朴念仁の戯言

弁膜症を経て

露草の声 ⑰

朝も庭に下りたち、露に濡れた草を心地よく踏みながら雑草を取っておりますと、誰やら後ろに人の気配がいたします。
後ろを振り向きますと、そこに一人の若い男が立っています。
私の草を取っている姿を見ていたらしく、懐かしそうに、黙って丁寧に頭を下げました。
やがて静かに上げた面(おもて)にはうれしそうに笑みを含んでいます。
ふと見ると、右側の服が肩から平たく垂れ下がっているのです。
この人は左腕のみで、右手のない人であることがわかりました。

「よくこんなに朝早く来られましたね。このお近くの方ですか。何か私にご用がおありですの」
と申しましたが、その人はやはり黙って頭を下げ、やがてまた面を私に向けてジッと見つめています。
その澄み切った眼からは、今にも一雫ひとしずく)の露がこぼれるかと思いましたが、一言の挨拶もないのです。

しばらく二人は黙したまま眼と眼でお互いが何かを探るような沈黙が続きました。
この人は何を私に求めてきたのか、私はついに彼に構わず、鍬(くわ)を取って雑草を削り始めました。

双腕のない私がどうしてするのかと言われますが、何が幸いになるのか私の腕は関節からありませんので、私だけが使用いたします小さな鍬を脇にはさみまして、地に這った草を削ります。
また長く伸びた草は足の指先で抜き取ります。
彼は私のそうした仕事を見ていましたが、つと私の前に来て軽く頭を下げ、私の鍬を取って削り始めました。
今朝早くから来たこの人が何者か、そんなことを考えることもなく、自然に私も鍬を彼に任せました。
私は私で足の指先のみで草を抜いていました。
彼の鍬を持つ手は申すまでもなく左手だけでしたが、しっとりと露を含んだ杉苔の中の草を引くときは、苔をいたわるように一本一本引いています。

約一時間近く草を取っていましたが二人とも一言も物を言わず、あらかたの草を取り終わりますと、彼は筧(かけひ)の水で手を洗い、ズボンのポケットから手帳を出し、何か書いてあるものを見せます。

「僕は口がきけません。そのうえ右手がありませんが、自分には少しも不自由を感じておりません。どんなことでもさせてくださいませ。親も身寄りの者もありませぬが、自分には自然という友だちがありますから感謝しております。先生をお慕いして、はるばるまいりました。どうかしばらく修養をさせてくださいませ。お願い申し上げます」
と書いてありました。

私も長い間障がい者の方々のいろいろとお仕事をさせてもらいましたが、手がなくて、口がきけず、そうでありながら少しも暗い陰がなく、体に備わった風格と申しますか、このように落ち着いた方にお会いしたのは初めてでした。

「せっかくお尋ねくださいましたが、私のほうは、女性のみで男の方はお断りしておりますので」
と申しましたが、何か私はこの人をこのままお断りする心が淋しい気がしますので、
「そうそう、あんた朝食はまだでしょう。一緒にお食事をいただきましょう。私の家では毎朝おかゆですよ。さ、お茶のおかゆです。朝お仕事を終えて、このおかゆをいただくときの美味しさは何とも言えない楽しさ、有り難さです」
そう言って彼と一緒に朝食をいたしました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)