朴念仁の戯言

弁膜症を経て

私の心がけ ⑥

それからの私は何事によらず、自我を捨てて素直に、人の手を感謝して貸してもらうように心がけました。
まして双手のない私は、誰の器にも入れるように、一つの輪の中へ融け込むようにと、努力しました。

それは決して封建的でも、自由束縛でもありません。
さあ、何と申し上げてよろしいのか、私には皆様にわかっていただくように当てはまった言葉がわかりませんが、強いて申しますならば、すべてが純情と感謝とでも申しましょうか。
いつの場合でもわれを知り、自分を見つめました時、大抵がうぬぼれています。
自分の都合のよいように解釈しています。
そういう私が現在すでに、うぬぼれてこのペンを執っています。
人間最後までこの気持は抜けきらぬでしょうが・・・。

世界は皆、人の手によって助けられてゆくのではないでしょうか。
わかりきったことを申して失礼ですが、不自由な肉体の方々はなおさら人々の手を借りねばなりません。
人に手を貸してもらう者に、われの「我」を通しては、決して好感は持っていただくことはできません。

今一つ申し上げたいのは、時を待つということと、許すということです。
また心づけば謝罪することです。

すべてのことは、時が解決することとは誰しも知るところです。
不自由な者は、とかく心がいらだちますが、人の手を待つということに努力しなければなりません。
また、如何なることを人から受けましても、怒る前にまず、自分を見つめますと、その人ばかりを恨むわけには参りません。
知らず知らずのうちにも何処かに、自らを省みるかげを残してあるかもしれません。
今から思えば、お愛さんも人に言えない苦しい生活をし、世間を狭い思いで暮らしていたでしょう。

※仏光院の大石順教さん(「無手の法悦」(春秋社)より)

 

心の声

4人だけの男だけの職場。
なぜこのメンツで仕事をしているのか、ふと考える。
しゃべりたくなければ黙っていればいいし、他愛もない会話に愛想付き合いすることもない。
気を遣う必要もなく気楽だが、そのせいで投げ遣りで雑な気遣いになっていることに気付く。
気付いても改めようとは思わない。
必要最小限の社交態度で距離感を保ち、他人行儀の協調でやり過ごしている。
面白くも何ともない職場だが、日に三度の飯にありつけ、喰いたいものが買え、定期的に病院に通え、暖房の利いたわが家で不安なく過ごせる日々を提供してくれる生活基盤の基と思えば感謝しかない。
だが、職場が生きる力を削ぐ場となれば話は別。
生活基盤がどうのこうのと言ってはいられない。

「~すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時間問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先だけではなく、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである」

これは、アウシュビッツ収容所で言語に絶する過酷な体験をしたビィクトール・フランクル著「夜と霧」の中での一節。

今も昔も政治や社会は、何が正しくて正しくないのか分からなくてしているが、正しい答えはわが心が発するものと信じている。
果たしてその声はこれまで聞こえていたのか、それともまだ発せられていなかったのか。
恐らく聞こえていたのだろう、弁膜症を経て今生きているということは。

心の声を聴く。
老境期、そして、いずれ還る場所に向けて、その耳を研ぎ澄ます。

 

血の出るような思い ⑤

私は体をかたくして、丁寧に校長先生に頭を下げました。

「私(わて)、今この土地の寄席に出ています両腕のない芸人でおますが、カナリアに字を書くことを教えてもらいました。先生、どうぞ私に字を教えておくれやす、筆は口に慣れましたが、字を知りまへんので」
と、始めからカナリアを見て口で字を習いかけたことを、くわしく申しました。

校長先生はわかってくだすったようで、先生のお顔にはやわらかな感激の色が流れていましたが、
「よくわかりました。しかしあなたのその体で、この学校に入学させてあげることはできません。いや、この学校でなくとも、日本中どこの学校でもむずかしいここと思います」

「先生、私のような肩輪者は、入学を許してもらえないのですか」

「今のところ文部省ではどうすることもできないようです。不具者は家族の者の責任として、保護をすることとなっています。不具者もそれを受けるに決して恥ずかしくないのです」

「先生、お言葉を返して失礼ですが、不具者は、家族に養ってもらっていることが幸せなのでしょうか。肉体的に恵まれている人は、どんなお仕事でも、いかなる生活でもできますし、幸福な月日もありますが、不具者は何で生きるのでしょう。不具者だから学んで、世の中に何かを残さねばならないと思います。私ばかりでなく、多くの不具者は、家族の厄介者として一生を暗い気持ちで終わらなければならないのでしょうか。不具者こそ、学んで一人立ちできるように、学問が必要ですし、普通人以上の教養を高めねばならぬと思います。先生、どうぞ私を学ばせてくださいませ。私、どんな努力でも惜しみません」
と校長先生に申しました。私の一言一言を頷いて静かに聞いておられました先生の、おやさしいその眼は、ますます私の心の底に、深く食い入りました。

「先生、私のこの無理なお願いは私一人のためでなく、不具者の多くが苦しんでいる願いではないでしょうか。不具者は肉体的な悩みから精神的の悶えに、二重の不具者となってしまいます。学問をして勉強すれば教養も高まり、自然と救われることと思われます。先生、どうぞお力になって、不具の子供たちにも入学を許してやってくださいませ」

私は血の出るような思いでこう申しました。先生はしばらくお考えになっておられましたが、
「では、こうしましょう。3年の男の先生にやさしい方がありますから、その先生に後でよく話をして、あなたのおられる処まで教えに行ってもらいましょう。それならばよろしいでしょう」
といってくださいました。

先生のこのお言葉は、どんなにか私を感激させてくだすったか知れません。あまりの嬉しさに止めどもなく涙が出まして、しばらく返事ができませず、ただ頭を下げるばかりでありました。
先生もお眼鏡をはずして、ハンカチで眼がしらをぬぐっておられました。
先生に幾度も幾度もお礼をのべ、突然伺ったことの失礼を詫びながら校門を出ました。


口に筆取りて書けよと教えたる
鳥こそわれの師にてありけれ

※仏光院の大石順教さん(「無手の法悦」(春秋社)より)

 

 

悲しみの涙 ④

捨て身の修行者が断崖から飛び、羅漢果(らかんか)を得た悦びと申しましょうか、私は自由に筆が動くうれしさで、胸がおどるのでありました。

さて、筆は思い通りに動く、さあ、何という字を書こう、と白紙に向かいました時、私の眼から大粒の涙が紙の上にぽたりぽたりと音を立てて落ちるのでありました。涙は止めようもなく流れ出ます。

私は幼い頃からあまり自分のことでは泣かなかったのですが、この時初めて心の底から泣きました。

この涙は、決して双手のないことを悲しむ涙ではありません。私の今申し上げるこの時の涙は、私の頭の中に字を知らなかったことなのです。

頭に何の字の知識も持っていなかった。あまりに空っぽの、教育も教養もない私、思いを表す一つの字もない哀れな私。踊りや鳴り物や三味線やと、小さい体の私は幼い頃から遊芸ばかりで、頭の中一ぱいにつめ込まれまして、重い荷物を負わされてきました。その中で一番大切な物が欠けていました。字を教えてもらわなかった。いや、私も遊芸ばかりに気をとられて、うかうかとしていたのでした。

学校へは行っておらなかったのです。今日から見れば、そんなばかばかしい話があるものですか。しかし60年前には、さしてやかましくもいわなかったのです。甚だしいことには、女の子に学問させると、生意気になるなどともいい、親の頭をおさえて理窟屋になるともいったものです。

私はその例に洩れず、ために文字を知らなかったのです。その意味で空白の過去が今、一度に眼の前にさらされて流れた、悲しみの涙でありました。

肉体的の不具者であっても、精神的の不具者になるまいと、一生懸命に努力をつづけている私が如何(いか)にも哀れでありました。口から思わず筆を落としまして、机の上に泣きふしました。

父も母も、幸い次の部屋にいて気がつきませんので、私は泣けるだけ泣きました。

すると私の耳もとで誰かが泣くな泣くな、泣く暇で学べ、心を落ち着けて学ぶのだ、学校へ行け、学校へ行って頼むのだ、そういったような声がいたしました。私はその声に引きずられてフラフラと部屋の外へ出まして、旅館をあとに、仙台の町を夢遊病者のように歩きました。

すると大きな建物が私の眼に入りました。それは小学校の門でありました。

私はこの門の字が何と書いてありますか、無論、知るよしはありませんが、忽然として、心の露を払われました。私の魂を蘇らせてくれた金字塔の現れでありました。

私は心を決して、この学校の門をくぐりました。19歳の双手のない、誰一人として見る者のない姿をした私を、学校の小使(こづかい)がもてあましたのも当然でした。

それはそのはずです。この未知の娘が校長先生に会わせてくれと、誰の紹介もなく飛び込こんできたのですから、小使も手をやいたのです。

ようやくのことで、私は校長先生の室(へや)へ導かれて参りました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

小鳥の教え ③

人は誰でも物質が一番先にたつように申しますが、私は物質よりも他に求めている物があるような気がしておりました。

ではそれは何である、といわれましたら、さあ、何でしょう、自分でもわかりませんが、私の心は槌(つち)の下でうちひしがれた藁のように力ないものですが、そのわからぬ何物かを求めて日を過ごしておりました。

ところが私の心に電気が触れたと感じた、まことに得がたいものを見出しました。

それは仙台でのことです。青葉城下の小野清という旅館に泊まっていました。5月中頃のある日の午後、旅館の縁側に出て、ぼんやり庭の若葉を見ておりました。梅の枝には、小さな小鳥の籠がつるしてありました。私は、その籠の中をそっと覗いてみますと、雌のカナリアは巣の中で卵を抱いていました。そうして雄は、雌の口の中へ餌を運んでいました。

19歳になった私の眼は、世にも偉大な奇蹟を発見したように輝いたのです。

翌々日はその卵がかえり、小さな雛になってピイピイ鳴いていました。私は、雛の口へ親鳥が餌を運んでいるのを、何物にも替えがたい感銘と、興味をもって眺めていたのです。朝、眼を覚ましますと、このカナリアの籠の下へ行き、小鳥の動作を見ることが何よりの楽しみとなりました。

雛は日に日に大きくなってゆきます。親鳥は繁く餌を運ぶのでありました。この小さな籠の中で何の不安も悲しみもなく、雛の成長を喜んで、ほがらかに歌いながら立派に家庭を楽しんでいます。この鳥たちは羽根があっても手がない、しかもその自由に飛べる羽根は、小さな籠の中なので、限られた場所より動きがとれないのです。けれども、賢明な鳥たちは、手のないことも自由に飛べないことも嘆いてはいない。何という強い信念、尊いものを持ったものだと感心して見ておりました私は、自分のおろかさが恥ずかしくなりました。私は今日まで、この3年間、何をして生きてきたのでしょう。ただ無意味な日々の生活、無駄な月日を送ってきただけでなく、味気ない世を怨んだり、悲しんだり、はかなく時を過ごし、頭を疲れさせてきたのでした。そう思い返してくると、このカナリアの努力にはしみじみと頭が下がるのでありました。

手のないことがなぜ悲しかろう。不具者が何だ、私にはカナリアと同じ口があるではないか。しかも私の体は自由に何処へでも行くことができる。このカナリアは、広い世界に、たった一つの籠の中よりほかに行く処がないのだ。私は初めて、心の眼が大きく開いたような気がしました。

私は字を知らない。けれども口で字を書くことができたなら、私はどんなに楽しかろうし、私は努力しよう、カナリアのように努力しよう。そして字を学ぼう。

カナリア、有難う、私は一生、この恩を忘れない。

私はもう、矢も楯もたまらくなりました。私は部屋へ急いで帰りまして、
「お母さん、私(わて)、字を習いますねん。筆と、墨と、紙と、買ってきとおくれやす」
と言いますと、母はこの突然の願いにびっくりして、私にとりすがろうとしました。
「お母さん、私、口で字を書きますのや。カナリアが教えてくれました」

そのようなことを言う娘に、母は呆れていましたが、傍(かたわ)らで私の顔をじっとみていた父の顔には、喜ばしい表情が、さっとひらめきました。

「そうか、よし、俺が買ってきてやる」
と言葉が終わらぬうちに、もう部屋を飛び出して行きました。母は娘のこの願いは無理と思いながらも、私の熱心に打たれて、部屋の窓寄りの処に机を据えて待っておりました。父は間もなく、筆と墨、紙などを買って帰りました。その日から私は筆を口にくわえて、幾度も幾度も落ちそうになるのをいろいろと工夫をして書いてみました。涎(よだれ)が軸を伝わって紙をぬらしますが、それも日ならずして止まるまでに成功しました。

私は寄席の楽屋にいても、高座にいても、心は一本の筆の先に走っておりました。筆を執ってから4日目のことでありました。筆を一人で口に拾い上げ、筆の毛先と、私の眼と、口にふくむ軸と、歯と、姿勢と、この五つの呼吸がぴったりと合って、筆が自由に運べるようになった時の私の悦(よろこ)び―今でも忘れることができません。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

ピカピカ電気で疲れ切った並木

「ライトアップは電力の無駄遣い」に全面的に賛成です。
光のページェントやら何やかんやいって、並木になんか電気をつけて喜んでいる。
樹木だって夜はゆっくり休みたいはず。
それなのに一晩中、ピカピカ電気をつけて「並木いじめ」をしている。
並木は黙っているけど、よく見てください。
葉も根も疲れ切っている。
このしっぺ返しは必ず来ます。

以前、テレビで宇宙から夜の地球を中継していて「日本は明るく輝いていますね。北朝鮮は真っ暗」と言っていた。
私は何でこんなことを言うんだと悲しかった。
夜の夜中に国中がピカピカ明るい方が間違っている。

人間は自然とともに生きてきた。
夜は草も木も虫も人間も一日の疲れを癒し、明日への希望を胸に静かに眠る。
でも今の日本にそれを求めるのは難しい。
「知足」の精神を今の日本人は忘れているから。
このまま突っ走って行くところまで行くしかないのだろう。
行きついた果てに何があるか?
戦中戦後と地獄の経験をしてきた私にもそれは分からない。

郡山市の佐藤キク子さん90歳(平成31年2月2日地元紙掲載)

 

内で習いが外で出る ②

それは、私が15の年の正月だったと記憶しております。私が家のご不浄から出て参りますと、そこにお義父さんが立っていました。そして私に、

「妻吉(つまきち)、お前、今年いくつになった?」

「私(わて)、15になりました」

「ふうん15にな、15の娘がご不浄に入ることを知らんなあー、わしは今この便所(はばかり)から出てきて、ちゃんと草履を向こうむきに一足揃えてぬいでおいたんやぜ。けれどお前が後から入ってぬぎすてた草履を見れば、一方は横むきで一方はこちらをむけてぬいである。何の気もなく足にかけた草履だが、心がけて入れば、先の人が後の人の履きやすいように、揃えてぬいであったように、お前も後の人の入りやすいように、向こうむきにぬいでおくのが道理やろ。そんな行儀の悪いぬぎ方をする者は、便所の中でも行儀が悪かろうな。その後へ誰かが入ったとしたら、心ある人は必ず気がつくだろう。用に行く時は気も焦々(いらいら)しているが、用をしてしまえば落ち着いているんやから、自分は汚していないだろうかと、一応は見直して一滴でも汚していたなら紙で拭き取っておくこと、また常々心がけて用をしておれば汚れることもなかろう。お前のすることは無茶人のすることだと、義父さんは思う。茶というものは、茶席に入っている時だけが茶でない。いかなる場合も茶でなければあかん。昔から心ない人のことを、あれは無茶な人やともいうくらいだ。他の妓(こ)どもたちはともかくも、日本一の踊りの師匠になるつもりなら、何から何まで修行が一番だぜ。金銀財宝が山ほどあっても、行ないのできぬ者は何の財産もない人だ。義父さんのような身をくずした者でも若いころからの習慣はこわいもので、氏(うじ)より育ちや。どんな生活していても、無茶人にはなるなよ。一事が万事で、″内で習いが外で出る″というけど、日常の暮らしが何事にでも行き届くように、物の始末が肝腎だから、よう心がけておくれ」

お義父さんはそう言ってしみじみと私に注意してくれるのでした。下駄のぬぎ方一つでも、私には厳しかったのです。それなればこそ、あの血みどろの中で生死の境にいた私が、蒲鉾板の在処(ありか)を人に言えたことと思います。病院の草履も心にかかりまして、乱雑にぬいであった人々の足あとの始末をしたのでしょう。

私のささやかな草庵も、ご不浄だけは気をつけております。また必ずご不浄の中には一輪の花を挿してあります。美しい花を見ておれば自然と汚さぬ心にもなるでしょう。45年前、養父の残してくれた訓(さと)しの言葉を、今なお有難く思うております。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より