朴念仁の戯言

弁膜症を経て

葉で考え 根で記憶

私たち人間は動物、動く物である。動かなくなると心身ともに弱り、健全に生きられない。対して植物は植える物。鉢植えをあちこちに移動したりすると、すぐに調子を崩すが、しっかり植えると健康に生きる。
人間は頭で考え、記憶する。だが、頭だけだと考えや記憶は薄っぺらで偏ったものになりがちだ。
私たちは少し前まで、体の至る所を使って物事を考え、記憶していた。明治の初め、たき火にヒントを得て、蚕の病気を防ぐ飼育法「いぶし飼い」を開発した群馬県の養蚕指導者、永井紺周郎は、それを人々に伝える際、適温を言い表すのに「一肌脱いで暑くもなく寒くもなく」と言った。「腕に覚えがある」との表現があるように、体で覚えたことは確かと考えられていた。
植物に脳はない。しかし、葉は日の長さや温度差を敏感にキャッチして花芽ホルモンを生成したり、休眠に備えたりする。根は自分の置かれた環境を記憶する。小さな鉢に植物を植えると、すぐに根がぐるぐると鉢の大きさに沿って回る。植え替えるとき、その根鉢をほぐさないままだと、いつまでも同じことを繰り返す。そのさまは、恨みを忘れない強い記憶を意味する「根に持つ」という表現をほうふつとさせる。植物は、体全体を使って考えながら生きている。

ガーデンデザイナーの神田隆さん(平成26年10月16日地元紙掲載「自然と暮らしと庭づくり」より)
  

「家庭」は家と庭

以前、私は都立高校で家庭科の講師をしていたことがある。今の子どもは内(家)にこもりがちで、外の環境、すなわち自然や生き物に肌身で触れる機会が少な過ぎる。学校の家庭科でも裁縫や料理など内でやることばかりが授業になっている。なぜ家庭なのに庭に学ぶこと、外なるものに触れることがないのか―。そう言ったのがきっかけで、庭造りを教える羽目になった。
授業では植物の分類や土のことを教え、校庭に出て植栽手順や剪定方法も手ほどきした。もし庭を造る機会が訪れたら、その場の自然環境と背景にある暮らしや家との関係はとても大事なので、気に掛けてみるよう何度も言い聞かせた。
家と庭は本来一つのものであることも説いた。家は「うち」とも言う。「うち」は自分自身や自分の内部、自分に属する所を意味し、暮らしぶりからその人自身が見て取れる。対して庭は、現代では大抵、外にある。「うち」には家だけがある暮らしが普通となってしまったと。
40~50年前まで、家の内部には土間があり、そこを庭と呼んだり、縁側という家と庭をつなぐ接点、まさしく縁があったりした。現在は家だけで精いっぱいなのか、庭と呼べるものがない家をよく見掛ける。「家庭」崩壊が始まっている。

 ※ガーデンデザイナーの神田隆さん(平成26年10月9日地元紙掲載「自然と暮らしと庭づくり」より)

 

「初恋の少女」誕生の地

川端康成の手紙 会津若松

93年前のきょう、1921(大正10)年10月8日。当時22歳の東京帝大生だったノーベル賞作家川端康成は、岐阜市長良川河畔にある旅館で、15歳の少女に結婚を申し込んだ。この少女が、川端の初恋の人といわれる、会津若松市生まれの伊藤初代だ。

初代は、川端文学のファンには「非常の手紙」とともに知られた存在だ。
「私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、わたしには或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません」(川端康成「非常」より)
川端は当時、岐阜市の寺に身を寄せていた初代を訪れ結婚を約束する。しかし、一ヶ月足らずで初代から結婚を断る手紙が届く。この失恋の経緯は、川端自身が「非常」「篝火」「南方の火」などの小説や日記に書き残している。
そして、手紙に書かれた、書き間違いとも思える「非常」とはいったい何なのか、なぜ初代は心変わりしたのか―が、長く研究者の関心をひきつけている。
今年7月には、初代が川端に出した手紙10通と、川端が初代に宛てた未投函の手紙1通が、神奈川県鎌倉市の川端邸で見つかったと報じられた。

しかし、故郷で少女のことは、話題に上ることは少なかったようだ。
菊池一夫著「川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯」(江刺文化懇話会)によると、初代は1906年(明治39)年9月16日、若松第四尋常小学校(現城西小)の用務員室で生まれた。
父は岩手県江刺郡(現奥州市)生まれの伊藤忠吉。母は、会津若松市博労町の雑貨商大塚源蔵の長女サイ。両親は未入籍(後に入籍)で、用務員室での出産はサイが学校の仕事を手伝っていたためと推察される。二人は初代誕生の翌年、同校の住み込みの用務員となり、初代もここで育つ。
城西小は今も同じ湯川の傍らにある。だが馬場泰校長は、初代について「初耳です。地元でも知らない人がほとんどでしょう」と話す。
初代は、妹の子守をしながら授業を受けることもあったが「成績は悪くなかった」。しかし母の死、父の帰郷―と肉親の縁は薄く、10歳の16(大正5)年、母の実家と一緒に上京した後は「孤児的な境遇」となり子守やカフェの女給をしたという。
初代が、川端と出会ったのは上京から3年後、東京・本郷の「カフェ・エラン」。色白で無邪気な笑顔と、肉親と故郷を失った身の上が、同じく孤児的境遇にあった文学青年をひきつけたといわれている。

※「ふくしま歴史の詩」より(平成26年10月8日地元紙掲載)

 

僧侶、新たな姿を求めて

福祉と仏教
「寝ている間に仏さんに迎えに来てもらう。それで、あんたにおまいりしてもえたら、ええな」
90歳を超えた女性の言葉に、真宗大谷派僧侶の三浦紀夫(49)は大きくうなずいた。
「うれしいな。わが人生に悔いなしや」
年齢を感じさせない張りのある声が響くと、三浦は間髪入れずに言う。
「150歳まで生きたら、もっと若いお坊さんに頼まんと、いかんね」
大阪人らしい軽妙なやりとり。部屋が笑い声で満ちた。
三浦が事務局長で理事を務めるNPO法人「ビハーラ21」は、生老病死の「苦」に寄り添うという理念の下、僧侶や介護スタッフら医療福祉の専門家が連携しながら、高齢者や障害者向け施設の運営、独居高齢者支援の事業を進めている。
ビハーラはサンスクリット語で「僧院」「休息の場所」の意味だが、近年は終末期を中心とした医療や福祉における仏教者のケアを指すことが多い。ビハーラ僧と呼ばれる三浦は寺の出身ではない。かつては猛烈サラリーマンだった。

▶バブル期
大阪府貝塚市のサラリーマン家庭に生まれた。
豊かな家ではなく、中学、高校の時に思ったのは「世の中、金がなかったらあかん」。
1985年、大学に進学したものの、時代はバブルが始まる次期。
「学校へ行っている場合やない、と思いました。働いたら金になる、って」
アルバイトに精を出して大学を中退、建築資材メーカーに就職し実力主義の社長に認められて秘書役に。華やかな接待に同席し、社長の名代として冠婚葬祭の場にも出向いた。
猛烈に働いて取締役に抜擢されたが、社長の死去を機に1997年の退職、企業の顧問などを務めるコンサルタントへ転身した。仕事は順調に高収入を得る。
そんなある日、大阪市内の有名百貨店が新事業として仏事相談コーナーを開設することを知り、強い関心を抱いた。
数多くの葬儀に参列した経験を持つのに、95年に自らの父親を送った際、会葬者への対応が十分ではなかったとの心残りがあった。
勉強のつもりで講習会に出掛け、相談担当者として働き始める。
顧客サービスの改善を求めていろいろ意見を言うと、百貨店側から現場責任者になるよう依頼された。以後、仏事相談が三浦の主な仕事となる。2001年のことだった。

▶悩みの相談
デパートの一角にある相談コーナーに座って驚いたのは、香典返しなどの相談そっちのけで亡き人への思いを吐露する客が多かったことだ。
「家で引き取りたがっていたのに、かなえてあげられなかった」「母の魂はどこへ?」
時間を気にせず、じっくり話を聞いた後、相手を思いやる言葉を掛けると、「ここへ来てよかった」と涙を流す人も。
「なんなんやろ、これは」
華やかな百貨店の片隅で、静かに語られる近しい人々の死にまつわる嘆きや悲しみ、悔恨。
小さな子どもを亡くした人に仏壇を世話し、こんなつぶやきも聞いた。
「○○ちゃんのおうちができたよ。ずっと一緒だね」
今も忘れられない。
死は誰にでも訪れる。
金は大事だが、金だけじゃ駄目だと身に染みた。
「イケイケ猛烈サラリーマンの反動が来ました」
三浦の相談は評判を呼んだ。
悲嘆の場に身を置くうち、三浦の中で疑問が膨らむ。
お坊さんは一体、何をしているのだろう。

▶生活全般
客に聞くと「お坊さんにそんなこと、言えません」
三浦は目についた寺に次々と飛び込み、僧侶の役割を問うた。いくつもの寺を回った後、「君がそう思うならば、自分が見本になったらどうか」と返答した住職に出会う。これが縁で三浦は住職になった。
「ビハーラ21」で主に心のケアを担うが、まずは安心して暮らせるよう、生活全般の支援をする。
大切なのは「自分らしく生きられること」。
そして、死期が迫った人の手を握り、体をさする。頼まれれば、葬儀も執り行う。専門職と連携しながら、その全てに関わるのが僧侶の役割だ、と三浦は考える。
通夜の席で亡くなった人についての話をする。みんなが真剣に聞き、問う。
「わしが死んだとき、何の話するの?」「そのときに考えるわ。間違ったことを言うたら、その場で突っ込んでくれてもええで」
みとりの場は意外に明るく、専門の介護スタッフへの感謝の気持ちが表情に出るという。
自らを振り返り、「自分の人生はこれじゃないな、と思う人が来てくれるといい」と話す。
「福祉の現場に僧侶がいる」
それが日常の風景になることが三浦の願いだ。

※「岐路から未来へ」より・西出勇志さん(平成26年9月13日地元紙掲載)

 

三度入院の師僧 眠るような最期

私の師僧は21年前に満99歳で死去した。
弟子入りした時が師僧86歳、それまで一度も医者にかかったことがないのに私は三度病院に運んだことがある。

最初は脳の4分の3が真っ白だと言われたので脳出血か。
入院して一週間後、退院するまで医者はCTを撮ったのみ。
意識が回復したら本が読みたいと言った。
「不思議なことですが、周りの健康な脳細胞が血を吸収しています」と医者。

5年後、次は結核
これも本人は元気なのだけれど法定伝染病だから仕方なく三カ月入院した。
そして晩年の98歳のとき、山登りをしていて転倒し鎖骨を骨折、利き腕にギブスをはめられていたが、食事時間は外すので意味がない。
これも一週間で骨がくっついた。

最期は好きな風呂に入って眠るように。
献体1年後、解剖学教授に師僧は肝臓がんだったと聞かされた。
それもビッグサイズの。
「ここまで大きいと何か症状があるはずですが?」と聞かれた。
だるいとかあったかもしれないが、一世紀生きたら、こんなもんだろうと笑っている師
僧の顔が浮かんだ。

病院に行くから、病気が発見される。

いわき市の平尾弘衆さん61歳(平成26年8月29日地元紙掲載)

 

夢実現の時にすべてを失った現実

夢中で子育てし、ホッとした時には孫守が始まった。
多忙のとき、二人で旅行するのが何よりの楽しみだった。
やっと暇を見て国内旅行し、外国に行くのが夢だった。
妻が63歳の12月末、この年から年賀状を印刷した。
妻には友人に近況を知らせたらと数枚の賀状を渡し、書き終わったのを見て愕然とした。

暮れも迫っていたので早く年が明けてほしいと眠れない日々が続いた。
これからが私たちの夢実現なのに、すべてを失った現実だった。
仕事始めの日、妻を連れて病院に行こうとした。
妻は「何で私が病院に行くの」と不機嫌だったが、何とか説得した。

心療内科を受診させ、先生の診断は予想通りアルツハイマー病だった。
自宅で介護したが10カ月で精神病院に入院した。
入院三日目から私のことを忘れ、独り言を言いながら徘徊が始まった。
急激な変化で為すすべもなかった。

その後施設にお願いした。
面会に行くたびに妻に「何も悪いことしないのにな」と何度も訳なく恨んだ。
私の感謝の思いも通じないまま、妻は71歳で他界した。

福島市の本多信治さん76歳(平成26年7月3日地元紙掲載)

 

憲法9条 空洞化の危機

解説
集団的自衛権行使を可能とする憲法解釈変更が閣議決定され、戦後維持してきた抑圧的な防衛政策の転換が決まった。
与党協議は多くの論点を詰め切れないまま決着し、拙速の印象は免れない。
国民理解は置き去りにされ、憲法9条の理念は空洞化の危機にさらされている。
安倍晋三首相の責任は重い。
自国の守りに徹する専守防衛は1954年の自衛隊発足以来の基本方針だ。
一方、集団的自衛権は、他国への攻撃を自国攻撃と見なして反撃する権利。
自衛隊の活動は大きく変容し、初の武力行使に及ぶ可能性がこれまでより高まる。
首相は閣議決定後の記者会見で、中国などの軍拡などを念頭に、抑止力を強化する必要性を説いた。
外国を守るために日本が戦争に巻き込まれる事態は「あり得ない」とも言い切った。
だが国策の根幹に関わる大転換が国民不在の政府、与党の議論で進められたこともあり、説得力は弱い。
政府は集団的自衛権行使の歯止め策として「武力行使3要件」を設け、「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限定すると主張するが、曖昧さは否めない。
先の大戦の反省もあって9条への国民の共感は幅広い。
安全保障環境の変化に即した対応が必要と考えるなら真正面から憲法改正を問うべきではないのか。
手続きを省き、結論を急いだ首相の政治手法は立憲主義の観点から危うさを覚える。
公明党も姿勢転換の説明責任を問われる。
首相は「憲法が掲げる平和主義をこれからも守る」と明言する。
今後の国会論議を通じ、首相の真意を見極める必要がある。

平成26年7月2日地元紙掲載