朴念仁の戯言

弁膜症を経て

老いの孤独 №27

1991(平成3)年の冬、私と母はこたつで、テレビの中の戦争を見ていた。
湾岸戦争が始まってからというもの、現地からの情報がリアルタイムで流されてくる。
「見たくない」と、母は言った。「大事なニュースだから」と、私は無視して見続けた。
その夜だった。母がしきりに母を読んでいた。30年以上も前に亡くなった母親を、必死に呼んでいた。幼子が母を呼ぶような、信じられないほど幼い声で、泣いているようにも聞こえた。
私は身を起こしたまま、動けなかった。夢を見ているのか、こんな母は初めてだった。
母は、どんな時にも気丈に耐え、決して愚痴を言わず、人を責めず、だからといって、母の寂しさを思わなかったわけではない。ただ、実の親子であるという遠慮のなさから、他人に対するほどには、優しくなかったかもしれない。
しかし、母は今、はるかな母親を求めるほどに、寂しいのかもしれなかった。母は関東大震災も、先の大戦も知っている。空爆の映像は、そんな記憶の襞(ひだ)を押し広げ、さらには、どんなに逃れようとしても逃れられない『老いの孤独』の集中砲火を浴びて、逃げ惑っていたのかもしれない。
これからは、どんなに物を忘れようと、無くしものをしようと、母を責めたりはするまい。人は誰しも老いていく。いずれ自分も行く道なのだと、心に言い聞かす。
母が時折、時空を超えた世界に、行ったり来たりするようになったのは、それからだった。突然、50年も前の時間を、生きはじめるのだ。
「50年も前に亡くなった人、訪ねてくるわけないじゃない!」。つい、声を荒げてしまう。そんなとき、母は寂しそうに、この人は何を言っているのだろうという目で、私を見ていた。私が私でなくなっている瞬間だった。
それが、何分もしないで正常に戻ると、不機嫌そうな私に「何かあったの、どうしたの」と、いたわるように寄ってくるのだ。
その落差の前に、私も疲れ、母も疲れきっていた。あれほど凛と生きてきた母が、と思うと、老いていくことの悲しさに、声を上げて泣いたこともある。
そんな日々が1年ほど続いて、私もいくらか慣れてきた。泣いたり笑ったり、そして分かったことがある。母が時空を超えた世界に陥るのは、寂しい時だった。
行く先は、幸せだった娘時代か、家庭の中心にあって、みんなに頼りにされていた『母』の時代だった。それが寂しさの裏返しでなくて何であるだろう。
「おまえも年を取ると分かるよ」。母は、私によく言った。今、泣きたいほどに、よく分かる。
それでも、母にはまだ面倒を見なければならない私がいて、認知症にまでは至らなかったが、正気であるがゆえに、まだらぼけ、の現実には、さらに深く傷ついていた。
母のひそかな願いは「寝込まずに死にたい」だった。平成5年、母は願い通りに、満開の桜に抱かれて忽然(こつぜん)と逝(い)った。83歳だった。
母への悔いは、無限大である。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月15日地元紙掲載)