朴念仁の戯言

弁膜症を経て

餓死の島 生き延びる

その先どうなるか分からなかったけれど、うれしくて涙が出た。
駆遂艦(くちくかん)で南太平洋のガダルカナル島を撤退したのは1943年2月7日の深夜。
勇ましく、「隣の島までやっつけてやれ」と上陸した私たち一木支隊は、飢餓と感染症で骨と皮だけの姿に変わり果てていた。
食べられる動植物が本当に少ない餓死の島だった。
一木支隊の第二陣として42年8月27日に上陸した。渡された食料は少量のコメや缶詰など。敵陣の食料を奪うつもりだったが、激しい攻撃で近寄れなかった。
敗走してジャングルで半年間、野宿した。カエルも蛇もネズミもいない。腹ぺこで動けなくなるんだから。仲間を射殺して奪ったり、手榴弾を投げ込んで盗んだり。理性を失い、日本人同士が少ない食料をめぐって争っていた。人間のすることではないが、実際に見てきたことだ。
帰国できるとは夢にも思わなかった。安らかな表情で横たわる兵士の亡骸(なきがら)を見ると、死ねばかえって楽になると思った。でも自決用の手榴弾を手にすると、おふくろの顔が浮かんだ。生きて帰りたかった。
神に祈っても、泣いても、喚いても、食料が集まるわけではない。マラリアの高熱で体が震える日もヤシの実を集めた。苦い草も煮て食べ、何とか生き延びた。
撤退日。迎えの駆逐艦にボートで近づき、垂らされた縄梯子を必死に上がった。ここまで来たのに、甲板に上がった途端に安心して絶命する人もいた。力がなくて海に転落する兵士も相次いだ。
船でブーゲンビル島や広島を経由し、43年7月に列車で旭川に戻った。おふくろに会えるのがうれしかったし、会った時は一緒に泣いたよ。
近所で「鈴木からガ島の話を聞いたか」と憲兵が回っていた。どんな戦いだったか分かると困るから。皆飲まず食わずで死んだんだ。戦争なんてするもんじゃない。

(注)一木支隊 旧陸軍歩兵第28連隊(北海道旭川市)を基幹に編成された一木清直大佐が率いた部隊。グアム島から帰還中、米軍から飛行場を奪還する目的で急遽ガダルカナル島に派遣された。上陸した1885人中、1485人が戦死した。

ガダルカナル島攻防戦から生還した北海道旭川市の鈴木貞雄さん(96)(平成27年4月14日地元紙掲載「語り残す 戦争の記憶」より)