朴念仁の戯言

弁膜症を経て

6歳の誕生日に

昨日、職場で新たな上司と世間話をしているうちに今日が6歳の誕生日であることに気が付いた。
その日の命かと、不安と覚悟の日々から解放された今日(こんにち)の安心感が、この大事な日を忘却の彼方へ追いやろうとしているのか。
この日を何の感慨もなく迎え、または、忘れた自分に一片の忌々(いまいま)しさも感じられなくなった時には、心の死、あるいは肉体の死を日置かずして迎えることだろう。

日日に胸に手を置き伝ふもの
感謝感謝の溢ふるる想い

絶え間なく命刻みし心臓の
生き方学べ見えざるものの 

見えざりし生命支えし心臓の
不随意の妙(みょう)神の如きの

象徴のうた 平成という時代 ㊽

今ひとたび立ちあがりゆく村よ 
失(う)せたるものの面影の上(へ)に    平成24(2012)年 皇后

宮城県南三陸町から仙台へのご訪問の翌週、両陛下は、平成23年(2011)年5月6日に岩手県釜石市を、11日には福島市と相馬市などを見舞われた。
毎週休みなく続けられたこの一連のご訪問、一都六県計7回にわたる訪問はひとまず締めくくられたのである。

しかし、被災者たちへの気遣いはそれで終わりということは決してなかった。
毎年元旦には、前年に作られた天皇陛下の御製(ぎょせい)五首、皇后陛下の御歌(みうた)三首が発表されている。
平成23年天皇陛下は五首のうち四首で、皇后陛下は三首すべてで東日本大震災をお詠みになった。
一部を挙げる。

津波寄す雄々しくも沖に出でし
船もどりきてもやふ姿うれしき        天皇

「生きてるといいねママお元気ですか」
文(ふみ)に項傾(うなかぶ)し幼な児眠る  皇后

全て挙げられないのが残念だが、御製は、相馬市において、地震後直ちに船を沖へと避難させ、津波による被害を免れたことをお聞きになって、その決断に驚き、また無事を喜ばれたものである。

皇后陛下の御歌は、津波で両親と妹を亡くした4歳の少女が「ままへ。いきているといいね。おげんきですか」と手紙を書きながら、その上にうつぶして寝入ってしまった新聞写真をご覧になっての一首である。
寄る辺のない幼児が蒙(こうむ)る悲劇に、国民の目線で同じように悲しみを共有しようとされる姿勢が感動を生むのであろう。

翌年24年にも宮城県、長野県、福島県と両陛下の被災地訪問とお見舞が続いた。
5月の仙台市訪問に際しては、その数日後にエリザベス英女王の即位60年行事のため訪英の予定があった。
両陛下の負担を思って、奥山恵美子仙台市長はあえてこの時期にお出でにならなくても、もっと後でもと提案したのだという。
それに対して「英女王の招待ももちろん大事ですが、被災地を訪問せず訪英するという判断はありません。被災地に行かず海外に行くことはないと陛下はお考えです」と言う返事が宮内庁から届いたという(「祈りの旅」)。
記憶しておきたい言葉である。

掲出の皇后さまの御歌は、それらの訪問の際のものである。
壊滅的な被害から健気に立ちあがる人々を見ることのできる喜びと頼もしさ。
しかし、その一見ポジティブな行為とは裏腹に、一人一人の内面には「失せたるものの面影」が常に去来していた筈(はず)である。
それらと必死に闘いながら再生への願いを紡いでいるのだという、微妙でしかし最も大切な、喜びと悲しみが綯(な)い交ぜになった複雑な思いを見逃さない。
深い共感のうえに成立した御歌である。

慰霊・追悼行事へのご臨席も実はこの時期、無理を押してのものであった。
平成23年の「東日本大震災消防殉難者等全国慰霊祭」への天皇陛下のご臨席は、気管支炎、マイコプラズマ肺炎で19日間入院のあと、わずか5日後のことであった。
また翌24年3月の「東日本大震災一周年追悼式」は、東大病院で心臓バイパス手術を受け、二週間余り入院されて、退院後一週間での追悼式であった。

普段洋装の喪服でご臨席になる皇后さまが、この時は、もしもの場合、ヒールの靴より、咄嗟(とっさ)に陛下を支えることができるよう黒のお着物、草履でお出でになったという一事(川島裕「随行記」)をとってみても、両陛下が如何(いか)にこれら慰霊・追悼を国民と共に行いたいと願っておられたかが垣間見えるのである。

歌人・細胞生物学者永田和宏さん(平成31年3月18日地元紙掲載)

 

愚かな宇宙探査

「世界初、地下岩石採取へ」

3月31日、新聞の見出しも大きく、宇宙航空研究開発機構JAXA)が探査機はやぶさ2を使い、〔小惑星りゅうぐう〕に爆薬を打ち込むとか。
クレーターの形成過程の調査と、地下岩石を採取して太陽系誕生の痕跡を探るためらしい。
月の領有権を巡り、米・中・露の三カ国は月面基地建設を目論んでいるようだが、JAXAも含め、人間の欲望と愚かさには限りがないことをつくづくと思い知らされる。
その前の、〔小惑星いとかわ〕から7年ぶりに地球へ帰還したはやぶさが話題になり、映画化もされ、何やかんやともてはやされたが、その様子に「このおたんちんめが」と内心、毒づいていた。

宇宙旅行など宇宙ビジネスに参入する企業もある。

馬鹿も休み休み言え。
宇宙のごみ問題はどうする?
管理期間が数百年から数万年も要する放射性廃棄物はどうする?
宇宙開発云々よりもまずは地球の環境保全が第一ではないか。
後世にまた新たな負の遺産を遺すのか。

宇宙ごみスペースデブリ)の数は2010年現在で10cm以上のものが約20,000個、10cm未満1cm以上のものは約50万個あります。また、現在運用中の人工衛星は約1,000個あり、運用が終了した人工衛星についても約2,600個あります。
最近では、破片類が数百個、ロケット機体が数十個、運用終了後の人工衛星が10機前後、大気圏に再突入しています。人工衛星が大気圏に再突入する際、ほとんどは燃え尽きます。ですが、人工衛星の燃えにくい材質を使用した部品や、人工衛星が巨大な場合などは、地上(海上)まで残骸が落下することがあります。(「ファン!ファン!JAXA!」より転載)

人類は地球へ、途方もない甚大な責任がある。
産業革命以降、急激に、しかも散々と地球を犯し、国挙げて根本的な救済措置も取らずに宇宙に触手を伸ばすとは、同じ人間であることが嘆かわしい。

母なる地球の嘆きが聞こえないのか。

人間の垂れ流した、吐き出した欲望の塵芥が大海を、空を汚染し、海洋生物を犯し、オゾン層を破壊し、いずれ人間を犯す。
せいぜい欲望の獲得に励んで天に唾する結果を招くがいい。

人類はいっそ海の藻屑となって、あるいは太陽に焼き殺されて滅亡したほうが宇宙のためか。

 

新元号公表の日に

お前は、虚飾の装いで己を誤魔化し、他人の目を気にするケツ穴すぼまった男
お前は、職場への不平不満を時折まくし立て、苛立ちを募らせる負け犬
間抜けな薄ら笑いを止めろ

お前は、自己本位の価値観を棚に上げ、他人を下位に評価する偽善者
お前は、他人の粗(あら)を見過ごさず、自分の粗を見過ごすうつけ者
お前は、己を客観視せずして自己能力を過大評価し、社会的地位を要求する駄々っ子
野卑た愛想笑いを止めろ

お前は、内部告発によって欲望にまみれた薄汚い真実の顔をさらけだした独裁者
お前は、のらりくらりと訳の分からぬ答弁を繰り返して国民をあざむき、日本を好戦国家に仕立てようとするテロ政治家
お前は、わが子を虐待死せしめた父親
お前は、躾とうそぶいて老犬を蹴り倒す女
お前は、重度の障がい者を不幸の元として殺戮した元介護従事者
お前は、社会的孤立感から自暴自棄になって無差別殺人を犯した住所不定の無職者
お前は、猟奇的殺人を繰り返した性的倒錯者

そして、お前は死んだ兵士の肉を喰らい、無抵抗の人間を銃剣で刺し殺し、年端も行かぬ少女や老婆までも凌辱し、帰還後、都合の悪いことは口を閉ざして天寿を全うした元日本兵

お前は己、己はお前
善人面するな、この痴れ者が

 

人、生まれながらにして善悪なく、その時代、社会、環境によって善人、悪人に仕立て上げられる。
その社会、環境は、特定の誰か別の人間が作ったものではない。
その時に生きているお前一人一人の集合体が作り上げたのだ。

 

大石順教尼を偲びて ー人間、このかけたるものー㉒

「それで先生は、いつも明るく生きてゆけるのですか」
「私のいう″心の生き方″というのは、手のない人は、み仏の手をいただき、眼のない人は心の眼を開かなければならないのだよ。そして足の不自由な人は感謝の心でしっかりと大地を踏まなくてはならないのだよ。そうしなければ私たちの救われる道はないのだよ」
「私にはとても難しい道だな」
「そんなことはありません。身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私たちは″心の障害者″になってはいけないのだよ」
「″心の障害者″? そんな障害があるのですか」
「あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてかわかりますか」
「わかりませんが、悲しいです」
「転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足を隠さないことだよ」

はっとして、娘は順教尼の言葉を待った。
「″心の障害″というのはそれを言うのだよ。忘れなさいということは無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心を奪われてはいけないのだよ」
「どうしたら、その″心の障害″を取り除くことができるのですか」
「自分のことは自分でできるようにするという、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心を持って″心の働き″を生かすのだよ。たとえ、何にもできずにベッドに臥(ふ)せっていても、微笑(ほほえみ)ひとつでも、優しい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げることができたら、その人は社会の一隅を明るくすることができるのだよ」
「先生、私は何にもできない人間だと思っていましたが、気持が明るくなりました」
「その明るさが大切なのだよ。私はね、少し言い過ぎになるかもしれないが、障害というのは身体の自由、不自由とは別ではないかと思うことさえあるのだよ。たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たずに、五欲のほしいままに、お互いが傷つけ合うことしかしらないとしたら、大変な″心の障害者″ではないかと思うのだよ」
「心はみんな同じなのですね」
「この頃、力みでも、強がりでもなく、私は両手を無くしたこと、何も知らない無学な者であったこと、そして、お金に頼らずに貧乏してきたことが、ほんとうに私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとそのしあわせを味わっているのだよ」
「先生、もう少し分かりやすく教えてください」
「そうね。生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分かるかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ」
「先生、何だか体中の凝りが全部とれたように、すがすがしい思いがします。ありがとうございました」

身体障害者の大いなる母として、またその障害の弱さを通して得られた順教尼の、”無手自在″なる活路は、多くの人々に目に見えぬ大きな遺産をのこして、昭和43年4月21日午前零時20分、静かな花が大地に還るように81歳をもって逝去されたのである。
前日の夕方まで訪れる障害者のために常と変わらぬ元気さで尽くされた老尼は、珍しく疲労を訴えられ、横になられたままその後一言も口を開くことなく、日頃信慕する弘法大師の入寂と日時を同じくして、み仏の慈手に抱かれ、この世を去られたのである。

人間的な苦しみも、病いも、悲しみも、老いの匂いもなく、寂(しず)かに永眠されたこうした往生の姿を何と表現したらよいのだろうか。
心持ち微笑さえ浮かべ、枕辺にお別れをする有縁(うえん)の方々に語りかけるように眠る老尼の温容からは、生き死にを超えた涅槃入寂の荘厳さをしみじみと思わされたのであった。
人間としての弱さの辛苦を舐め尽くされた老尼であったが、それはひとりの身体障害者として開かれた献身の一生としてでなく、人間—―このかけたるもの—―の真実の味わいを証しされた、尊い示寂(じじゃく)ではなかったかと思うのである。
願わくば慈手観音として、私たちの上に遍照くださらんことを念じつつ筆を擱(お)きます。

※順教尼一周年忌にあたり京都山科・一燈園において 石川洋さん(昭和44年4月21日)

 

大石順教尼を偲びて ー人間、このかけたるものー㉑

「先生、お背中流しましょうか」
「ありがとう、お願いしますよ」
緑蔭に包まれた仏光院の昏(く)れは早い。

「おや、垣根に、夕顔の花が……」
浴場の片隅に置かれたタライ湯の中で、順教尼は足の不自由な塾生を相手に、夏の夕暮れの風情(ふぜい)を楽しんでいるのである。

「先生、あの、お尋ねしたいことがあるのですが」
「ああ、いいよ」
「どうして先生は、湯舟に入る前にタライの中で入浴されるのですか」
「……」
「前から一度お聞きしたいと思っていたですが、いけなかったのでしょうか」
「いいえ、悪いことなどありませんよ」
「……」
「聞こえるかい、虫が鳴いているんだね」
草むらの深みから、ところを得て鳴く虫の声が、順教尼には痛いほど心にしみた。
「あ! 先生、涙が——。泣いているのですか」
「勿体ないと思ってね。こうして夕顔の花を見、虫のすだく声を聞きながら風呂につかっていることが、たまらなく勿体ないのだよ」
「タライに入りながら、どうしてそんなに勿体ないのですか」
「そう、あなたには、まだ話さなかったね」

——それは17歳の初夏の頃であった。
思わぬ不祥事に遭難した順教尼こと妻吉が、無惨にも両手を失い悶々たる日を送っていた頃である。
母親に連れられて風呂屋に行くと、物見高い人々の眼が妻吉の肢体に集中されるのであった。
ある日、風呂屋の主人は、
「妻吉さん、あんたの風呂銭はいらないよ」
「へえ、またどうしてですか」
「あんたが風呂に来てくれるとね、たくさんの人が入って来るので繁昌するんだ」
と言うのである。
妻吉の悲しみもさることながら、母親の心はどれほどの辛苦を味わったことだろう。
それ以来、母親は季節を問わず、家の中で妻吉にタライ湯につかわしてくれるのであった。

「私にはその頃の母親の悲しみと、情の深さが忘れられないのだよ」
「だから先生は、そのお母さんの心を忘れないように、タライ湯をつかってから、最後に湯舟に入ることにしているのですか」
「皆さんの温かい真心で生かされていることに、もしも馴れるようなことがあったら大変ですからね。こうしてタライの中に身を置いて、慎(つつし)みたいと思っているのだよ」
「先生、わかりました。私は両手が使えるのに片足がこんなに萎えているものだから、つい見かねて荷物などを持ってくれる人があるんですよ。でも甘えたらいけませんね。これから気を付けます」
「そう、それは良いところに気が付いたね。それでは、このことだけはしっかり覚えておきなさい。私たち不自由な者が、人から手や足や眼をお借りすることができても、どうしても借りることができないものが一つあるのですよ」
「先生、それは一体何ですか」
「それは″心″です。″心″だけは、誰からも借りることはできないのだよ。体は不自由であっても″心″はみんな同じです。その心の生き方を見出すことが、一番大切なことだよ」
「私たちはどうして生きていくことが良いのか、教えてください」
「教えるというようなことでもないがね。この頃は昔と違って、不自由な者に対して社会の関心も高まり大変結構な時代になったと思います。手のない者には社会のほうが手になってくださり、眼のない者には皆様の愛情が眼となり、足の不自由な者には社会の福祉が、歩みよい生活を与えてくれるようになったのですからね」
「でも、実際そうした協力がなければ、私たちは生きてゆけませんものね」
「でもね、私はそれを受ける障害者は、それに頼ってはいけないと思うのだよ」
「はあ……?」
「誰にも借りることのできない大切な心を、ただ同情に頼ることだけに使ってしまったら、あんまりみじめだと思わないかい」
「それもそうですね」
「私は以前、こんな歌を詠んだことがある。
 何事もなせばなるちょう言の葉を 胸に抱きて生きて来しわれ
  ※注:ちょう⇒てふ⇒という

 喜びも悲しみもみなおしなべて おのが心のうちにこそあれ

私たちは弱い人間だけれど、私たちの内に宿されている仏の心というものは、それは涯(はて)しのない大きい尊いものなのだよ」

※順教尼一周年忌にあたり京都山科・一燈園において 石川洋さん(昭和44年4月21日)

 

一日不作 一日不食 ⑳

ここは京都山科にある清閑な勧修寺の仏光院である。
今年80歳の春を迎えられた院主順教尼は、ひとり身体障害者のみに限らず、門を叩く来訪者のために、求められるままに、ある時は厳しく、ある時は天衣無縫に、まことに活機にあふれた道を示しておられるのである。
それは尋常でない憂(う)き節(ふし)の多い人生経験の中から見出された活路であるだけに、触れる人々の苦悩に、生き生きとして働きかけ、生命(いのち)あるものとして力を与えずにはおかぬ、真実さがあるからなのであろう。
しかし、その真実さは単なる数奇な運命に生きた経験者としてではなく、その経験を超えて与えられた、宗教的な深さに支えられているものであることを、私はしみじみと思わされるのである。

17歳の春、思わぬ遭難のために双手を失った順教尼こと妻吉は、一日生きることは、一日他人の世話にならなければ、生きてゆくことのできない厄介ものであったのである。
妻吉にとって一日の苦悩は、一日の絶望でしかなかった。
その絶望の淵に立たされ、幾度か、死を覚悟した妻吉にとって、一つの宗教的転機があったのである。

それは″お前がもしここで死んでしまったら、お前の後から続いて来る不幸な境遇の人たちが、やはり同じように死を選ばなければならないであろう″という内なる声であった。
自分の不幸しか嘆くことを知らなかった妻吉にとって、この内なる声は、順教尼の一生涯を貫くただ一筋の白道(びゃくどう)となったのであろうが、この心の転機を通し、妻吉は、自分の苦悩や弱さをそのまま内に抱いて、同じ境遇にある人たちのために、自分の人生を捧げる求道者としての眼を開いていったのである。

やがて恩師藤村叡運(えうん)上人の導きにより、″人の世話をしたいなら、尼になる前に、人の母になれ″という訓(おし)えにしたがって、青年画家山口草平と結婚生活に入るのである。
一子に恵まれた妻吉の前に待っていたものは、貧困生活であった。
一本の手拭を親子三人で使い、嬰児にミルクも与えることのできない貧苦の毎日であった。

この貧困の底に、自分を訪ねてくる障害者のために、どうすることもできない妻吉は、一つの決意を促されたのである。
それは、嬰児を抱くことのできない双手なき母親として、普通の母親と同じように食をとることは″むさぼり″ではなかろうかという、宗教的自己検討なのであった。
それでなくても、最低の食物と飲物で生きる戒(かい)を保たなければ、それだけ後の始末にも他人に迷惑をかける悲しい身なのである。

妻吉は、こうした宗教的な内省と自戒から、今後自分の生活の中から、一日一食を断つことをみ仏の前に誓い、その断った一飯を、たずねてくる障害者のために供養することを決意したのであった。

順教尼は、この当時のことを偲ばれ、
「私が今日、80歳という永い年月を無事に生かされてきたということは、それでなくても両手の運動のない私にとって、一日一食を断ち、供養させていただいたというおかげによって、おのずから運動の少ない私の健康を保つ結果になったのではなかろうかと、冥加(みょうが)というものを思わされているこの頃なのですよ」
と、淡々とした心境をもらされたのである。

たなごころあわせむすべもなき身には
ただ南無仏ととなえのみこそ

これは妻吉が順教尼として高野山に上り、出家得度した感慨を詠んだものである。
が、私は″ただ南無仏ととなえのみこそ″という下の句の中に含まれた、順教尼のただならぬ内省と精進の重さを、そくそくとして身に覚えるのである。
私たちは、人間の小さな力を超えたみ仏の無量の慈愛によって生かされ、それを受けとることに救いの道があるのであるが、その慈愛を素直に受けとらしていただくことの中に、おのずから要求される、私たちの捨身(しゃしん)の内容を忘れがちなのではなかろうか。
私は順教尼が、無手の身を通して、み仏の慈悲に抱かれ、み仏の慈手を通して、多くの不幸な境遇にある人たちのために、生涯を捧げることができるように、深い自己内省と、検討を一日も怠ることなく、精進を繰り返している敬虔な捨身者であることを尊く思わされるのである。

順教尼の居室の柱に、
「一日不作 一日不食
という百丈禅師の一偈の自筆がひそかに掲げられているのであるが、80歳の今日もなお、滋味ある生活の中に、双手なき求道者として、いきいきとして自分を見詰め、深められている一面を記し、この『無手の法悦』の編纂に当たりながら、十分に順教尼を浮き彫りできなかった責めに代えさせていただきたいと思うのである。

一燈園石川洋さん(昭和43年2月10日「無手の法悦」あとがきより)