朴念仁の戯言

弁膜症を経て

不食という生き方③

おたがいに譲ればすべて解決する

最近は、弁護士会から講演を依頼されることもあります。
そこでよく言われるのが「あなたの考え方には正直驚きましたが、実は私も興味があります」という感想です。
弁護士というのは、依頼人の利益や権利を守るために仕事をします。
だからこそ、相手を攻撃する材料をできるだけ持っていないとダメだと、常に考えて行動する習性があるのですが、私自身はどんな相談や公判においても、まず「争わない」という方向で考えます。
そこがショックだったようです。
人生を続ける限り、私たちは何らかの「立場」を持ちます。
その立場が脅かされる、何とかしてくれ、相手を懲らしめてくれ、そんな感情が顕著に出るのが裁判です。最もシビアな人間関係が暴露されます。
だからもし、裁判になったら絶対に勝たないといけないというのは、世のほとんどの人が考えることでしょう。
でもそこで和解、つまり話し合いで解決できるのなら、それに越したことはありません。これも多くの人が納得できる点だと思いますが、人は怒りに包まれていると、ちょっと先の未来が想像できなくなるものです。
そこにあるのは、相手に対する「恐怖心」です。
恐怖の根源には「知らない(未知)」という感情があります。
相手を知らない、気持もわからない、状況を把握できない、理解できない、考えられない、そんな感情こそ恐怖の根本に存在するものです。
負の感情が成長すると、今度は「知りたくない、わかりたくない」という強い拒否感になります。
弁護士、代理人という職業は、クライアントが敵視する相手を懲らしめる仕事がメインではありません。クライアントに状況を把握してもらい、その状況を解決するためのお手伝いがメインです。
それがわかれば、私がなぜ「争わないこと」を原点にするのかを理解してもらえるのではないでしょうか。依頼人とべったりすることが大切なのではなく、距離感を保ちつつ、解決の道筋を探る共同作業が大切なのです。
この仕事には「互譲の精神」が重要です。
読んで字のごとく、互譲とは「おたがいに譲る」こと。和解は互譲をもって解決するということです。判決はオール・オア・ナッシングですが、和解はおたがいさまの精神で両者の要求が盛り込まれます。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん