朴念仁の戯言

弁膜症を経て

洗礼 №16

土曜日、真っ先に私の異常に気付いたのは、同級生の成ちゃんだった。いつもより早く病室を訪ねた彼女は、昏々と眠る私の顔色が普通じゃないと感じた。体を揺すっても、耳元で声を掛けても、反応がない。成ちゃんは、慌てて看護婦詰め所に駆け込んだ。
大騒ぎになった。先生が呼ばれ、呼吸器が取り付けられ、さまざまな治療が施されたが、血圧は低下し、意識は戻らなかった。
「夜の10時まで、もつか、どうか…」。主治医の先生が父母に告げた。東京から姉が駆け付け、仙台の弟夫婦も間に合った。同級生の「ゼロ」のメンバーや、出光興産の同僚たちも詰めていた。
みんなが見守る中で、午後10時が過ぎた。11時を回っても、まだ私には息があった。
「午前3時ごろかもしれません」。そんな時間刻みの命が、先生の口から何度か漏れた。
先生も看護婦さんも、一睡もせずに付いていた。懸命の処置が施された。空が白み、朝が来ても、私は生きていた。父母はあまりにも長く続く昏睡に、感謝の中で、皆に引き取ってもらうことにした。
危篤状態が10日余りも続いた。いよいよ、誰の目にも死の兆候が見て取れた。
「すべて、手は尽くせるだけ尽くしました」。瞳孔を確かめながら、先生が言われた。
それでも私の枕元で、意識のない私の右手を握り締め、開いたり握らせたり、右手が動かなくならないようにと動かしていた母が、突然よろよろと立ち上がった。
「先生、この子を誰に会わせてもいいですか」
「いいですよ」
先生は大きくうなずいた。
「教会の神父さんを呼んでくなんしょ」。放心状態のようにも見える母が、誰にともなく言った。
教会だの、キリスト教だのに何の縁もゆかりもないはずの母の言葉に、皆あぜんとしていた。
「天国に、やってもらわんなんねから…」
「何言ってんだ!」。父が語気強く言った。しかし、そう言ったきり、座り込んでしまった。
集まっていた中に、ザべリオ学園に勤めていた親戚がいて、カトリック教会に電話がかけられた。若い外国人の神父とシスターが駆け付けてくれた。
母は、取りすがるように言った。
「邦子を、迷わず天国にゆけるようにしてやってください」
しかし、洗礼の準備をしたわけでも、その希望を口にしたことがあるわけでもない私への洗礼には、神父さんもためらわれた。
ただ状況的に見て、死の緊急洗礼の条件は満たしているということで「終油の秘蹟」と呼ばれる洗礼が行われることになった。
眠り続ける私の額に、香油で十字の印が記された。神父が祈り、大きく掌(てのひら)で、十字が切られた。立ち尽くしていた母が突然、葬式は仏教でやってもいいかと尋ねた。神父は言った。
「仏教でも神道でもかまいません。もう邦子さんは、神の御心のままに、生かされも召されもしましょう」。家では、何日も前から葬式の準備が進められていた。
後に、私はその話を聞いた。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月1日地元紙掲載)