朴念仁の戯言

弁膜症を経て

センター試験以前

大学入試にまつわる不快な記憶が消えたのは、厄年の前にパニック障害うつ病を患い、死なないでいるだけで精いっぱいの底つき体験を経たあたりからだ。
要するに、底上げの価値観のもとでは生きのびられなくなり、ただ生きて在ることの大事さが身にしみた時点で、入試の失敗の苦い思い出なんてどうでもよくなってしまったのだ。
40年前、国立大学の入学試験は一期校と二期校に分けて実施されていた。その名のとおり最初に入試が行われる一期校には東京大学をはじめとする旧帝国大学千葉大学などの旧医科大学が連なり、戦前の専門学校や師範学校が戦後になって昇格したいわゆる駅弁大学の多くは二期校に分類されていた。
どうしても医者になりたかったわけではないが、受験勉強に精を出していると、中学2年からおなじ屋根の下で暮らしだした継母との軋轢(あつれき)をはじめとする日常のわずらわしさから目をそむけていられた。それに、文学が好きだったけれど本業にするほど才能に自信はなく、医者になれば食いっぱぐれがなさそうだったから、医学部をめざした。
浪人の秋の予備校の進路指導で合格確実とされた大学は一期校だった。そのときの過信が妙な余裕を生み、浮ついて臨んだ一期校の試験に落ち、東北の二期校に新設された医学部に受かった。
東京からの都落ちは自意識過剰な若造の根性を強く曲げた。鬱屈(うっくつ)が作家の芽を育てるのだとすれば、この時の挫折体験ほど良質な土壌はない。
芥川賞候補になっては落選し続けた期間、入試のときに味わった悲哀に比べたら屁でもないな、と耐えられた。そして、この歳まで生きて、成らなかったことは縁がなかったのだとあきらめる図太さだけが身についた。
※作家・内科医の南木佳士(なぎけいし)さん(平成22年1月8日地元紙掲載)