朴念仁の戯言

弁膜症を経て

特高からひどい暴行

伊藤博文が殺された1909年、三重・伊勢の漁村に生まれ、13歳で大阪の商店へ奉公に出た。クリスチャンの店主夫婦が教会に連れて行ってくれ、夜学にも通わしてもらって。トルストイなんかの本にも接することができて、普通の小僧さんよりはいくらか変わっとったんでしょうね。
牧師になろうと、同志社大を経て横浜の関東学院神学部に行ったが、満州事変で考えが変わった。日本のキリスト教育は戦争を容認し、満州国に教えを広めるため軍の手先になった。それに反対する考えを幹部に伝えたら学校を追い出された。
東京に出て日本戦闘的無神論者同盟という組織の職員になった。この団体は特高警察ににらまれていたが、私は文化活動のつもり。東大宗教学科出身の学者にも会えていい勉強になった。
小林多喜二が殺され、日中戦争南京事件…。治安維持法もだんだん強化された。結婚して都内に下宿していた34年1月のある夜、警察官が十手のような物を持ち、飛び込んできた。炭火に当たって本を呼んでいたら「逮捕だ」と。寝ていた家内と二人、共産主義団体に属していた思想犯として体一つで連れていかれた。
桜の木の棒で殴られ、鼻の下を何度もろうそくで焼かれた。今も痕が残っている。11カ月くらい幾つもの署を回され、南京虫で体が真っ黒になり、皮が剝(は)げた。
家内は先に釈放さたが、特高は女をなぶり者にする。嫌な思いをしたに違いない。起訴され、懲役2年執行猶予3年の判決。大阪へ戻り商売をしていたら、友達が作った社会主義のビラを持っていたとまた検挙され、約2年服役した。
憲兵特高治安維持法を使い、自治組織に入り込み国民を監視した。戦争を続け国体を維持するため、都合の悪い人間を刑務所に閉じ込めた。国の将来を担える人物が惜しげもなく特攻隊に送られた。何とも不合理でめちゃくちゃな話しだ。

(注)治安維持法 主に日本共産党の取り締まりを目的に1925年公布。3年後の改正で最高刑を死刑に引き上げた。思想や言論の自由の徹底弾圧に使われ、42年から終戦直前にかけての横浜事件では雑誌編集者ら多数が逮捕された。45年廃止。

治安維持法違反で逮捕された大阪府貝塚市の西川治郎さん(106)(平成27年4月15日地元紙掲載「語り残す 戦争の記憶」より)