月の6月10日、同僚の嫁さんが亡くなった。

享年51。

2年半に及ぶ闘病生活。

 

先日、同僚の家を訪ねた。

「会社を辞めたい」と本人からも、彼をよく知る関係者からも耳にして気になっていた。

部屋には11年前に家族3人で日光市を旅行した時の写真7、8枚が、フォトフレームに飾ってあった。

その内の一枚が遺影となった。

彼との何気ない会話から嫁さんのことや今後の身の振り方などに話しが移ると、彼は何度も言葉に詰まり、その度に涙が頬を伝った。

当事者の気持ちなぞ分かりようもない無責任さを承知の上で思いつくままに気休めの言葉を投げ続けた。

嫁さんの闘病の苦しみから解放された安堵感と、大切な人を喪った寂寥感が綯い交ぜになった彼の心に届いたかどうか。

嫁さんの苦しみや死はなかったことにして、でも嫁さんとの良き思い出は忘れないでいたいと願う相反する気持ち。

職場環境を変え、肉体労働に従事したいと彼は言った。

汗水垂らし、頭を空っぽにして一時でも嫁さんことを忘れ、寂しさを紛らわしたいのだろう。

 

否認、怒り、取引、抑うつ、受容。

死を目前にした当事者と近親者が辿る喪失の5段階として精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが実体験から提唱したものだ。

現実を否定し、なぜ私が、と怒り、次にあらゆる手立てを施して現実から逃れようと試み、やがては逃れようがないことを知って絶望し、感情・思考が停止する。

その段階を経てようやく現実を受け入れられる下地ができる。

喪失の5段階は自分が自分であるための、自分を見失わないための精神作用だそうだ。

 

「時間が解決してくれる」とは私もよく口にし、他人からも言われることだが、内容に因りけりだ。

波の振幅が少しずつ小さくなるだけで喪失の5段階は絶え間なく寄せては返す。

そうあって残された人は生きて、死んでゆく。

喜怒哀楽すべての感情を味わい尽くして。

 

彼には何度も、そして帰り際にも言った。

「嫁さんは常にそばにいる。見えないだけだ。あんた何やっての!と言われないようにな。嫁さんの分まで精一杯生きて、あの世で嫁さんに会った時、俺、しっかり生きたよなと言えるように」と。