朴念仁の戯言

弁膜症を経て

2018-03-01から1ヶ月間の記事一覧

愛にあふれた家庭が大事

仏教の教えに「薫習(くんじゅう)」という言葉があるそうです。お香を焚(た)く部屋にいると、その薫(かお)りがいつの間にか衣服に染みつくように、優れた人のそばにいるだけで、知らず知らずのうちに感化され、教えが入って身につくというのです。これ…

多読に警告 まず思索を

人生の大半を読書に時間をつぶす人間が結構いるが、ぼくは45歳まであまり読書をしてこなかった。そんなぼくよりさらに上がいた。映画監督のフェデリコ・フェリーニである。彼は50歳まで読書をしなかったという。すると彼のあの想像力にあふれた天才的な映画…

タロとジロに救われた青春

昭和34年1月15日、私にも「成人の日」が来ていました。若者たちの久しぶりの邂逅は、会場を賑やかにしていましたが、お祝いの言葉が始まると、厳粛な雰囲気に包まれていきました。式の途中で、歴史的なニュースが報じられたのです。司会者が「嬉しいニュース…

新たなスタート №30

2008(平成20)年、私は人生最大の冒険に出た。アメリカ大陸横断だった。21歳の時から、長い闘病生活を送り、多くの人々のおかげで元気になった。ところが元気になってみると、もう「老い」を考えなければならない年齢になっていた。これからどのように生き…

老いの孤独 №27

1991(平成3)年の冬、私と母はこたつで、テレビの中の戦争を見ていた。湾岸戦争が始まってからというもの、現地からの情報がリアルタイムで流されてくる。「見たくない」と、母は言った。「大事なニュースだから」と、私は無視して見続けた。その夜だった。…

会津に生きる №24

熱海で過ごした私の体は、発症当時から比べれば、信じ難いほど元気になっていた。平らなところでなら、車いすを一人で操ることができるし、左の腕も役に立つ。一時は痛みに負けて、手も足もいらないと思ったこともあったが、今は心から切断しなくて良かった…

別れ №22

私が彼と出会ったのは、25歳になった春の、症状の極めて悪い時期だった。彼も入院していた。彼は、間もなく退院していったが、その後も、ほとんど毎日訪ねて来てくれた。来られない時には、定刻の午後8時に、決まって看護婦詰め所の電話が鳴った。いつしか私…

苦しみはずっと続かない

「まず、今の苦しさはあなたのせいじゃないということです。一生分の苦労を先取りしていると思っていいし、あまりにつらいなら、逃げてもかまいません」大平さんはそう話して、自分が14歳だったころを振り返った。学校でいじめられたのを苦に、自殺しようと…

出光佐三店主 №20

出光佐三さんは、社内では会長でも社長でもなく「店主」と呼ばれていた。どんなに大きな企業になろうとも、創業時の気持ちを忘れない、との思いだったと聞く。店主が見舞ってくださったベッドで、私は興奮しきっていた。店主の顔がかすんで見えたり、声が消…

手紙 №19

拝啓 邦子さん私は目が悪いので「この生命ある限り」を、秘書に読ませました。秘書の声音がたえず濁ります。私の目はその都度曇ります。心からご同情いたします。私は主義に生きるため、努めて苦難の道を選び、死に勝る一生を送りました。この苦しみは八十を…

出版 №18

酸素吸入はまだ取れなかったが、だいぶ元気になった風立つ朝、母が私の枕元で言った。「おまえの書いたノートがね、本になるんだって」。父と母への遺書のつもりで書いたノートだった。「良き径」と記したもので、講談社から出版されることが決まったのだ。…

1988年3月18日 名古屋妊婦殺害事件

名古屋市中川区のアパートで、臨月の主婦の他殺体が見つかった。腹部を切り裂かれ、赤ん坊が取り出された上、腹に電話機などが入れられていた。赤ん坊は無事だった。未解決のまま2003年に時効が成立した。 ※地元紙「きょうの歴史」より。

神を呼ぶ №17

私の高校は、旧制の女学校時代の建物を引き継いだ、古い木造平屋の学校だった。ただ、どういうわけか正門前に教会、裏門前にも教会があった。表は日本キリスト教団、裏はカトリック教会だった。県立の学校で、こんなにも教会にぴたりと挟まれた学校は、全国…

洗礼 №16

土曜日、真っ先に私の異常に気付いたのは、同級生の成ちゃんだった。いつもより早く病室を訪ねた彼女は、昏々と眠る私の顔色が普通じゃないと感じた。体を揺すっても、耳元で声を掛けても、反応がない。成ちゃんは、慌てて看護婦詰め所に駆け込んだ。大騒ぎ…

妹の涙 №14

私が倒れた時、妹は高校1年生だった。高校は汽車通学だったので、冬は暗いうちに家を出なければならない。3年間、自分で弁当を作って学校に通っていたと聞いた。かわいそうだった。母はがんの手術を受けた後だったので、無理ができなかった。妹はそれでも明…

生きる意味 №13

人間はなぜ、こんなになってまで、生きていなければならないのだろう。何のために、人間はこの世のなかに生まれてくるのだろう。身動きのできない病室の天井を見つめながら、私は、来る日も来る日も、そのことばかり考えていた。分からなかった。分かるのは…

突然の大地震 覚悟を決め生きる

連日、テレビに流れているニュージーランドの大地震の悲惨な映像を前にして「覚悟を決めて生きていかなければならないのか」と思いました。「自分が死ぬわけがない」「親族が死ぬわけがない」「地震がくるわけがない」と誰もがそう思っていたに違いありませ…

命を救う熱意に心を動かされる

私は父親を知らずこの世に誕生し、大人たちの偏見と、差別の中で子ども時代を過ごしました。私は国や行政を批判もしませんし、批判する価値がないと、何も期待しないで今まで生きてきました。そんな、私の気持ちを変えたのは、いわき市保健所の獣医さんでし…

目に見えないものに気づく力を育てたい

家庭教育の要諦は何かと問われたら、私はためらわずに「豊かな感受性の育成」と答えたいと思います。なぜならば、私が日々接してきた子供たちの中で、感受性の豊かな子供ほど、ものを学ぶ力が強いことを実感してきたからです。もちろん、感受性とは、心に感…

縁の糸

これまでの60年間の人生にはあまたの不思議な出会いがあった。縁(えにし)の糸がグルグルと絡み合い、私の人生を紡いできたと思う。その一つに美空ひばりさんをめぐる糸がある。私の父が東山温泉の旅館で板長を務めていた時、当時20歳ぐらいで絶大な人気を…