朴念仁の戯言

弁膜症を経て

偏見は司法の場にも

隔離政策
「何の作り話ばしよっとか(しているんだ)!」
国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志市)の集会場から洩れてくる大声に、そばを通り掛かった入所者の男性が気付いた。
1951年10月から始まった殺人未遂事件の「特別法廷」初公判。白い幕の中をのぞくと、がっしりとした体つきの藤本松夫が証人の警察官に怒声を浴びせていた。
ハンセン病患者の裁判は事実上、非公開で行われた。「法の下の平等」を定めた日本国憲法が戦後公布されても、司法の場で差別が続いた。
その後、藤本は殺人罪を問われ、一貫して無実を主張したが、三度目の再審請求が退けられた62年9月14日、死刑を執行された。享年40。

▷戦中が一番幸せ
藤本は22年、熊本県菊池市の山間部の貧農の長男として生まれた。父親が早世したため、小学校は2年しか行けず、母親と畑を耕しながら日雇い暮らしの日々を送る。
戦争がはじまると徴兵検査を受け、このときにハンセン病を患っていることが判明したとみられる。片目がほとんど見えない障害もあり、兵役は免除された。
戦前親交があった菊池恵楓園入所者自治会長の志村康(82)は「徴兵で若い男がいなくなった集落で力仕事を任せられ、頼られる存在だった」と回想する。
終戦近くに藤本は結婚し、娘も生まれた。後年、恵楓園の仲間に「親子ともに元気で、母も初孫の顔を見て喜んでくれた。これからの一家のむつまじく、楽しい生活を思った」と語り、当時を懐かしんだ。
300万人の日本人が命を落とした戦争の間は、藤本の人生で一番幸せだったのかもしれない。
戦後から5年が過ぎたころ、藤本は突然地元の村役場から菊池恵楓園に入所するよう勧告を受ける。ハンセン病療養所に入れられたら、世間から一族郎党が差別されるのでは―。「らい病ではない」との診断書を入手するため、福岡や熊本の大学病院を駆け巡った。

▷火箸で扱う
ところが51年8月、藤本に入所を勧告した村職員宅でダイナマイトが爆発。藤本は真っ先に疑われて逮捕された。否認したが、殺人未遂罪で懲役10年の判決を受けた。
藤本は控訴審中の52年6月、拘置所から脱走する。
「私は無実だ。母と娘に会いたい」
だが警察の手が回り、実家に近づけない。畑の中の小屋に身を潜めた。
翌月、その村職員の刺殺体が発見された。当然、警察は藤本を疑った。五日後、警官は近くの畑で藤本を見つけると無抵抗にもかかわらず銃を発砲し、逮捕した。
再び特別法廷が開かれたが、ハンセン病への偏見を示すかのように、裁判官や書記官たちは証拠品を手では触れず、火箸で扱った。
遺体に20数カ所の刺し傷があったが、凶器とされた短刀には血が付いておらず、藤本の服にも返り血はなかった。起訴事実を全て否認したが、国選弁護人は検察側の証拠に全て同意した。
弁護士が欠席した公判で死刑が言い渡された。判決文には死刑を選んだ理由も書かれておらず、藤本の無実の訴えに司法は何も応えなかった。
大分市の弁護士で藤本の再審弁護団長の徳田靖之(70)は「戦前から続くハンセン病の過酷な隔離政策に司法も組み込まれていた」と指摘する。

▷戦後は2001年
ハンセン病は完治する病気だ。41年に米国で新薬「プロミン」による治療が始まり、欧米では戦後、在宅治療への切り替えが進んだ。日本でも48年にプロミン治療が導入されたが、偏見は容易に消えなかった。逆に患者を根こそぎ収容する「無らい県運動」が全国で吹き荒れた。
菊池恵楓園は1,000床も増床され、熊本県は空きベッドを埋めるために患者狩りに乗り出した。「菊池事件と無らい県運動は密接に関わっている」と志村と徳田は指摘する。
ハンセン病患者の隔離政策は、96年のらい予防法廃止まで続いた。熊本地裁が国策を「違憲」と認めたのは2001年。志村は「このときハンセン病患者に戦後がやっと訪れた」と振り返る。
藤本の遺族は「もうそっとしておいてほしい」と再審請求に消極的だが、無罪を信じる徳田の決意は固い。
ハンセン病患者を憲法の枠外で扱い、司法は罪のない人を死刑にした。この事件を解決しないと、自分たち法律家は許されない」
藤本は死刑執行の二カ月前、手記にこう残した。
「晴天白日(原文のまま)の身となったら、故郷に帰って働くだろう。幸薄かった母の老先を幸せでうずめ、娘の父であることを誇らしげに名乗ろう」

※文・岡本拓也さん(平成27年2月21日地元紙掲載「戦後70年ゼロからの希望」より)