朴念仁の戯言

弁膜症を経て

出光佐三店主 №20

出光佐三さんは、社内では会長でも社長でもなく「店主」と呼ばれていた。どんなに大きな企業になろうとも、創業時の気持ちを忘れない、との思いだったと聞く。
店主が見舞ってくださったベッドで、私は興奮しきっていた。店主の顔がかすんで見えたり、声が消え入りそうになったりした。
「クーちゃん、今日は、このお爺ちゃんにうんと甘えなさい。私もこれまでの50数年、精神的にはずいぶん辛い思いをしたし、時には他人から『出光は自殺するのではないか』とうわさされたこともある。しかし、精神的な苦労はごまかしが利くが、肉体的な苦労はごまかししようがない。クーちゃん,よく辛抱したね」
私は胸がいっぱいだった。この方の胸で、声を上げて泣いて、泣いて、今までの悲しみを全部洗い流してしまいたいと思った。お世辞でも、何でもいい。真実、子どもか孫に言って聞かせるように諄々(じゅんじゅん)と話してくださるお気持ちがうれしかった。
「ここにクーちゃんのお父さんがおられるが、年は60ぐらいだから僕の子どもだ。だからクーちゃんは僕の孫じゃないか。今日から、君のお爺ちゃんになってあげよう。これからは『お爺ちゃん』と呼びなさい。いいね」
涙がこぼれた。店主は、主治医にも、私のことをお願いしながら、何度も深々と頭を下げた。
35分間の面会時間は、瞬く間に過ぎた。私はいつまでも、立ち去る店主に、手を振っていた。もう一生会えないかもしれないお方だった。
それが、それから5カ月ほどたった6月、再び来られたのだ。
「クーちゃん、約束どおり、また来たよ」
店主は「日本人の世界的使命」という題で、全国に招かれて講演をされていた。その途中だった。その日の午後は、市内の若松商業高校で話をされるのだという。
「この前より、ずっと元気になったね。よかった。今だから言えるけど、この前来たときは、たぶん、もう助からん、ということだったんだよ。でも今日は、すっかり顔色もいいし、お爺ちゃまうれしいよ」と笑った。
「この前ね、お爺ちゃまがクーちゃんのところに来たということが新聞に載ったらしいんだね。それを読んだと言って大変な子供たちが現れたよ。二本松少年隊の二本松北小学校の生徒だけどね。そこの先生が授業で、この記事を取り上げたらしいんだ。そしたら意見が沸騰してね、そこのおちびちゃんたちが全員、感想文を送ってよこしたよ。かわいいじゃないか。急に孫が増えちゃったよ」
その記事は、毎日新聞の「日本の石油王、不治の病に倒れた元従業員を見舞う」だったらしい。
店主は、言われた。「きっと治るよ。治る、大丈夫!」。店主の言葉には力があった。本当に、そんなに日が来てほしいと、泣きたいまでに思った。
せめて、手だけでも動いてくれたなら。この手で、人の手の温もりを感じることができたなら、どんなにいいだろう…。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月某日地元紙掲載)