朴念仁の戯言

弁膜症を経て

使命に生きよ ①

(「堀江遊郭6人斬り」から生還して退院時のこと)

私はいよいよ今日、退院することになりました。院長さんを始め、婦長さんや、その他の先生方、看護婦さんたちに、お礼やらご挨拶に参りました。さてこの病院を出るとなれば、何となく心残りでもあり、4年ぶりで実家へ帰られる懐かしさもあり、心が落ち着かないのです。婦長さんの室へ参りますと、笑顔で私を迎えてくださいました。その時の婦長さんの言葉を、こんなふうに心に記しています。

″いよいよご退院おめでとう。良かったですね、お元気になられて。今だから申し上げますけれど、あなたは、とてもとても、あの重態では助かる見込みはなかったのですよ。奇蹟と言いますか、不思議と申しますか、夢のようですね―そりゃ院長も先生方も、私たちもみな一生懸命でした。あの時あなたも死んでしまっておられたら、あの事件はどうなったでしょうか。証人としても、参考人としても、あなたの生存はまことに尊いものでした。変な言葉でしょうが、大きなお仕事と言いますか、立派な役目をなさいましたね―ところで私は、あなたへお別れの言葉として言うてみたいことがあります。まあ、そこへおかけなさい。
私の今言いますことをよく耳へいれておいてくださいよ。あなたの助かられたのは院長の力もありましょう、先生方のご同情も多分にありましたでしょうが、しかし、そればかりではないのです。あなたの気丈夫、それもありますが、もっともっと、大切なものが、尊いものがありました。それは何でしょうか、わかりますか、おわかりにならないでしょう。
では申しましょう。それは神様です、仏様です。神様はあなたという人を助けて、世の多くの哀れな人たちのために、不具の体となったあなたを使い、あなたが受けた大きな犠牲を生かして、不具の方々の友だちとも姉妹ともなって、清く美しく、世のため人のために尽くすようにと、お考えになったのです。神の使命(つかい)、仏の御子として、神仏に助けていただいたことを無駄にしては勿体ないと感謝して生きてください。これからのあなたの生活には、なみなみならぬ辛い悲しい年月がありましょう。人にも言えない世の中の浪(なみ)に溺れる時もありましょう。また真っ暗な人生の茨(いばら)の険しい山や谷があるでしょう。それは神仏が、あなたなれば、この使命を負うだけの覚悟が持てると思召(おぼしめ)して、助からぬ命を助けてくださったのです。私の言いましたことをいついつまでも、忘れずにいてくださいよ―‶

婦長さんは厳粛に、そして真剣に私に言われるのでした。婦長さんの眼は美しく清らかに、私の顔をじっと見ておられました。その犯しがたい顔といい、その中にも優しい眼差しは、45年後の今日になりましても、私の瞼(まぶた)の中に、尊い女神かマリアのようなお姿として残っています。その時、私は言いました。
「私は、そんな、そんな尊い使命とやらを受ける値打ちのあるものではございません」

「いいえ、あります。では申しましょう―覚えているでしょう、麻酔が覚めて、判事さんから万次郎を憎いと思うかと問われた時、あなたは、いいえ憎しみも怨みもしません、お養父さんの罪が軽くなるのやったら私どんなことでもしてあげたい、と言いましたね―あの言葉、あれが神様の思召しです。罪を許すことです。罪を憎んでも人を憎まぬ心です。あの重態で、あの言葉が出てくるのは、あなたのというよりも、神様のお声です。あの時の心を忘れずに、どんなに人に虐(しいた)げられて、辱(はずかし)められても、堪忍するのですよ。神様や、仏様の試練と思って、忍んだ上にも忍んで、強く強く生きてくださいよ。
今一つのことを申しましょう。それはあなたが、院内の廊下を歩くようになられた時に、よくご不浄のお草履を揃えていましたね。いつもいつも、患者さんやその他の人々が、乱雑にぬぎすててある草履を、あなたはいつも足で行儀よく揃えていました。あの心持ちが陰の徳の行ないです。私は遠くから見ていて感心していました。五体のととのった人のぬぎすてた草履を、両手のないあなたが始末をしてゆかれる。尊い徳の行ないです。―何事もその心でいてください。またこの後、何か私にできることがあればご相談してください。本宅のほうへも遊びにいらっしゃいね―」

と婦長さんは重ねて言ってくださいました。
わが娘に言い説(き)かせるようにしみじみと語ってくださる婦長さんの言葉は、私の心に本当に有難く浸みて行きました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦(むてのしあわせ)」(春秋社)より

 

感服する思い

生きてこそ生きてこそ咲く老いの花   佐藤良子

川柳三日坊主主宰・県川柳連盟副会長の佐藤良子先生の作品です。
私事になりますが、昨年4月にがんの手術、それから半年間抗がん剤治療での入退院生活を送りました。
その際いただいた見舞状に添えられた句です。「わが心の川柳」そのものです。

先生は80代で2年続きの大けがをしました。にもかかわらず同じ年の三日坊主記念大会には杖も突かずに登場し、「えっうそっ」。5年たった今でも感服する思いです。

川柳が老いの歯止めの処方箋     良子
弱音吐く場所に「立ち入り禁止令」  良子
寂しさを噛んでなお噛む老いの坂   良子

ことあるごとに人生の示唆をいただき、尊敬の念は深くなるばかりです。
同じ道の先達に見習う方がいることは幸せです。と言って先生のパワーにはほど遠い限りですが。

亡娘も我もひとつ宇宙に棲む命    良子
諦観と言う人生の知恵がある     良子

※いわき番傘植田川柳会長の篠原房子さん(平成31年1月20日地元紙「わが心の川柳」より)

 

下手な川柳を一首。

溢れ出る己(おの)が貪欲厠(かわや)にて   朴念仁

 

 

指し続け うつ乗り越えた

闘病つづった本が話題  先崎学 九段
将棋の先崎学九段(48)は才能豊かな棋士として知られているが、2017年にうつ病を発症し、約1年間休場した。回復までの日々を赤裸々に描いた「うつ病九段」(文芸春秋)を出版、話題を呼んでいる。人気棋士はどう病気を乗り越え、元気を取り戻したのだろうか。

体調がおかしいと感じたのは6月23日でした。なぜ正確に覚えているかというと前日が47歳の誕生日で、とても楽しい一日を過ごしたからです。
朝、頭が重く、疲れが取れません。一時的なものかと思ったのですが、日に日に眠れなくなり、得体のしれない不安に襲われて、対局にも集中できません。精神科医の兄に相談すると、すぐ飛んできました。

病院で検査を受け、うつ病と診断されました。その後も回復のめどは立たず、駅のホームから電車に飛び込むイメージが日に何十回も頭の中を駆け巡ります。兄のアドバイスもあり、7月、入院しました。
この頃はうつ病の全盛期で、頭がボーッとして体はフワフワ。死までの距離も近く感じました。藤井聡太七段の連勝記録が話題だった時期ですが、ブームになっていたことも知りません。8月初めの自分の対局は指したいと思っていましたが、結局、治療に専念することになりました。
入院中、看護師さんと一度だけ将棋を指しました。普段はアマチュアの方とは飛車や角の大駒を落として指すのですが、この時は(落とさない)平手で、それでも勝つのがやっと。自分が将棋を指している感覚がなく、初めての経験でした。

約1カ月で退院し、リハビリ期間に入りましたが、とにかく疲れやすく、プロ復帰には大きな不安がありました。
10月、女流棋士2級の高浜愛子さんとボクシングジムで汗をかいた後、焼き鳥屋に行きました。仲間と会うのは久しぶり、と話すと、「光栄です」と言われ、感激しました。自分はまだ価値がある存在かと思うとうれしく、この言葉を忘れることないと思います。復帰しよう、という思いが湧いてきました。
それからひたすら将棋を指しました。簡単な詰み筋が分からず、現役は無理では、という不安もありました。また、7手詰めの初心者向けの問題集が解けず、死ぬよりつらいときもありました。うつ病は脳の病気であることを実感しました。

携帯電話に兄から連日のようにLINE(ライン)が来て、「必ず治ります」という激励がとても心強かった。
病気のことをまとめてみてはという兄の勧めもあり、本を書き始めました。時間的余裕もありましたが、何より生産的な仕事がしたかった。原稿用紙にコツコツ書いて、2カ月半ほどで仕上げました。
淡々と事実を書きましたが、出版後は多くの反響がありました。同じ病で苦しんでいる人には、治る病気だと伝えたい。本を読み、前向きに感じてくれた人が多いことはうれしく思います。

18年4月1日付の復帰が近づき、早く指したい気持ちの一方、緊張感もありました。7月、叡王戦の予選で高橋道雄九段に勝ち、ようやく白星をつかみました。相手が勝手に転んだのですが、勝った瞬間は妙な気分でした。小指も震えていたように思います。

将棋はストレスのかかり方が普通でなく、紙一重の実力の世界です。でも指すことでうつを乗り越えられたのだから、指し続けるしかありません。今はすっかり元気になりました。

平成31年1月14日地元紙掲載

 

明治維新は緊急避難

一等国の夢

明治維新はなぜ起きたのか。
そして維新という選択は、この国の在り方にどのような影響を与えたのか。
日本近代史家の渡辺京二さんは、西欧列強に対するおびえが武士らを突き動かし、国家主義につながったと語る。

江戸末期の日本は幕府、朝廷、そして雄藩に権力が分散していた。このまま生き馬の目を抜くような国際社会に出て行くと、外国の餌食、植民地となる恐れがあった。この強烈な危機感の中、生き残りのために中下級の武士、いわゆる志士らが立ち上がったのです。

権力を一元化して統一国家をつくるには有力な藩や朝廷による合議体とするのか、幕府を倒すのか二つの方法がありました。そこで朝廷の岩倉具視薩摩藩大久保利通らが陰謀を巡らせ、将軍・藩主を超える忠誠の対象として天皇を担ぎ出し、倒幕したのです。

この明治維新の作業は、西洋近代文明への衝撃、そして列強の恐れからくる緊急避難だったのです。人民をより幸せにするといった理想に基づいたものではなかった。

〈明治政府は1871(明治4)年、新国家建設のため岩倉や大久保らを欧米諸国に派遣した〉

既に国民国家を確立していた欧米は、世界の各地に植民地を持って競い合う状況にあった。これらの国と互角にやり合うには、日本も強兵のために国を豊かにする富国強兵しかないと大久保らは覚ったのです。
だから明治国家をつくった中核の人のほとんどは、個人の権利や自由よりも国を優先する国家主義ナショナリストになっていきました。

お上の権威も、江戸時代よりもはるかに強力にしました。明治憲法が定めた天皇の在り方は、それまでの歴史上、一度も存在したことのないような異様なものです。皇帝、絶対王政の君主のような存在になりました。

確かにジャーナリズム、文学、芸術、人権の尊重といった思想、民権の自覚、議会制度など魅力的なものが西洋から入ってきましたが、これはあくまでの変革の随伴物としてです。文明開化も、シャバを少しでもいいものにという民間の動きでした。

1904年に始まった日露戦争に勝利した日本は一等国、大国の仲間入りをしたと喜びました。幕末や明治の初めに欧米の外交使節にばかにされ、強い劣等感が残っていたから、一等国になりたくて仕方なかったのです。

国内でも幕末の思想家横井小楠や、西郷隆盛のように、東洋の道義を守ろうという意見もあった。急に変革するのではなく、緩やかな近代化、内発的な発展と言える、もう一つの国づくりの可能性もあったはずです。

〈戦後の日本は戦前の軍事国家、警察国家の全面否定から始まった〉

79年に日本的経営を高く評価した「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が発表され、経済大国と評価されて一等国願望が復活した。傷ついたこの国の自尊心を取り戻そうとしています。

今でもオリンピックでのメダル数や、世界の大学ランキングで何位かを競っている。国際的な威信や名声を高めることに躍起になっている。

しかし、幸福度が高いと言われているスイスとか北欧の国は大国と呼ばれているでしょうか。日本社会は満足感、安心感、そして充足感を、暮らす者に本当に与えているでしょうか。

明治維新が残した一等国の願望、国家主義の尻尾をもう引きずる必要はないはずです。このナショナリズムをそろそろ卒業しなければ、戦争に負けた意味がないのではないでしょうか。

※平成30年12月28日地元紙「このときから始まった 150年の軌跡」より

 

透明感のある歌

四月より五月は薔薇のくれなゐの
明るむことも母との世界          相良 宏

わが坐るベッドを撫づる長き指
告げ給ふ勿れ(なかれ)過ぎしことは       宏

相良宏は肺結核で1955(昭和30)年に30歳の若さで病没した。
特効の抗生剤ができるまでの長い間、安静に療養する以外に手立てがない難病であった。
特に伝染力の強い病気ではないが、隔離された環境で過ごさざるを得なかったようである。

4月から5月へ季節は装いを変え、紅のバラはさらに鮮やかさを増す。しかし、彼はいつものように母とのささやかな空間と時間の中にいたのだった。

療養の病院には彼が思いを寄せる女性がいて、彼のベッドのそばで談笑し、自分の過去の恋愛や結婚までも問わず語るのだろう。(僕はそんなこと聞きたくない。二人だけで語らう今この時間が楽しいのに)。女性は後に亡くなり、透明感のある歌の才能を惜しまれながら、彼も30年の生涯を終えたのである。

※高田短歌会の大越巌さん(平成30年11月25日地元紙「わが心のうた」より)


私も下手な歌を一首。

日一日(ひいちにち)母と過ごしつ此の時を
永久(とわ)に願ゐて姿見つめつ         朴念仁

 

大仏破壊 強い衝撃

知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くる
バーミアンの野にみ仏在(ま)さず        平成13(2001)年 皇后

複雑な人間心理の奥を詠まれた一首である。
宮内庁からのこの御歌(みうた)に対するコメントには「春深いバーミアンの野に、今はもう石像のお姿がない。人間の中にひそむ憎しみや不寛容の表れとして仏像が破壊されたとすれば、しらずしらず自分もまた一つの弾(たま)を撃っていたのではないだろうか、という悲しみと怖れの気持ちをお詠みになった御歌」とある。
行き届いた解説であるが、今となってはこの歌の背景には説明が必要だろう。

アフガニスタンの首都カブールから西北西へ120㌔ほど行くと、バーミアンと呼ばれる峡谷があり、1世紀ごろから作られたという千窟もの石窟仏教遺跡があった。20世紀に入って、そのおびただしい仏像彫刻や仏教美術が、一躍世界の注目を集めることになった。特に偶像崇拝を否定するイスラム教徒によって顔を剥(そ)がれた大仏などは、写真を通じて世界にもよく知られていた。
昭和46(1971)年、時の皇太子皇太子妃は、はじめてアフガニスタンを訪問された。
カブールだけでなく、三日間の地方の旅にも出かけ、かつてジンギスカンが孫を殺されたことを怒り、人々を皆殺しにしたという〈幽霊の町〉シャーリ・ゴルゴラの丘にも登られたりもしたが、バーミアン訪問は大切な目的地であっただろう。

バーミアンの月ほのあかく石仏(せきぶつ)は
御貌(みかほ)削(そ)がれて立ち給ひたり     皇太子妃(昭和46年)

この歌が入った歌集「瀬音」のあとがきには元女官長松村淑子が「このバーミアンで、両陛下は丘の上のテント(パオ)にお泊りになったのですが、この夜バーミアンの村人たちは、美しい星空を両陛下にお見せしたいと、一時(いっとき)、住居の明かりを一斉に消してくれたのでした。河鹿(かじか)の声のしきる、美しい一夜でございました」と記している。
「バーミアンの月」のもと、異教徒たちに顔を削がれながらも、しかし今も悠然と立っておられる大仏の姿に美智子さまは尊厳と慈悲の思いを深くされたのかもしれない。
そんな30年前の大切な記憶を持っておられた美智子さまに、平成13(2001)年の、タリバンによる大仏の爆破は、殊のほか強い衝撃を与えたことだろう。
1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻、96年にはアフガニスタンタリバンによって占領されることになった。そして2001年2月末に、タリバンイスラム偶像崇拝禁止に反するとしてバーミアン石仏の破壊を宣言したのである。
国連をはじめ、各国は一斉にそれに反対したが、タリバンは3月12日、西大仏、東大仏の二つの大仏を破壊してしまった。さらにその破壊の映像が世界に流され、大きな衝撃を与えることになった。美智子さまの御歌は3月、その事件直後に詠まれたものと思われる。

タリバンを批判することはたやすい。しかし一方で自分たちはアフガニスタンの民のために何をしてきたのだろう。アフガンでは何万人とも何十万人ともいわれる、多くの子どもを含めた人々が、飢えに苦しみ、そのために命を落としている。世界はそれに対して、決して十分な援助をなしてきたとは言えない。仏像破壊ばかりに世界は騒いでいるが、その破壊に手を貸しているのは、ひとりひとりの〈無関心〉ではなかったのかと、ひそかに自問されているのが、美智子皇后の一首ではなかっただろうかとも、私には思われるのである。

歌人・細胞生学者の永田和宏さん(平成30年10月15日地元紙「象徴のうた 平成という時代」より)

 

善良さと冷酷さ 

スズメの愛らしさは、誰もが認めるところだと思います。
しかし、信じ難いような冷酷性も併せ持っていることを知っている人は少ないかもしれません。
それは、ツバメに対する姿勢に象徴されます。
ツバメの巣は、短工期で作られた粗雑なスズメの巣とは比べものにならない、立派なものです。
スズメにとっては、きっと高級マンションに思えるのでしょう。

そこでまずスズメは、ツバメ夫婦の行動をじっと偵察した後、集団で数日にわたる猛攻を仕掛けます。
卵を破壊し、時にはひなを地面にたたき落とします。
結果的に、ツバメの巣はスズメ集団に占領されてしまい、ひな、そして卵まで失ったツバメ夫婦は、遠巻きにかつてのわが家を寂しく眺めるのみなのです。

スズメの愛らしさを、「善良」という言葉に置き換え、自分に当てはめてみた時、自分の体と心にも間違いなく善良さとこれに相反する冷酷さが同居し、スズメのレベルと大差ないことに気付かされることがあります。
それは、毎年、ツバメの季節がやってきた時です。

福島市の安藤洋康さん76歳(平成30年9月27日地元紙掲載)