朴念仁の戯言

弁膜症を経て

出版 №18

酸素吸入はまだ取れなかったが、だいぶ元気になった風立つ朝、母が私の枕元で言った。「おまえの書いたノートがね、本になるんだって」。父と母への遺書のつもりで書いたノートだった。
「良き径」と記したもので、講談社から出版されることが決まったのだ。喜ぶというよりは、大変なことになってしまった、という不安と恐れでいっぱいになった。
まだ一般の人が本を出すという時代ではなかった。まして父母に向けて書いたもので、人に読まれることを前提にしていない。
私の心の世界に、何らかの価値があるのか。私の書いたもので傷つく人はいないか。日増しに不安は募っていった。
間もなく手記の書名が「この生命ある限り」に決まったとの連絡が入った。「この生命ある限り」。私は何度も心の中でつぶやいてみた。私の青春の祈りだった。
プロの人が付ける題というのは、やはり迫力がある。口にするたびに胸の奥が熱くなり、思ってもみなかった手記の出版という現実の前に、私は立ちすくんでいた。
9月の末、私の手記「この生命ある限り」が講談社から届けられた。震える心で、震える手で、私は自分の初めての本を手にした。まだインクのにおいのする、ガーベラの花の美しい表紙だった。「大石邦子」の文字に、思わず胸が潤んだ。
私の分身。私の青春がここに埋もれている。忘れよう、忘れようと思いながら、忘れることのできなかった私の過去が、静かにこの中に眠っている。
私は、新しく生きなければならないのだと思った。もう二度と帰ってこない日々はここに埋めて、明日に向かって生きてゆかなければならないのだと思った。
私の病状悪化で疲れ果て、倒れてしまった母が6階に入院していた。まず母に届けたかった。家に寂しくしている父にも届けたい。先生や看護婦さんにも差し上げる。この本は、みんなの真心でできた本だった。
私の本は、ふるさとの人情厚い人々に支えられ、口から口へ、県内から県外へ伝えられ、一地方の名もない障害者の書いた本であるにもかかわらず、初版本はたちまち売り切れた。増刷が間に合わなかった。
初版とか、重版とか、はじめて耳にするような言葉が、私の周りで飛び交うようになった。
数日後、私はさらに驚く事態に直面した。郵便物が山と配達されてきたのである。すべてが未知の人からで、1日、少なくとも20通、多い日は40~50通もあった。
信じられなかった。妹や友人たちが一生懸命読んでくれた。私よりも、もっと苦しんでいる人がいた。体は健康でも、生きる気力をなくしてしまっている寂しい手紙もあった。看護婦さんや病人を抱える家族からの手紙も多かった。
「クーちゃん、みんなクーちゃんに、頑張れって、励ましてくれているんだよ。ありがたいね」。涙もろい妹が、声を詰まらせる。
もう少し元気になったら、何年かかってもいい、この人たちに必ず、お礼の手紙を書こう。心を込めて、必ず書こう。それまでは死ねない。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月某日地元紙掲載)