朴念仁の戯言

弁膜症を経て

別れ №22

私が彼と出会ったのは、25歳になった春の、症状の極めて悪い時期だった。彼も入院していた。
彼は、間もなく退院していったが、その後も、ほとんど毎日訪ねて来てくれた。来られない時には、定刻の午後8時に、決まって看護婦詰め所の電話が鳴った。
いつしか私は彼を待ち、彼がドアを押して入って来ると、病室に温かな風が吹いた。風に吹かれて、生きるのに疲れた心を休めることができたひととき、私は、自分が優しくなっているのを感じた。
彼は優しいのだが、物言いは、いつも素っ気なかった。その日もそうだった。話のおまけのような言葉を聞いていた私は、一瞬、息が止まりそうだった。「自分は、結婚するつもりでいるから」と言うのだ。
意識なく眠り続ける私ののどにたんが絡まり、それを取り出す吸引器の音をなすすべもなく聞いていた時、自分は心に決めたのだと。その日から2年待ったのだと…。
生まれて初めて、それもこんな体の私に向けられた「結婚」という言葉だった。一緒に生きていけたらどんなにいいか。風の夜も、雨の夜も寂しくはない。痛みにも耐えられよう。しかし、彼が掛け替えのない、大切な人であればあるほど、彼の心を受け入れてはいけなかった。病むことの悲しさが、胸を覆った。
私の知らないうちに、彼は父にも会っていた。父は彼の手を握りしめて「ありがとう」と言葉を詰まらせ、それでも「君は自分の将来をもっと大事にしなければならない」と言った、と後に聞いた。
彼の家族の反対も当然のことだった。「兄を返してください」。訪ねてきた義妹さんに言われた。言葉がなかった。お互いに、手を握り合ったことさえない私たちだったが、私の知らないところで、現実の嵐は吹き荒れていた。
「一度きりの人生だから正直に生きる」という彼。「だからこそ健康で未来のある人を」と何かの一つ覚えのように、繰り返すことしかできなかった私たちの上を、大切な時間だけが流れていった。
間もなくである。彼が突然、倒れた。信じられなかった。彼は大学を出て程なく、片肺を切除している。その時の輸血がもとで肝臓を患った。大手企業を辞めて故郷に戻ってきたのも、そのためだった。
知らされて、県立病院に駆け付けた時、彼の体は黄色に浮腫(むく)み、ベッドにも起き上がれなくなっていた。思わず、私は声を上げて泣いた。悲しいというより、私たちの力の及ばない、運命とでも呼ぶべき大きな力に向けての、たまらなさだった。あんなに元気だった彼が、なぜ、また病まねばならないのか。
帰る時間がきても、彼は手を離そうとしない。その手の指を一本一本ほどきながら、私は小さく言った。「また来るから…」。彼は黙ったまま、枕元の酸素ボンベを指ではじいていた。泣いていた。
「分ちゃん、こっち向いて」。そう言いながら、彼が元気になったら彼の望むように勇気を出して生きてみようかと、一瞬思った。
しかし、それが最後だった。ひと月後の1970年11月27日、国分亨さんは、肝硬変による門脈破裂のために、29歳の命を閉じた。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月8日地元紙掲載)