朴念仁の戯言

弁膜症を経て

小鳥の教え ③

人は誰でも物質が一番先にたつように申しますが、私は物質よりも他に求めている物があるような気がしておりました。

ではそれは何である、といわれましたら、さあ、何でしょう、自分でもわかりませんが、私の心は槌(つち)の下でうちひしがれた藁のように力ないものですが、そのわからぬ何物かを求めて日を過ごしておりました。

ところが私の心に電気が触れたと感じた、まことに得がたいものを見出しました。

それは仙台でのことです。青葉城下の小野清という旅館に泊まっていました。5月中頃のある日の午後、旅館の縁側に出て、ぼんやり庭の若葉を見ておりました。梅の枝には、小さな小鳥の籠がつるしてありました。私は、その籠の中をそっと覗いてみますと、雌のカナリアは巣の中で卵を抱いていました。そうして雄は、雌の口の中へ餌を運んでいました。

19歳になった私の眼は、世にも偉大な奇蹟を発見したように輝いたのです。

翌々日はその卵がかえり、小さな雛になってピイピイ鳴いていました。私は、雛の口へ親鳥が餌を運んでいるのを、何物にも替えがたい感銘と、興味をもって眺めていたのです。朝、眼を覚ましますと、このカナリアの籠の下へ行き、小鳥の動作を見ることが何よりの楽しみとなりました。

雛は日に日に大きくなってゆきます。親鳥は繁く餌を運ぶのでありました。この小さな籠の中で何の不安も悲しみもなく、雛の成長を喜んで、ほがらかに歌いながら立派に家庭を楽しんでいます。この鳥たちは羽根があっても手がない、しかもその自由に飛べる羽根は、小さな籠の中なので、限られた場所より動きがとれないのです。けれども、賢明な鳥たちは、手のないことも自由に飛べないことも嘆いてはいない。何という強い信念、尊いものを持ったものだと感心して見ておりました私は、自分のおろかさが恥ずかしくなりました。私は今日まで、この3年間、何をして生きてきたのでしょう。ただ無意味な日々の生活、無駄な月日を送ってきただけでなく、味気ない世を怨んだり、悲しんだり、はかなく時を過ごし、頭を疲れさせてきたのでした。そう思い返してくると、このカナリアの努力にはしみじみと頭が下がるのでありました。

手のないことがなぜ悲しかろう。不具者が何だ、私にはカナリアと同じ口があるではないか。しかも私の体は自由に何処へでも行くことができる。このカナリアは、広い世界に、たった一つの籠の中よりほかに行く処がないのだ。私は初めて、心の眼が大きく開いたような気がしました。

私は字を知らない。けれども口で字を書くことができたなら、私はどんなに楽しかろうし、私は努力しよう、カナリアのように努力しよう。そして字を学ぼう。

カナリア、有難う、私は一生、この恩を忘れない。

私はもう、矢も楯もたまらくなりました。私は部屋へ急いで帰りまして、
「お母さん、私(わて)、字を習いますねん。筆と、墨と、紙と、買ってきとおくれやす」
と言いますと、母はこの突然の願いにびっくりして、私にとりすがろうとしました。
「お母さん、私、口で字を書きますのや。カナリアが教えてくれました」

そのようなことを言う娘に、母は呆れていましたが、傍(かたわ)らで私の顔をじっとみていた父の顔には、喜ばしい表情が、さっとひらめきました。

「そうか、よし、俺が買ってきてやる」
と言葉が終わらぬうちに、もう部屋を飛び出して行きました。母は娘のこの願いは無理と思いながらも、私の熱心に打たれて、部屋の窓寄りの処に机を据えて待っておりました。父は間もなく、筆と墨、紙などを買って帰りました。その日から私は筆を口にくわえて、幾度も幾度も落ちそうになるのをいろいろと工夫をして書いてみました。涎(よだれ)が軸を伝わって紙をぬらしますが、それも日ならずして止まるまでに成功しました。

私は寄席の楽屋にいても、高座にいても、心は一本の筆の先に走っておりました。筆を執ってから4日目のことでありました。筆を一人で口に拾い上げ、筆の毛先と、私の眼と、口にふくむ軸と、歯と、姿勢と、この五つの呼吸がぴったりと合って、筆が自由に運べるようになった時の私の悦(よろこ)び―今でも忘れることができません。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より