朴念仁の戯言

弁膜症を経て

一日不作 一日不食 ⑲

「世をはかなんで尼になりたいと申されるのですか」
「はい、どうにもならない家庭の問題がありまして、煩悶の末、出家することができたらと、思い詰めて参りました」
「それで、わたしにどうしろと言われるのですか」
「先生の手で、どうぞ私を救ってほしいのです」
「生憎なことに、私は他人(ひと)を救うような手を持ち合わせておりません」

順教尼の声は、凛然として院内に響き渡った。
出家を願う婦人は呆気にとられて、ただ聴いているのみである。

「どんなご事情がありなさるのか知りませんが、世をはかなんで尼僧になりたいなど、もってのほかのことです。そんな心持で尼になっても、惨めさが増えるばかりではありませんか」
「…………?」
「一体、貴女の周囲を苦悩の渦と思うほどの、そのどうにもならぬ心が、どれだけ、貴女自身の身勝手な原因によるものであるかを、考えてみられたことがありますか」
「でも、そう考えられたとしても、私には解決の方法がないのです。どうぞ教えてください」
「ほんとうに、手なしの私に、どうしても言えと言われるのなら、私の言えることを、ご参考までに申し上げましょう」
「どんなことでも、死んだつもりでいたしますから、おっしゃってください」
「それでは、貴女の両手をうしろ手にして、柱に縛りつけてもらいなさい。そして三日間でよいから、食べることも、飲むことも、下(しも)のことさえも、自分の力ではどうすることもできない、そのままの状態で暮らしてみるのです。そこまで身を落として、何の力によって私たちが生かされているのか、突きとめてみるのです」
「先生! 私には……できません」
「今、死んだつもりでやりますと言われたのは、どなたですか! そんな料簡だから行き詰まるのです。聴けば貴女には、主人も子どももあるというではありませんか。なんという罰当たりなことを言われるのですか」

子どもも主人もありながら、家庭のある事情から、死ぬ覚悟もしたのだという婦人の告白に、心なしか順教尼の言葉は激しかった。

「さあ、私の両腕の付け根をしっかりと握るのです。貴女には、この冷え切った腕の付け根の冷たさがわかりますか。私のようなものでも、この無手の中から、二児を育てることができたのですよ」
「先生、私はとんでもない心得違いをしていました」
「目を覚ますのです。過も福も、ほんとうは一つなのです。貴女の心一つで、この世の尊さがわかるのですよ」
「先生、両手を柱に縛りつけられたつもりで、私の我を捨て、私を生かしてくださる真(まこと)の恵みに預かりたいと思います。ありがとうございました」

順教尼の両腕の付け根を握りしめる婦人の頬には、大粒の涙が伝わるのであった。

一燈園石川洋さん(昭和43年2月10日「無手の法悦」あとがきより)

 

露草の声 ⑱

彼が左手に持つ箸の運びは誠に美しく少しも不自然ではありません。
やがて彼は荷物の中から二、三葉の短冊を取り出して、私に見せました。
いずれも俳句ばかりで、雅味のある千蔭(ちかげ)流と思われる書体も私を悦ばしてくれました。

「あんた、二、三日ゆっくりと句でも詠んで静養しなさい。いずれへか、お世話いたしましょう」

私はこの人ならどこかのお寺の受け付けに坐らせてもらったらよかろうと思いました。
彼は嬉しそうに笑って頭を下げました。
彼の返事は笑顔か、頭を下げるかの二つだけであります。
彼はやがて荷物の中から仕事の服と着かえ、畑にゆき、南京の棚の後始末やら、風呂の水くみやら、ちょっとの間も惜しむように立ち働いておりました。
午後は彼とお茶を飲みながら、
「あんた、ね、花、好き、そう、花が好きらしい顔してますね。それなら、庭に何か花があるでしょ。どれなと生(い)けてください。花器はあそこの戸棚にあるのを使ってください」

私はそう言って仕事にかかり、夕方湯から上がりまして座敷の床を見てアッと驚きました。
床には私の大好きな古備前(こびぜん)に糸すすき一本に桔梗(ききょう)が一輪添えてありました。
次の茶室には魚籃(ぎょらん)に昼顔の花が笹にからませて床柱にかけてありました。
昼顔の花は明日を待つように瑞々(みずみず)しい姿を見せております。
彼は筆を取って、
「昼顔は明日咲くと思います。糸すすきはここの谷川のほとりにありましたのを見つけてきました」
「そう、よく生けられましたね。あんた差し支えなかったら詳しく話してください。あんたのご両親は?」
「ハア、父に早く死に別れまして母の手一つで22歳まで一緒におりましたが、母とも死に別れて一人ぼっちになり、淋しく過ごしておりますうち、思わぬ事故で不具となり、その当時は苦しい月日を過ごしましたが、誰も僕の好きな道を歩ましてはくれません。みな不具者という眼で見てしまわれます。いくら人々から軽蔑されましても決して悲しくも辛いとも今は思いません。僕に花と言う娘が、自然に咲いた子が、行く先々に待っていてくれます」
「そうね、花という清らかな娘がね。そしてあんたの母御はどんな方、さぞかし優しい、良いお母さんでしたでしょうね」
「僕の母は京都の嵯峨未生(さがみしょう)を幼いときから習い、僕が22歳のとき、母は病の床からも花のことを教えてくれ、一生花とともに花の中で安らかに眠ってゆきました。僕はこの世に花のある限り淋しくありません」
と、にっこり嬉しそうに笑っていました。
私は、頷きながらも、さもあらんと、いつまでも彼の面をじっと見ておりました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)

 

露草の声 ⑰

朝も庭に下りたち、露に濡れた草を心地よく踏みながら雑草を取っておりますと、誰やら後ろに人の気配がいたします。
後ろを振り向きますと、そこに一人の若い男が立っています。
私の草を取っている姿を見ていたらしく、懐かしそうに、黙って丁寧に頭を下げました。
やがて静かに上げた面(おもて)にはうれしそうに笑みを含んでいます。
ふと見ると、右側の服が肩から平たく垂れ下がっているのです。
この人は左腕のみで、右手のない人であることがわかりました。

「よくこんなに朝早く来られましたね。このお近くの方ですか。何か私にご用がおありですの」
と申しましたが、その人はやはり黙って頭を下げ、やがてまた面を私に向けてジッと見つめています。
その澄み切った眼からは、今にも一雫ひとしずく)の露がこぼれるかと思いましたが、一言の挨拶もないのです。

しばらく二人は黙したまま眼と眼でお互いが何かを探るような沈黙が続きました。
この人は何を私に求めてきたのか、私はついに彼に構わず、鍬(くわ)を取って雑草を削り始めました。

双腕のない私がどうしてするのかと言われますが、何が幸いになるのか私の腕は関節からありませんので、私だけが使用いたします小さな鍬を脇にはさみまして、地に這った草を削ります。
また長く伸びた草は足の指先で抜き取ります。
彼は私のそうした仕事を見ていましたが、つと私の前に来て軽く頭を下げ、私の鍬を取って削り始めました。
今朝早くから来たこの人が何者か、そんなことを考えることもなく、自然に私も鍬を彼に任せました。
私は私で足の指先のみで草を抜いていました。
彼の鍬を持つ手は申すまでもなく左手だけでしたが、しっとりと露を含んだ杉苔の中の草を引くときは、苔をいたわるように一本一本引いています。

約一時間近く草を取っていましたが二人とも一言も物を言わず、あらかたの草を取り終わりますと、彼は筧(かけひ)の水で手を洗い、ズボンのポケットから手帳を出し、何か書いてあるものを見せます。

「僕は口がきけません。そのうえ右手がありませんが、自分には少しも不自由を感じておりません。どんなことでもさせてくださいませ。親も身寄りの者もありませぬが、自分には自然という友だちがありますから感謝しております。先生をお慕いして、はるばるまいりました。どうかしばらく修養をさせてくださいませ。お願い申し上げます」
と書いてありました。

私も長い間障がい者の方々のいろいろとお仕事をさせてもらいましたが、手がなくて、口がきけず、そうでありながら少しも暗い陰がなく、体に備わった風格と申しますか、このように落ち着いた方にお会いしたのは初めてでした。

「せっかくお尋ねくださいましたが、私のほうは、女性のみで男の方はお断りしておりますので」
と申しましたが、何か私はこの人をこのままお断りする心が淋しい気がしますので、
「そうそう、あんた朝食はまだでしょう。一緒にお食事をいただきましょう。私の家では毎朝おかゆですよ。さ、お茶のおかゆです。朝お仕事を終えて、このおかゆをいただくときの美味しさは何とも言えない楽しさ、有り難さです」
そう言って彼と一緒に朝食をいたしました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)

不思議な出来事

彼岸に、昨年亡くなった義姉を思い出します。
生前、姉と二人で度々実家に遊びに行きました。
穏やかな人で、「よく来たない」と迎えてくれ、3人で楽しくお茶を飲みました。
そんな義姉の世話になって旅立った父母は本当に幸せだったと思います。

一時間ほど話し「また来るよ」と言うと、「いつでも来らし」と温かい言葉に送られ、姉と「今度はいつ行く?」と楽しみにしていたことを懐かしく思い起こします。

夜、私の部屋に、パジャマ姿の女性が入ってきて、話をせずに出て行ったことがあります。
隣の部屋で寝ている孫娘に「ばあちゃんの部屋に来て、何で黙って出たの?」と訊くと、「行ってないよ。寝ぼけたの?」と言われました。

眠れないまま迎えた朝。
甥から「ばあちゃんが亡くなった」と電話がありました。
義姉の魂が私にお別れに来てくれたのだと思いました。
不思議な出来事でした。
楽しい時間をありがとう。
仏前で声なき会話を交わしています。

※石川町の瀬谷マツノさん76歳(平成31年3月19日地元紙掲載)

 

春彼岸に思う

この世は、肉を纏った100年そこらの小旅行。
人として喜怒哀楽、四苦八苦を味わい、魂を磨き、やがては肉を脱ぎ捨て、異界へ還る。
歳を重ね、残された年数を数える。
平均寿命からすれば折り返して10年、肉体の死は少しづつ現実味を帯び出した。
時間という概念、その受け止め方は人それぞれ。
20代の一日と60代のそれは違う。
20代は同じことの繰り返しと生命の長さに退屈し、60代は同じことの繰り返しの中に感謝と、肉体の衰えに対する怯え、それに経済的備えの乏しさが加わり、老後の不安を募らせてゆく。
肉体の消滅はあっても生命に終わりはないと知りつつも、老後の不安は未だ拭い切れない。

この世は「板子一枚下は地獄」。
自然災害、不治の病、事件、事故・・・他人事のように見ているこれら災難がいつ何時降りかかるやも知れぬ。

方丈記の冒頭、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」が頭をよぎる。
そして、「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」と続く。

人(住居)は、さもうたかた(水の泡)のようにして、いつか儚く消える。
人はどこから来て、どこへ去るのだろう。

仏壇の前に坐れば、遺影の変わらぬ笑みが今日も私を見詰める。

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
今できうることは、日一日に感謝し、その日限りの命として生きること。
嘆くまい、怒るまい、怖気づくまい、悲しむまいと。
世界平和と身内の息災を祈りながら。

 

泥中の蓮 -吉原奇縁ー ⑯

久めは吉原の辰稲弁楼の瀬川花魁、私は堀江遊郭山海楼の舞妓妻吉となって、8年ぶりに逢ったところは、仲の町の辰稲弁楼の揚屋でありました。

このめぐり逢いの後、私はたびたびこの瀬川花魁のもとへ通いました。
ついには楼主の知るところとなり、ある日、二人は内所へ呼ばれて主人からたずねられました。
二人は幼な友だちであり、他人の姉妹であると申しました。
侠気(おとこぎ)な辰稲弁の主人は私が行きましても、金銭を使わぬように姉妹として会わしてくれました。
のみならず吉原の人たちにも自分が先に立って廓内の青楼や芸者たちにも引き合わせ、善孝ともども好感をもって、私が出ています各所の寄席へ縫取りの緞子(どんす)の後ろ幕を贈ってくれました。

瀬川花魁はいやしいつとめこそしておりましたが、彼女の部屋の床脇には尺ほどの仏像が安置してありました。
毎朝起きますとまず身を浄めて、静かに香をたき黙禱(もくとう)をしています。
大きく結い上げた立兵庫の髪に金の糸をたらし、紫かの子の襟を、白いうなじにのぞかせて、後ろ向きに合掌して坐っています姿はじつに麗しく、何とも言えぬ清らかさがありました。
普賢菩薩の化身江口の君もかようなものかと尊い感に打たれました。

仏道のことは何もわきまえのない私も、ただ何となく仏様の慈悲の世界を慕うようになっておりましたこのころ、この朝の気持がたまらなく懐かしかったのです。
しんみりと安らかな気分、薫(くん)じられた五種香の立ちのぼるほのかな匂い、その静かな中に私はゆったりと心が和らぐのでありました。

彼女はある朝言いました。
「このお厨子(ずし)の中の仏像は十一面観世音です。この観音様は、代々家に伝わった物で、ご先祖が確か、奥方様のお輿入れのとき、お里からお持ち遊ばれたのを奥方様から賜った物で大切にしたのでした。家が困ったときよほど手放そうかと思いましたが、いよいよお別れのときだと合掌していますと、何かしら心の道が開けて、教えていただくのです。私はついにここまでお連れ申し上げてまいりました。誠にもったいないことと思います。しかし、私はこの観音様におすがりして、多くのまちがった男の方に、日本の女性の真の心をこめて、朝の別れの言葉を言ってまいりました。二度と道に迷わぬよう、かようなところへは深入りせぬようにといって帰すのです。親兄弟の意見は耳へ入らずとも、こうした廓の女の言うことは必ず聞き入れてくれました。女郎と言えば人は皆いやしいもののように言いますが、一口にそうとも限りません。昔から吉原ばかりでなく、遊女には優れた人がありました。私は義理ある父にここへ売られた、と思えば悲しくもなりますが、この身このままを菩薩の行としてまじめにつとめあげ、亡き父母や家中の人々の冥福を祈りたいと思うております。よねちゃんも仏心を持って人のために尽くしてください。仏様は慈母のごとく、ことに観音様は何事もわが身に変えてお救いくださいます。どんな生活でも決して不幸ではありません。幸、不幸はみんな自分の心の底にあるのです。二人は菩薩行をしましょうね。ああ、ちょっと待って……」
と言いながら、かたわらの文机(ふづくえ)に向かい、さらさらと短冊に書きました。

ありがたやきょうも菩薩の声ありて
さとし給いきおのがつとめを

瀬川花魁は、三つに折りたたんだ短冊を私のふところへそっと入れてくれました。
泥中の蓮とはこの瀬川花魁のことを言うのでしょう。
明治40年、春の暮れのことでありました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)

 

 

泥中の蓮 -吉原奇縁ー ⑮

遭難(堀江遊郭6人斬り)の翌年のことでした。
年の暮れに大阪を出立(しゅったつ)しまして、私たちは上京をいたしました。
新橋駅へ着きますと、多勢の出迎えの人々の中に、有名な幇間(ほうかん)桜川善孝が弟子たちや、吉原の芸妓連を案内して私を待っていてくれました。

駅は美しい人たちで時ならぬにぎわいを呈しました。
私を中にこの人たちを乗せた人力車は新橋から京橋、日本橋をへて、神田の万世橋さがみやという旅館に落ち着きました。

私はこの善孝という人の紹介で、吉原はもとより、そのころの名優たちにもちかくしてもらいました。
浅草方面の侠客で有名な人が、私を連れて各所へ挨拶に廻ってくれたりしました。

いろいろなこともありましたが、万世橋で待ちうけてくれた桜川善孝の案内で、吉原仲の町の青楼(おちやや)で不意に経験した一つの出来事をお話ししましょう。

善孝の弟子はもとより落語家連の慰労のつもりで、ある夜仲の町の辰稲弁へくり込むことになりました。
楽屋の連中は寄席の引けるのを待ちかねて、威勢よく人力車は吉原へ向かいました。
お大尽(だいじん)は、18歳の私です。
やがて大広間の宴もはてて、いよいよお大尽は敵妓(あいかた)の花魁(おいらん)の部屋へお引けということになりました。

私の敵妓は御職(おしょく)(一番の上位)の瀬川という花魁でしたが、私をどうあつかうかと一座は言わず語らず興味を持っていました。

案内された部屋は6畳と4畳半の二間で、お定まりの長火鉢の前には友禅の揃いの座蒲団が二つ敷かれてありました。
鉄瓶の湯はしんしんと音を立てています。
私は一人黙然(もくねん)としながら、お芝居でみる白石噺(ばなし)の揚屋(あげや)を思い出しました。
しばらくするとハタハタと廊下に重ね草履の音がします。
花魁だ、私は思わず坐り直しました。
花魁は来ました。
私は恥ずかしいのでうつむいていました。
彼女は火鉢の向こうに、裲襠(うちかけ)の裾(すそ)もあざやかにさばいて坐りました。

私は少し落ち着くと、そっと花魁の顔を見上げました。
面長な美しい、そして豊国が好んで描いた錦絵を思わせる顔でありました。
彼女の表情に何か一種の動きがありました。
眸(ひとみ)がじっとすわっています。
花魁の口が稲妻のような速さで浴びせかけました。
「あんた、よねちゃん——」
私はぎょっとして彼女の顔を見ました。
「よねちゃんだ、よねちゃんだ、二葉のよねちゃん——」
花魁の顔がくずれ、姿勢がくずれて私を抱きました。
その顔から瞬間私は記憶をしっかりつかまえました。
私は再び驚きの眼を見はりました。
「久め姉ちゃん」
「おお、よねちゃん」
「久め姉ちゃん」

私と彼女はひしと抱きあったまま、からだをふるわせて泣きました。
彼女を抱く手のない私は身もだえしてそれを悲しく思いました。

私にはこの久め姉ちゃんをどうして忘れられるものでしょうか。
この久めという人は、私の七つ、八つのころ、道頓堀の家に身を寄せていました。
彼女は不幸な娘でありました。
女姉妹のない私はこの久めとは大の仲よしで、勝気な私にひきかえて、久めは素直ないい性格の持ち主でした。
彼女の父は淀の家中(かちゅう)でありましたが、御維新後思わしい仕事もなく、ついには父は貧の中に淋しく死んでいきました。
母は姉妹と苦労をしていましたが、久めさんは私の家へ、姉はどこかの家に女中奉公に行きました。
母は二度の夫を持ちましたのが、彼女がここへ来なければならぬきっかけになったそうです。
久めは私の家におりましたが、女髪結になるとて弟子入りをして修行中、姉がリウマチで病み、ついに足の不自由な身となりました。
母も長い苦労で姉妹に心を残して世を去りました。
義理の父はこの娘たちをいつも食いものにしていましたが、姉は不具の身のどうにもならず、ついにこの久めを吉原仲の町の辰稲弁へ年季のつとめに売ってしまいました。
私たち二人は、別れてからの長物語に目を泣きはらし、一夜を寝ずに明かしました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)