朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「物」になって生きる

軍隊の不条理 訓練という名の虐待
山口県萩。日本海に面した人口約5万人の市は、吉田松陰高杉晋作ら、明治維新の原動力となった志士を多く輩出したことで知られる。今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」をきっかけに観光客誘致を図る同市には松下村塾など歴史的遺産に匹敵する名所がある。
丹下健三が設計、1996年に開館した山口県立萩美術館・浦上記念館だ。
萩出身の実業家、浦上敏明(88)が一代で収集した浮世絵と東洋陶磁の膨大なコレクションを故郷に寄贈したことから誕生した。
世界で3点しか確認されていない葛飾北斎美人画「風流無くてなゝくせ 遠眼鏡」など貴重な作品も多い。

「命懸けで集めたコレクションをすべて寄贈しようと思ったのは、病気や手術で死を意識したのがきっかけでした。もともと、19歳のとき、特攻隊で一度死んだ命だからね。恩を受けた人たちに恩返ししなければ死にきれない、と思った」
旧制の萩中学を卒業、山口高商(現山口大学)に進学。学徒勤労動員で下関市の工場で働いていた45年2月、赤紙召集令状)が届いた。陸軍船舶兵として愛媛県伊予三島(現四国中央市)の部隊に入隊。中隊長から「特攻隊であり間もなく出陣が決定している」と通告され、ベニヤ版製の長さ6㍍の特攻艇「マルレ」乗船を希望した。爆薬を積み敵艦に体当たりする人間爆弾だった。
だが、浦上と同じように集められた約30人の初年兵を待っていたのは、教育係と称する古参兵たちの暴力だった。
「初年兵を整列させ『貴様たちに軍隊を教えてやる』と言って、こぶしで殴る。30代前半で体がでかい班長に殴られたときは、部屋の端までぶっ飛んだ」
訓練という名の虐待は、連日連夜続いた。
「班長がサディストだったのか、何の理由もなく殴る。ほかの古参兵は班長が怖くて追従していた」
時には、初年兵全員が木銃が折れるほどのすさまじさで、尻を殴られた。翌日はトイレでしゃがむこともできなかった。

セミと呼ばれるリンチもあった。天井の梁にセミのようにつかまっている初年兵を木銃でつつき落とす。落ちながら「ミンミン」と鳴かないと、また殴られる。
「初めは腹が立ったけど、あるときから『自分は物だ』と思うことにした。『磨けと命じた靴に砂が残っている。靴様、申し訳ありませんと謝って舐めてきれいにしろ』と言われれば舐めた。人間じゃなく物だから平気だった」
半年余り、そんな日が続くと、「早く死にたい」と切望するようになった。「そう思わせるために、彼らは暴力を振るっているのかな」と思ったこともあった。
移動命令が出たのは、広島への原爆投下後だった。船で本土にわたり、遺体が累々たる広島市内を行軍し、海田市町(現海田市)の宿舎に着いた。そこで「出撃は15日」と言い渡された。だが15日の午後、船着き場に整列した特攻隊員たちに、船舶司令官は「戦争は一時中止となった。次の指示があるまで、ここでしばらく待て」と命じた。玉音放送を聞いていない部隊は、解散せず、古参兵は威張り続けた。浦上が、無茶な要求をする上官を呼び出し、叩きのめしたのは9月初めだった。
数日後、古参兵たちが浦上を殺害、戦病死として処理する計画を練っていることを、初年兵仲間が嗅ぎつける。彼らの協力で隊を脱走した浦上は、山陽本線の駅まで走り、停車していた列車の、石炭を満載した貨車によじ登った。丸一日後に萩に到着した彼は、自分をまるで幽霊のように見つめる父親に会った。息子の部隊は全滅したと、父親は伝えられていたのだ。

戦後復学した浦上は、卒業後、ビジネスマンとして活躍。清久鉱業社長、日本非鉄鉱業社長などを歴任する。その一方、30代から始めた美術品の収集にのめりこんでいく。地位や肩書にかかわりなく、鑑賞眼だけが問われる世界で、その名をとどろかせていく。
「浦上君は成績はいいし、相撲が強くて、優しくて、同級生は皆一目置いていた。そういう人間だから、戦後もこれだけの仕事ができたんだね」
萩中学の同級生だった松田輝夫(89)は言う。
浦上の脇腹には、軍隊で革のベルトで叩かれた痕が今でも残っている。
「暴力を振るったのは平凡な、普通の人たちでした。同じ日本人に対して、あんなに過酷なことをしたんだから、外地で日本の軍隊が何をしたのか…。戦争になると、普通の人が狂ってしまうんです」

※文・立花珠樹さん(平成27年2月16日地元紙掲載「戦後70年ゼロからの希望」より)