朴念仁の戯言

弁膜症を経て

白鵬のあがき

意識して行っていようが、取組前の控えから土俵に上がっての所作が礼法のように一番整っている力士は白鵬だろう。
横綱の風格が漂う。
だが、勝ちに徹した取組は時に汚い。

今日、手負いの御嶽海に、よもや張り手やかち上げはないだろうと見ていたが、意に反して張り手をかました。
白鵬のやり口には賛否あるようだが、指摘されているように年齢による身体の衰えがそうさせるのか、まともに組んで勝ちを得るには難しくなったのか。
楽に勝ちを得ようとする狡猾さと、勝つために手段選ばぬ非情さが、予想外の引退を前にした風前の一瞬の灯火、あがきのように映る。
逆に白鵬に張り手をかます気概ある力士はいないのか。

白鵬の、ネコ科の虎のように躍動する筋肉から繰り出される身体能力とその強さは、歴代の横綱の中でも群を抜いている。
強さは誰もが認めている。
白鵬よ、横綱らしく相手の当たりを胸でがっちり受け止め、四つに組んで勝負しろ。
それで負けが込めば潔く引退、それが横綱だろう。

白鵬の取組後、母の一言で溜飲が下がった。
白鵬のバカ」

 

道化師

「健全そうな顔をしていても、多くの人が精神のきしみやたわみを抱えている。誰にも何らかの欠落や過剰なものがあり、どこかが狂っているというところから始めなければいけないのではないか」
新刊出版に際して地元紙に掲載された作家・辺見庸氏の言葉が、昨今の幼児的で感情的で衝動的で一方的な殺人事件と、俺もお前も誰も彼も、そして、ある映画と符合した。

電車かバスの窓ガラスから街を眺める男。
男を包む灰色の、愁いを帯びた佇まい。
このほんの一場面で男の不遇な人生が直に伝わってきて、テレビで予告編を観ただけに過ぎない映画に惹き込まれてしまった。
米国漫画の、原作にない実写版だった。
この映画の封切りに合わせて、先月、BSで3週連続で前作が放送された。
第2作目では公開前に28歳で急死したヒース・レジャーが圧倒的な存在感を示した。
本作はこれを凌駕するか。

滑稽な服装や化粧で人を楽しませる芸人を道化師と呼ぶが、誰も彼もの心の内に巣食う狂気の道化師は「ジョーカー」と呼ばれるのだろう。
ホアキン・フェニックス演じる本作を観たいと思うが、映画館に行くほどの気はさらさらない。
数年後のテレビ放送を待つとしよう。
それまで新聞に載る「ジョーカー」たちの本質と、私の「ジョーカー」との異質、いや同質性をも観取して待つことにしたい。

 

苦悩の末に

私は23歳でマタギの世界に足を踏み入れたが、初めから自然や、自然との共生のことばかりを考えていたわけではない。
むしろ、狩猟を楽しむ気持ちのほうが大きかった。
転機となった出来事がある。
30代後半ごろ、有害鳥獣の駆除で仲間と一緒に春先の山に入った。
急な斜面の山場に出た際、岩陰から急に大きなクマが飛び出した。
私は反射的に銃を撃ってクマを仕留めたが、クマの後ろから生後3カ月ほどの子グマが現れた。
私が撃ったのは母グマだった。
そのままにするのは忍びないと思い、私は子グマを連れて下山した。
動物園など方々に連絡して引き取り先を探したが、どうしても見つからない。
そうこうしているうちに2週間が過ぎ、私の方も子グマに情が移ってきてしまった。
子グマを山に放して別れるという選択肢もある。
しかし、子グマは幼く、他の動物の餌になるのは目に見えている。
そのまま育てるわけにもいかない。
悩んだ末、私は自らの手で子グマの命を終わらせることを選んだ。
親グマを殺し、子グマから親を奪った責任がある以上、その命から背を向けるわけにはいかないと考えたからだ。
マタギの世界では「子連れのクマは撃つな」と伝わる。
クマの乱獲につながるというのが理由だ。
でもそうした風習とは別に、私の胸には切なさが込み上げ、しばらく立ち直れなかった。
銃を置こうとも思った。
「自分が辞めればクマを見る人がいなくなり、よりかわいそうなことになる」
数カ月間の苦悩の後、マタギを続ける決心をした。
自然というものに深く向き合うようになったのはそれからだ。
この一件は、私の人生観にも大きな影響を与えた。
たとえ山でクマに襲われて死んだとしても「ドンマイ」と言って笑顔で死んでいこうと心に誓った。
「やれるだけのことをやってダメならば仕方がない」
それは、普段の仕事であってもマタギでも、全力を尽くし、生ききるということだ。

マタギの猪俣昭夫さん(令和元年10月30日地元紙掲載)

 

緒方貞子さん「人間らしい心」

緒方さんとの交流のうち、強く記憶に刻まれていることがある。
私がUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の駐日代表だった2007年、難民問題に関する緒方さんのインタビューが英字紙に掲載された。
緒方さんは記事の中で、難民受け入れに消極的な日本の対応について「人間らしい思いやりの心がない」と厳しく批判し、資金援助を中心とする「小切手外交」に苦言を呈した。
国際機関のトップを務めた人は通常、こういう物言いはしない。
関係者に配慮し、外交的な発言を心掛ける。
あえてこうした言葉遣いをしたことに、緒方さんの怒りを感じた。
そこには三つの理由があったと考えている。
一つ目は「日本人は世界の実態を知らなすぎる」という思いだ。
世界には家を追われ、命の危険にさらされている人が大勢いる。
内戦や紛争などにより、世界人口の9人に1人、約8億人は満足な食事を取れず、おなかをすかせ、健康的な生活を送ることができないとされる。
「無関心への怒り」である。
二つ目は「日本人さえよければいい」という心性への怒りだ。
かつて日本では、海外で事件・事故が発生した際「幸い、日本人の死傷者はいませんでした」といったコメントが放送された
現代の世界は国も人も深くつながっている。
日本の安全は世界と切り離して成立することはできない。
「日本人は自分たちの安全・安心に固執しすぎる」という思いがあったのだろう。
三つ目は「日本人は損得勘定を考えすぎる」という不満だ。
寄る辺なき人々の人権や、人としての道義を重んじるより「日本に損か得か」を考える傾向への怒りがあったのだろう。
そうした言動は日本人のイメージを変えた。
ステレオタイプの日本女性像を打ち破り、英語で堂々と発信した。
国際社会に「日本にこんな人がいたのか」という驚きを与えた。
彼女のメッセージに鼓舞され、日本でも多くの女性や若者たちが国際機関や非政府組織(NGO)に進んだ。
そうした蓄積の中で「人間の安全保障」という独自の取り組みが育まれた。
かつて日本に向けられた言葉は今、普遍性を持っている。
トランプ米大統領らの一部の政治家は難民や移民に関し「雇用を脅かす」「文化を破壊する」などと大衆の感情をあおっている。
元気で活動していれば、緒方さんはそんな現状を厳しく叱っていることだろう。
世界にはなお計7千万人を超える難民・国内避難民がいる。
いま一度「『人間らしい心』を忘れるな」という遺言に耳を傾ける必要がある。

※元UNHCR駐日代表の滝澤三郎さん(令和元年10月30日地元紙掲載)   

 

月の満ち欠け

先日、書店で久しぶりに本を購入した。
2時間近く物色し、あらかた買う本を定め、あと一冊買うかどうか迷っていた。
三巡目だったろうか、もう一度手に取り、出だしの文章に目を通して、「ものは試し」とそのままレジに進んだ。
買うことにしたのは岩波文庫の装丁も影響している。
正確には「岩波文庫的」だったが。

久しぶりに一気に読んだ。
一人の女性の、数奇な生まれ変わりの物語。
淀みのない文章に惹き込まれ、時折、唸り声が漏れた。
「面白かった」
誕生日に読了しての感想。
が、それ以上のものはない。
もっと深く、人の心をえぐるような内容を期待していた。
さりとて、「月の満ち欠け」は私に、私自身の生まれ変わりの意味を問うものとなった。

生まれ変わりはあると信じている。
実際、科学的に説明の仕様がない幾つもの事例が、テレビでも、各種書籍でも紹介されている。
死後、仏教では六道(六界)のいずれかに進むとされている。
天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道
世の理不尽さ、不条理に耐えるための方便かも知れないが、そう思わずには魂の救いはなかったのだろう。
理不尽さ、不条理は、いつの世も付きまとい、人を惑わし、狂わせる。
魂を救うもの、別な言葉で言えば「人を人としてたらしめるもの」、それがあるかないかで生き方は変わる。

過去を振り返って、恥じ多き人生を歩んできた私は、畜生道、餓鬼道、いや地獄道まで落ちるかも知れない。
そんな私でも今こうして人としての体面を保ち、過不足なく生活できるのは「人を人としてたらしめるもの」があったから他ならない。
もしも、あわよくば人間道、生まれ変わりが叶う時には一つの願いがある。

誕生日の晩飯時、「旨い、ほんとに旨い」と言いながら箸を口に運ぶ母。
母に伝えた。
「誕生日、ありがとうございます」

この母の元で、再び人として魂の錬磨に努めさせてほしいと。

 

人類の覚醒

「私が伝えたいことは、私たちはあなた方を見ているということです。そもそも、すべてが間違っているのです。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通っているべきなのです。
あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。よく、そんなことが言えますね。あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました。
それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。
なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。
30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいないのに、この場所に来て「十分にやってきた」と言えるのでしょうか。
あなた方は、私たちの声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、私はそれを信じたくありません。もし、この状況を本当に理解しているのに、行動を起こしていないのならば、あなた方は邪悪そのものです。
だから私は、信じることを拒むのです。今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしようという、一般的な考え方があります。しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は50%しかありません。
人間のコントロールを超えた、決して後戻りのできない連鎖反応が始まるリスクがあります。50%という数字は、あなた方にとっては受け入れられるものなのかもしれません。
しかし、この数字は、(気候変動が急激に進む転換点を意味する)「ティッピング・ポイント」や、変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠されたさらなる温暖化、そして公平性や「気候正義」という側面が含まれていません。この数字は、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在すらしない技術で吸収することをあてにしているのです。
私たちにとって、50%のリスクというのは決して受け入れられません。その結果と生きていかなくてはいけないのは私たちなのです。
IPCCが出した最もよい試算では、気温の上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は67%とされています。
しかし、それを実現しようとした場合、2018年の1月1日にさかのぼって数えて、あと420ギガトンの二酸化炭素しか放出できないという計算になります。
今日、この数字は、すでにあと350ギガトン未満となっています。これまでと同じように取り組んでいれば問題は解決できるとか、何らかの技術が解決してくれるとか、よくそんなふりをすることができますね。今の放出のレベルのままでは、あと8年半たたないうちに許容できる二酸化炭素の放出量を超えてしまいます。
今日、これらの数値に沿った解決策や計画は全くありません。なぜなら、これらの数値はあなたたちにとってあまりにも受け入れがたく、そのことをありのままに伝えられるほど大人になっていないのです。
あなた方は私たちを裏切っています。しかし、若者たちはあなた方の裏切りに気付き始めています。未来の世代の目は、あなた方に向けられています。
もしあなた方が私たちを裏切ることを選ぶなら、私は言います。「あなたたちを絶対に許さない」と。
私たちは、この場で、この瞬間から、線を引きます。ここから逃れることは許しません。世界は目を覚ましており、変化はやってきています。あなた方が好むと好まざるとにかかわらず。ありがとうございました」

国連の温暖化対策サミットでスウェーデンの16歳の活動家、グレタ・トゥーンベリさんが各国の代表を前に演説した内容だ。
彼女の演説している姿を目にした時、思わずテレビ画面に釘付けになった。
彼女の演説が、神の、地球の怒り、嘆きの声のように聞こえたからだ。
時同じくして小泉環境相は「気候変動のような大きな問題は、楽しく、クールで、セクシーに取り組むべきだ」とのふざけた発言を放っていたが、自ら化けの皮を剥がして裏切り者の表明をしたようなものだ。
温暖化に懐疑的な連中は要らぬ詮索をして彼女を貶めようとしているが、経済優先の、欲の皮面が張ったトランプ然り、安倍晋三も然りで、温室効果ガスの排出規制は必然的に経済成長の障害となり、経済界の反発を招き、すなわち選挙結果に直結する。
自然界のあるべき姿を考えず、地球の延命よりも目先の利益、財欲に取り憑かれた連中が政治を行う限り、世界は間違いなく好まざる変化を迎える。

誰が地球を救うのか。

彼女のような次世代の若者たちに違いない。
マララさんのように。
あらゆる国の若者たちが、一人、また一人と立ち上がり、それが世界的うねりとなって全人類を覚醒に導くことだろう。
心からそう信じたい。
そして私も、微力ながら若者たちを支える一人としてその場に立ち会っていることを。

 

無意識の呼吸

今日は予定通りに休暇が取れ、庭先の、ほったらかしにしてあるミニトマトのジャングルのような枝ぶりを眺めながら物思いに耽っていた。
少し前まで頻繁に訪れ、庭内を優雅に舞っていた揚羽蝶の姿はそこにはなく、代わりに蟋蟀たちの鳴き声が深まりゆく秋の気配を私に伝えた。

数年前の出来事。
夫婦と思われる男女が私の職場を訪れた。
男はSだった。
Sとは大河ドラマ新選組!」が縁で知り合った。
「あれー、久しぶりですね、Sさん、痩せたんじゃないんですか」
「ちょっと内臓を…」
Sは言い淀み、冴えない表情を浮かべた。

「太れないんですよ、いくら食べても」
脇からSの嫁らしき女が口を挟んだ。
冴えない顔色のSとは対照的な女の表情。
Sは話を続けた。
「心房細動が出て不安なんですよ。カテーテルの手術をしても治まらないんです。救急車で4回運ばれました。昔から腰が悪いんですけど、それで腰に注射してもらったら急に動悸が始まって。その時が1回目の搬送。心臓が悪いと脊髄注射は良くないようです。運転中に苦しくなって近くの消防署に駆け込んで運んでもらったこともあります」
「えっ、4回もですか。それは大変でしたね。私も大病しました。同じく心臓です。弁を取り換えました。不安ですよね。その気持ち、良く解ります。私もそうでした」
「うちの姉と同じですね。手術は何時間掛かったんですか」
「12時間です。胸に電気メスを入れてパカッと開いて。身体への最大の侵襲行為と言われていますね」
手術に要した時間をそれとなく自慢気に話す私。
「ワーファリンは飲んでるんですか」とS。
「はい」
「私も飲んでます。物にぶつけるとすぐに紫色になって。ホウレン草を食べ過ぎて鼻血が出たこともあります」
Sは同類を得た喜びからか、笑顔を浮かべながらそう言った。
「そんなに食べたんですか」
「ええ、大好きなんです。朝、新聞見てたらバアッーと鼻血が出てびっくりしました。なんで鼻血が出るのか訳分からなくて。そしたら嫁に、あなた、昨日ホウレン草たくさん食べたでしょ、って言われて」
「それで病院行ったんですか」
「いえ、鼻押さえて止血しました」

「前のように動けなくなりました。疲れるんです。仕事でもパッ、パッ、パッと出来なくなりました」
Sの仕事振りが目に浮かんだ。
「おいくつになったんですか」
「57です」
「まだまだじゃないですか」
「そうですか」
「まだまだですよ。ストレスも心臓に良くないですから。大丈夫ですか」
「ストレス、ありますよー」
Sは背を反り気味にして、一段と声を高くして言った。
「そういう時はうまく躱して。心臓は感情に左右されますから。私も稀にドカッドカッと心音が鳴って、あれっと思う時ありますよ」
そんな話をしながら、最後はお互い大事にしましょうと言って別れた。

この時のSとの会話で呼吸の有り難さが思い返された。
寝ている最中、突然何かに起こされたようにいきなり目を覚ます。
と同時に、鼻と口にビニール幕が張り付いたような息苦しさが襲って来る。
急いで鼻を使って大気を吸い込んでも大気は満足に肺に届いて来ない。
鯉口のように口をパクパクさせても息苦しさは消えない。
闇夜が徐々に胸を圧し潰すような不安に襲われ、身体を起こし、不安を取り除こうと試み、救急車を呼ぶ機会をじっと見計らう。
幾夜、こんな目に陥ったことか。
呼吸が少しずつ楽になると、命がつながったことに安堵し、そしてその都度、呼吸の有り難さを思い知らされた。
無意識になされる呼吸と、見えない大気の存在。
生かされていることを肚の底から実感した。

某日、ノートルダム清心女子大学の名誉学長だった渡辺和子さんを紹介したテレビ番組で、ある一つの詩が映し出された。
心に残ったので書き留めておきたい。

 天の父さま
 どんな不幸を吸っても
 はくいき(吐く息)は
 感謝でありますように
 すべては恵みの
 呼吸ですから     (河野 進)