朴念仁の戯言

弁膜症を経て

支えてくれた左足切断

◆新たな試練

1979(昭和54)年7月25日。23歳の誕生日。自宅に友人、知人、レストラン従業員を招いて誕生会を開き、みんなの前でゆっくり歩いて見せた。閉店後の秘密の特訓は、コックしか知らなかったので、その時のみんなの呆気にとられた顔は忘れられない。

一人で外出できるまでに回復した8月からは休日、学校に通えない子どものために陶山先生が開設し私が名付けたアイリス学園で、ボランティアの英語授業を再開した。アイリスとは「虹の女神」の意味だ。その頃には通信教育で勉強した甲斐もあって、英語検定1級の資格を取得し、英語講師で食べていける自信もついた。

やがて大学予備校からは英語講師として授業するよう頼まれ、自分で言うのも変だが、受け持った授業はそれなりに人気があった、と思う。夏期講習を自宅で開いたところ、20人もの生徒がやって来た。英語講師は30歳近くまで引き受けていた。

この頃が健康な人より数年遅れてやってきた青春真っ盛りだった。ついに病気を克服した、との達成感に満ち溢れ、酒も飲んだし、デートもした。

しかし、好事魔多しである。81年3月、馴染みの客やスタッフに不自由ながらもかっこよく歩ける姿を見せたくて買ったウェスタンブーツを履いてレストラン内を歩いた瞬間、左足が捻じれて転倒してしまった。ボキッと鈍い音がした気がする。

取り合えず自宅で注射と湿布で様子を見たが、腫れはなかなか治まらない。痛みも増すばかりなので、陶山先生にレントゲンを撮ってもらうと、左足が骨折しているではないか。直ちに済生会病院に入院し整形外科のお世話になったが、当時は血友病のために通常の手術はできず、気長に骨がつくのを待つしかなかった。

入院から2カ月たったが、左足は快方に向かうどころか骨折部は腫れる一方だった。レントゲンを撮り画像を見ると、膝の骨が溶けてなくなっていた。

骨肉腫の疑いがあるというので、医大病院に転院した。骨のがんである骨肉腫ならすぐに切断しなければ手遅れになる。こう告げられた時は周りの全員が、絶望感に襲われた。

けれども、ものは考えようである。これも試練の一つで、左足を失っても命を落とすよりは、まだましだ、また歩いてみせる、と割り切った、というより割り切るしかなかった。

手術の前日には兄も帰省した。兄は東大大学院で統計学を研究していたが、私の病気を一つのきっかけに日本の医療統計が、いかに遅れているかを痛感し、この分野の研究に打ち込むようになった。後年、兄は36歳の若さで東大大学院医学部保健学科疫学教室の教授に就いた。

6月4日午前9時30分、手術が始まり、やはり左膝には4㌢の隙間があったが、恐れていた骨肉腫ではなく、手術は正味1時間ほどで終わった。術後、母は兄と一緒に病理室で切り取った足を見た。

あまりにも無残で細い足であったが、よくもここまで雄二を支えてくれた、と手を合わしたそうである。

※銀嶺食品工業社長の大橋雄二さん(平成21年8月30日地元朝刊掲載)