朴念仁の戯言

弁膜症を経て

苦悩の末に

私は23歳でマタギの世界に足を踏み入れたが、初めから自然や、自然との共生のことばかりを考えていたわけではない。
むしろ、狩猟を楽しむ気持ちのほうが大きかった。
転機となった出来事がある。
30代後半ごろ、有害鳥獣の駆除で仲間と一緒に春先の山に入った。
急な斜面の山場に出た際、岩陰から急に大きなクマが飛び出した。
私は反射的に銃を撃ってクマを仕留めたが、クマの後ろから生後3カ月ほどの子グマが現れた。
私が撃ったのは母グマだった。
そのままにするのは忍びないと思い、私は子グマを連れて下山した。
動物園など方々に連絡して引き取り先を探したが、どうしても見つからない。
そうこうしているうちに2週間が過ぎ、私の方も子グマに情が移ってきてしまった。
子グマを山に放して別れるという選択肢もある。
しかし、子グマは幼く、他の動物の餌になるのは目に見えている。
そのまま育てるわけにもいかない。
悩んだ末、私は自らの手で子グマの命を終わらせることを選んだ。
親グマを殺し、子グマから親を奪った責任がある以上、その命から背を向けるわけにはいかないと考えたからだ。
マタギの世界では「子連れのクマは撃つな」と伝わる。
クマの乱獲につながるというのが理由だ。
でもそうした風習とは別に、私の胸には切なさが込み上げ、しばらく立ち直れなかった。
銃を置こうとも思った。
「自分が辞めればクマを見る人がいなくなり、よりかわいそうなことになる」
数カ月間の苦悩の後、マタギを続ける決心をした。
自然というものに深く向き合うようになったのはそれからだ。
この一件は、私の人生観にも大きな影響を与えた。
たとえ山でクマに襲われて死んだとしても「ドンマイ」と言って笑顔で死んでいこうと心に誓った。
「やれるだけのことをやってダメならば仕方がない」
それは、普段の仕事であってもマタギでも、全力を尽くし、生ききるということだ。

マタギの猪俣昭夫さん(令和元年10月30日地元紙掲載)