朴念仁の戯言

弁膜症を経て

特高からひどい暴行

伊藤博文が殺された1909年、三重・伊勢の漁村に生まれ、13歳で大阪の商店へ奉公に出た。クリスチャンの店主夫婦が教会に連れて行ってくれ、夜学にも通わしてもらって。トルストイなんかの本にも接することができて、普通の小僧さんよりはいくらか変わっとったんでしょうね。
牧師になろうと、同志社大を経て横浜の関東学院神学部に行ったが、満州事変で考えが変わった。日本のキリスト教育は戦争を容認し、満州国に教えを広めるため軍の手先になった。それに反対する考えを幹部に伝えたら学校を追い出された。
東京に出て日本戦闘的無神論者同盟という組織の職員になった。この団体は特高警察ににらまれていたが、私は文化活動のつもり。東大宗教学科出身の学者にも会えていい勉強になった。
小林多喜二が殺され、日中戦争南京事件…。治安維持法もだんだん強化された。結婚して都内に下宿していた34年1月のある夜、警察官が十手のような物を持ち、飛び込んできた。炭火に当たって本を呼んでいたら「逮捕だ」と。寝ていた家内と二人、共産主義団体に属していた思想犯として体一つで連れていかれた。
桜の木の棒で殴られ、鼻の下を何度もろうそくで焼かれた。今も痕が残っている。11カ月くらい幾つもの署を回され、南京虫で体が真っ黒になり、皮が剝(は)げた。
家内は先に釈放さたが、特高は女をなぶり者にする。嫌な思いをしたに違いない。起訴され、懲役2年執行猶予3年の判決。大阪へ戻り商売をしていたら、友達が作った社会主義のビラを持っていたとまた検挙され、約2年服役した。
憲兵特高治安維持法を使い、自治組織に入り込み国民を監視した。戦争を続け国体を維持するため、都合の悪い人間を刑務所に閉じ込めた。国の将来を担える人物が惜しげもなく特攻隊に送られた。何とも不合理でめちゃくちゃな話しだ。

(注)治安維持法 主に日本共産党の取り締まりを目的に1925年公布。3年後の改正で最高刑を死刑に引き上げた。思想や言論の自由の徹底弾圧に使われ、42年から終戦直前にかけての横浜事件では雑誌編集者ら多数が逮捕された。45年廃止。

治安維持法違反で逮捕された大阪府貝塚市の西川治郎さん(106)(平成27年4月15日地元紙掲載「語り残す 戦争の記憶」より)

 

餓死の島 生き延びる

その先どうなるか分からなかったけれど、うれしくて涙が出た。
駆遂艦(くちくかん)で南太平洋のガダルカナル島を撤退したのは1943年2月7日の深夜。
勇ましく、「隣の島までやっつけてやれ」と上陸した私たち一木支隊は、飢餓と感染症で骨と皮だけの姿に変わり果てていた。
食べられる動植物が本当に少ない餓死の島だった。
一木支隊の第二陣として42年8月27日に上陸した。渡された食料は少量のコメや缶詰など。敵陣の食料を奪うつもりだったが、激しい攻撃で近寄れなかった。
敗走してジャングルで半年間、野宿した。カエルも蛇もネズミもいない。腹ぺこで動けなくなるんだから。仲間を射殺して奪ったり、手榴弾を投げ込んで盗んだり。理性を失い、日本人同士が少ない食料をめぐって争っていた。人間のすることではないが、実際に見てきたことだ。
帰国できるとは夢にも思わなかった。安らかな表情で横たわる兵士の亡骸(なきがら)を見ると、死ねばかえって楽になると思った。でも自決用の手榴弾を手にすると、おふくろの顔が浮かんだ。生きて帰りたかった。
神に祈っても、泣いても、喚いても、食料が集まるわけではない。マラリアの高熱で体が震える日もヤシの実を集めた。苦い草も煮て食べ、何とか生き延びた。
撤退日。迎えの駆逐艦にボートで近づき、垂らされた縄梯子を必死に上がった。ここまで来たのに、甲板に上がった途端に安心して絶命する人もいた。力がなくて海に転落する兵士も相次いだ。
船でブーゲンビル島や広島を経由し、43年7月に列車で旭川に戻った。おふくろに会えるのがうれしかったし、会った時は一緒に泣いたよ。
近所で「鈴木からガ島の話を聞いたか」と憲兵が回っていた。どんな戦いだったか分かると困るから。皆飲まず食わずで死んだんだ。戦争なんてするもんじゃない。

(注)一木支隊 旧陸軍歩兵第28連隊(北海道旭川市)を基幹に編成された一木清直大佐が率いた部隊。グアム島から帰還中、米軍から飛行場を奪還する目的で急遽ガダルカナル島に派遣された。上陸した1885人中、1485人が戦死した。

ガダルカナル島攻防戦から生還した北海道旭川市の鈴木貞雄さん(96)(平成27年4月14日地元紙掲載「語り残す 戦争の記憶」より)

 

音楽支えに生き抜く

性同一性障害

「音楽なんて非国民と言われた時代でした」
戦後、国内外のオーケストラで活躍した元神戸女学院大教授の八代みゆき(89)。
戦時は東京音楽学校(現東京芸大)の学生だった。
幼いころから心と体の性が一致しない違和感を抱き、11年前に性別適合手術を受け、戸籍を女性に変えた。
まだ、「性同一性障害」という言葉が知られてない時代、性別への悩みを胸に秘め生き抜いてこられたのは、戦時否定された音楽を心の支えにしたからだ。

▷暗号は音符
1925年、青森県で生まれた。母はみゆきを産むと亡くなり、数年後に父も他界。東京にいた母の姉夫婦に引き取られた。学校の成績は全部「甲」でなければ駄目と厳しく育てられた。
「女の子の着物や髪飾りを見て美しいと思った」
男の子であることに違和感が芽生え、大砲のおもちゃをもらっても興味がなく、裏の川に捨てた。だが「男の子でしょ」と決めつけられ、髪飾りなど自分が気に入ったものは全て反対された。
「みんな、上のことを聞く時代。叱られても何も言えなかった」
そんな世の中に懐疑的になり、周りが信用できなくなった。
「性別への違和感を誰かに相談しようにも、どうせ理解してもらえないと諦めた」
唯一の心の救いが音楽だった。近くの教会でパイプオルガンの演奏を聞くと、嫌なことも悩みも忘れられた。旧制中学を卒業後、音楽の道に進んだのは自然な流れだ。
青く透き通った空が広がる1月中旬、東京・上野公園の旧東京音楽学校奏楽堂。かつて学んだ荘厳な木造建築を前に、みゆきは何度も「懐かしい」と漏らした。
「当時は芸大に受かっても、誰も喜んでくれなかった」
在学中の19歳の時に召集令状が届いた。
「耳が良かったから、仲間は潜水艦の音を聞き分ける聴音訓練に送り出された」
一方、みゆきの配属先は三重県鈴鹿市の陸軍第一気象連隊。チェロの練習に打ち込む生活とはお別れだった。
「気象情報を扱う通信手として乱数表を使い、暗号は音符に置き換えて覚えた」
一年足らずで体調を崩し除隊に。焼け野原の東京に戻るとあっという間に敗戦を迎えた。

▷性差ない世界
「ここから音楽が聞こえてきた」
敗戦直後の45年9月、焼け残ったスタジオで仲間と室内楽の練習中、突然米軍の憲兵が乗り込んできた。海兵隊員を一晩中踊らせるため、「徹夜でダンス音楽を演奏しろ」と言うのだ。
何とか乗り切ると、これが転機でまた音楽漬けの生活が始まる。50~60年代は米軍のFEN(極東放送)でも毎週日曜に自分の番組を持ち、オーケストラを指揮して30分の生放送をした。
「練習なしのぶっつけ本番。他のことを考える余裕はなくなった」
良く仕事で一緒になる女性がいた。ピアノを弾いていた安子(84)だ。
「スタジオで遅くまで仕事をした同志。そのまま住もうかって」
結婚しても二人の会話は音楽のことばかり。みゆきも自分のことは黙っていた。
「とにかく音楽に没頭して、そこに逃げた。性差を感じさせない世界だったから」
旧西ドイツなど国内外のオーケストラに参加して、一年のうち250日近く家にいないこともあった。

▷離婚し養子縁組
一方で、音楽の世界にも残る男性優位の風潮に反発もあった。
「戦前や戦中と変わらない」
みゆきは、神戸女学院大の音楽学部の教授時代、学内誌に「女たちよ」と題して、「オーケストラは男性だけの聖域ではありえない。クリエイティブなジャンルに性差を持ち込むな」と書いた。
「時代は移り、性の多様性も認められるようになった」
98年に埼玉医科大で国内初の公的な性別適合手術が実施され、社会の理解も進み始める。
「男である自分に区切りを付けたかった」
性同一性障害だと安子に打ち明けた。戸惑いを見せたが深刻ではなかった。
「もともとグレーゾーンと思っていたのかも。でも、向こうも音楽の世界にいて男も女も関係なかったから」
78歳の時、安子が付き添い、タイで手術を受けた。2004年、性別変更を認める性同一性障害特例法が施行されると戸籍も変えた。78歳の時、安子が付き添いタイで手術を受けた。
法律の規定で、性別変更は独身でないとできないため、二人はいったん離婚して養子縁組をした。戸籍上は親子となり、名前も「秀夫」から変えたが、安子が「みゆきさん」と呼ぶ姿は自然だ。
生活の中で、自分が性同一性障害だと意識することはなくなった。
「でも性の話に限らず、自分と違う人に対してこの国はまだ十分寛容ではない」
安子のように、社会全体が少数者を当たり前に受け入れてほしい-。みゆきが優しいまなざしを安子に向けた。

※文・帯向琢磨さん(平成27年3月21日地元紙掲載「戦後70年ゼロからの希望」より)

 

偏見は司法の場にも

隔離政策
「何の作り話ばしよっとか(しているんだ)!」
国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志市)の集会場から洩れてくる大声に、そばを通り掛かった入所者の男性が気付いた。
1951年10月から始まった殺人未遂事件の「特別法廷」初公判。白い幕の中をのぞくと、がっしりとした体つきの藤本松夫が証人の警察官に怒声を浴びせていた。
ハンセン病患者の裁判は事実上、非公開で行われた。「法の下の平等」を定めた日本国憲法が戦後公布されても、司法の場で差別が続いた。
その後、藤本は殺人罪を問われ、一貫して無実を主張したが、三度目の再審請求が退けられた62年9月14日、死刑を執行された。享年40。

▷戦中が一番幸せ
藤本は22年、熊本県菊池市の山間部の貧農の長男として生まれた。父親が早世したため、小学校は2年しか行けず、母親と畑を耕しながら日雇い暮らしの日々を送る。
戦争がはじまると徴兵検査を受け、このときにハンセン病を患っていることが判明したとみられる。片目がほとんど見えない障害もあり、兵役は免除された。
戦前親交があった菊池恵楓園入所者自治会長の志村康(82)は「徴兵で若い男がいなくなった集落で力仕事を任せられ、頼られる存在だった」と回想する。
終戦近くに藤本は結婚し、娘も生まれた。後年、恵楓園の仲間に「親子ともに元気で、母も初孫の顔を見て喜んでくれた。これからの一家のむつまじく、楽しい生活を思った」と語り、当時を懐かしんだ。
300万人の日本人が命を落とした戦争の間は、藤本の人生で一番幸せだったのかもしれない。
戦後から5年が過ぎたころ、藤本は突然地元の村役場から菊池恵楓園に入所するよう勧告を受ける。ハンセン病療養所に入れられたら、世間から一族郎党が差別されるのでは―。「らい病ではない」との診断書を入手するため、福岡や熊本の大学病院を駆け巡った。

▷火箸で扱う
ところが51年8月、藤本に入所を勧告した村職員宅でダイナマイトが爆発。藤本は真っ先に疑われて逮捕された。否認したが、殺人未遂罪で懲役10年の判決を受けた。
藤本は控訴審中の52年6月、拘置所から脱走する。
「私は無実だ。母と娘に会いたい」
だが警察の手が回り、実家に近づけない。畑の中の小屋に身を潜めた。
翌月、その村職員の刺殺体が発見された。当然、警察は藤本を疑った。五日後、警官は近くの畑で藤本を見つけると無抵抗にもかかわらず銃を発砲し、逮捕した。
再び特別法廷が開かれたが、ハンセン病への偏見を示すかのように、裁判官や書記官たちは証拠品を手では触れず、火箸で扱った。
遺体に20数カ所の刺し傷があったが、凶器とされた短刀には血が付いておらず、藤本の服にも返り血はなかった。起訴事実を全て否認したが、国選弁護人は検察側の証拠に全て同意した。
弁護士が欠席した公判で死刑が言い渡された。判決文には死刑を選んだ理由も書かれておらず、藤本の無実の訴えに司法は何も応えなかった。
大分市の弁護士で藤本の再審弁護団長の徳田靖之(70)は「戦前から続くハンセン病の過酷な隔離政策に司法も組み込まれていた」と指摘する。

▷戦後は2001年
ハンセン病は完治する病気だ。41年に米国で新薬「プロミン」による治療が始まり、欧米では戦後、在宅治療への切り替えが進んだ。日本でも48年にプロミン治療が導入されたが、偏見は容易に消えなかった。逆に患者を根こそぎ収容する「無らい県運動」が全国で吹き荒れた。
菊池恵楓園は1,000床も増床され、熊本県は空きベッドを埋めるために患者狩りに乗り出した。「菊池事件と無らい県運動は密接に関わっている」と志村と徳田は指摘する。
ハンセン病患者の隔離政策は、96年のらい予防法廃止まで続いた。熊本地裁が国策を「違憲」と認めたのは2001年。志村は「このときハンセン病患者に戦後がやっと訪れた」と振り返る。
藤本の遺族は「もうそっとしておいてほしい」と再審請求に消極的だが、無罪を信じる徳田の決意は固い。
ハンセン病患者を憲法の枠外で扱い、司法は罪のない人を死刑にした。この事件を解決しないと、自分たち法律家は許されない」
藤本は死刑執行の二カ月前、手記にこう残した。
「晴天白日(原文のまま)の身となったら、故郷に帰って働くだろう。幸薄かった母の老先を幸せでうずめ、娘の父であることを誇らしげに名乗ろう」

※文・岡本拓也さん(平成27年2月21日地元紙掲載「戦後70年ゼロからの希望」より)

 

「物」になって生きる

軍隊の不条理 訓練という名の虐待
山口県萩。日本海に面した人口約5万人の市は、吉田松陰高杉晋作ら、明治維新の原動力となった志士を多く輩出したことで知られる。今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」をきっかけに観光客誘致を図る同市には松下村塾など歴史的遺産に匹敵する名所がある。
丹下健三が設計、1996年に開館した山口県立萩美術館・浦上記念館だ。
萩出身の実業家、浦上敏明(88)が一代で収集した浮世絵と東洋陶磁の膨大なコレクションを故郷に寄贈したことから誕生した。
世界で3点しか確認されていない葛飾北斎美人画「風流無くてなゝくせ 遠眼鏡」など貴重な作品も多い。

「命懸けで集めたコレクションをすべて寄贈しようと思ったのは、病気や手術で死を意識したのがきっかけでした。もともと、19歳のとき、特攻隊で一度死んだ命だからね。恩を受けた人たちに恩返ししなければ死にきれない、と思った」
旧制の萩中学を卒業、山口高商(現山口大学)に進学。学徒勤労動員で下関市の工場で働いていた45年2月、赤紙召集令状)が届いた。陸軍船舶兵として愛媛県伊予三島(現四国中央市)の部隊に入隊。中隊長から「特攻隊であり間もなく出陣が決定している」と通告され、ベニヤ版製の長さ6㍍の特攻艇「マルレ」乗船を希望した。爆薬を積み敵艦に体当たりする人間爆弾だった。
だが、浦上と同じように集められた約30人の初年兵を待っていたのは、教育係と称する古参兵たちの暴力だった。
「初年兵を整列させ『貴様たちに軍隊を教えてやる』と言って、こぶしで殴る。30代前半で体がでかい班長に殴られたときは、部屋の端までぶっ飛んだ」
訓練という名の虐待は、連日連夜続いた。
「班長がサディストだったのか、何の理由もなく殴る。ほかの古参兵は班長が怖くて追従していた」
時には、初年兵全員が木銃が折れるほどのすさまじさで、尻を殴られた。翌日はトイレでしゃがむこともできなかった。

セミと呼ばれるリンチもあった。天井の梁にセミのようにつかまっている初年兵を木銃でつつき落とす。落ちながら「ミンミン」と鳴かないと、また殴られる。
「初めは腹が立ったけど、あるときから『自分は物だ』と思うことにした。『磨けと命じた靴に砂が残っている。靴様、申し訳ありませんと謝って舐めてきれいにしろ』と言われれば舐めた。人間じゃなく物だから平気だった」
半年余り、そんな日が続くと、「早く死にたい」と切望するようになった。「そう思わせるために、彼らは暴力を振るっているのかな」と思ったこともあった。
移動命令が出たのは、広島への原爆投下後だった。船で本土にわたり、遺体が累々たる広島市内を行軍し、海田市町(現海田市)の宿舎に着いた。そこで「出撃は15日」と言い渡された。だが15日の午後、船着き場に整列した特攻隊員たちに、船舶司令官は「戦争は一時中止となった。次の指示があるまで、ここでしばらく待て」と命じた。玉音放送を聞いていない部隊は、解散せず、古参兵は威張り続けた。浦上が、無茶な要求をする上官を呼び出し、叩きのめしたのは9月初めだった。
数日後、古参兵たちが浦上を殺害、戦病死として処理する計画を練っていることを、初年兵仲間が嗅ぎつける。彼らの協力で隊を脱走した浦上は、山陽本線の駅まで走り、停車していた列車の、石炭を満載した貨車によじ登った。丸一日後に萩に到着した彼は、自分をまるで幽霊のように見つめる父親に会った。息子の部隊は全滅したと、父親は伝えられていたのだ。

戦後復学した浦上は、卒業後、ビジネスマンとして活躍。清久鉱業社長、日本非鉄鉱業社長などを歴任する。その一方、30代から始めた美術品の収集にのめりこんでいく。地位や肩書にかかわりなく、鑑賞眼だけが問われる世界で、その名をとどろかせていく。
「浦上君は成績はいいし、相撲が強くて、優しくて、同級生は皆一目置いていた。そういう人間だから、戦後もこれだけの仕事ができたんだね」
萩中学の同級生だった松田輝夫(89)は言う。
浦上の脇腹には、軍隊で革のベルトで叩かれた痕が今でも残っている。
「暴力を振るったのは平凡な、普通の人たちでした。同じ日本人に対して、あんなに過酷なことをしたんだから、外地で日本の軍隊が何をしたのか…。戦争になると、普通の人が狂ってしまうんです」

※文・立花珠樹さん(平成27年2月16日地元紙掲載「戦後70年ゼロからの希望」より)

 

「更生の道」共に歩む

元受刑者
出所して4日目、カプセルホテルで目覚めた。
10年間の刑務所作業で得た報奨金約25万円の半分が消えていた。
上京の新幹線代、悪化した腰痛の治療費、宿泊費、食費…。
このままでは、また悪いことをしてしまう。
公衆電話を探し、暗記していた電話番号にかける。
電話先はNPO法人マザーハウス」。
理事長の五十嵐弘志(50)が出た。指定された待ち合わせ場所に急ぐ。
大野茂(仮名)は49年の人生の半分の近く、23年間が刑務所だった。今度の出所の前に、マザーハウスのボランティアと文通していた無期刑の男性に「困ったらここに相談したらいい」と言われた。出所後、行き場がなく、保護観察所や区役所を訪れたが、まともに取り合ってもらえなかった。
「これからどうするの」と五十嵐が問う。
「この社会でやっていきたいです」と大野。
「世間は厳しい。何か悪いことをすれば即、刑務所だよ」
「もう戻りたくないです」
大野の目に力があった。
「じゃあ、サポートしましょう」
五十嵐はすぐに宿を確保、二日後には生活保護も申請した。

▶聖 書
五十嵐は栃木県で生まれた。中二のとき両親が離婚。転校先でいじめられて不登校になり、不良グループに入る。高校は半年で中退、家出して仲間と遊んで暮らした。
18歳のとき就職、仕事も順調で結婚を考えた女性もいたが、女性の親に反対されて別れ、すさんだ。25歳のとき、別の女性に「乱暴された」と告訴され、否認したが懲役4年を宣告される。
刑務所は犯罪者が共同生活する場だ。犯罪のプロたちがいて手口を教え合い、組員は〝使える人間〟をスカウトする。
「まるで犯罪者の養成所だった」
五十嵐もその後、出所しては逮捕され、拘禁生活は約20年に及ぶ。
2002年、二度目の逮捕。ずっと連絡を取っていなかった母と妹を刑事が呼び出し、少年時代からの素行を告げて、母から「死んでほしい」という調書を取った。五十嵐は絶望し、怒り狂った。
留置所に30代の日系ブラジル人が入ってきた。金を貸した相手が返さないので喧嘩になり、怪我をさせたという。陽気で仲間思い、いつも神に祈っていた。
「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」
聖書を引いて五十風を諭すこともあった。
拘置所に移されると、聖書が読みたくなった。借り出して何度も読む。マザー・テレサの本にも出会い感動した。ある日、聖書「使徒言行録」の一節、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの言葉を読んでいたとき、「弘志、弘志、なぜ、罪を犯すのか」という神の声が重なった。号泣した。
神に祈り、自分が犯した罪を思いつく限り書きとめた。罪深さに愕然とする。はらわたをえぐられるようだった。キリスト者との文通や面会を重ね、生き直す決意を固めた。
刑が確定し、04年に収監。作業拒否で何度も昼夜間独房の懲罰を受けた。「更生の意志がない者とは一緒に作業したくない」と理由を述べた。一人で祈っている方が良かった。そんなとき、刑務官に言われた。
「ここに高齢受刑者の介護をする施設ができる。〝キリストの愛〟をやってるんだったら、見せてみろ」
認知症パーキンソン病の受刑者と同房で24時間、介護するようになった。
「初めは、下の世話もできなかった。文通していた人から『親だと思いなさい』と言われ、できるようになった」
刑務所にはいくつかの更生プログラムがあったが、一方的な講義が多い上、受講者は希望ではなく、刑務所側が決めた。06年の受刑者処遇法施行で、面会や手紙の制限が緩和されたが、すぐに逆戻りした。医療も劣悪。ひどい頭痛を訴えた受刑者が放置され、3時間後にようやく救急搬送されたが、戻って来たときは半身不随だった。徹底した管理は、社会で生きられない人間をつくる。彼らを助けるのが自分の仕事だと思った。11年末に出所。翌春、受刑者や出所者を支援するマザーハウスを設立した。

▶孤 独
今秋、マザーハウスにたくさんのクリスマスカードが届いた。仙台市児童養護施設の子どもたちが受刑者のために作ったカードだ。「一枚一枚見ていると涙が出る」と五十嵐。施設を運営するシスター)に五十風が頼み、交流が実現した。シスターは子どもたちに「あなたたちはまわりから、いろんなものを与えられてきた。今度は何かプレゼントをしよう」と話したという。
「刑務所で一番恐ろしいのは孤独です」
五十風の声に力がこもる。
「自分は社会から期待されていない、何の価値もないという思い。そこから脱出するには社会との関係、人との交流が必要です」
だから五十嵐は今日も、獄中に向けて手紙を書く。

※文・佐々木央さん(平成26年12月20日地元紙掲載「岐路から未来へ」より

 

世界は植物で創造

世の中の中心は人間であると、人は時折思い違いをする。
だが、言うまでもなく、今の世は植物が中心となって創造してきたものだ。
全ての生き物は、そのおかげで生きていられる。
植物は無機物や光から有機物を作ることができ、その産物は多くの生物を養っている。
光合成は生命界で最大の偉業と言うべきだが、植物の祖先はそれを35億年も前に編み出し、今日のような世の中を創造してきた。
今、世の中にある多くの事物は、植物の光合成によって生まれてと言っても過言ではない。
食料をはじめ、紙や衣類、洗剤や薬、道具や家など、目にする多くの物のもとは、植物が光合成により生み出したものだ。
産業、経済、宗教、芸術、文化も植物なしには成り立たない。
それだけでなく、目に見えない酸素やオゾンも光合成の産物だ。
私たちの心身の健康は植物によって支えられている。
「葉」という字は、くさかんむりと木の間に世があると書く。
まるで植物に囲まれて世の中が成り立っていることを象徴するかのような漢字だ。
この文字が生まれたころ、人と植物(自然)はきっと今よりもずっとそばに寄り添って生きていたのだろう。
植物からのメッセージが文字に込められているような気がしてならない。

ガーデンデザイナーの神田隆さん(平成26年10月30日地元紙掲載「自然な暮らしと庭づくり」より)