朴念仁の戯言

弁膜症を経て

僧侶、新たな姿を求めて

福祉と仏教
「寝ている間に仏さんに迎えに来てもらう。それで、あんたにおまいりしてもえたら、ええな」
90歳を超えた女性の言葉に、真宗大谷派僧侶の三浦紀夫(49)は大きくうなずいた。
「うれしいな。わが人生に悔いなしや」
年齢を感じさせない張りのある声が響くと、三浦は間髪入れずに言う。
「150歳まで生きたら、もっと若いお坊さんに頼まんと、いかんね」
大阪人らしい軽妙なやりとり。部屋が笑い声で満ちた。
三浦が事務局長で理事を務めるNPO法人「ビハーラ21」は、生老病死の「苦」に寄り添うという理念の下、僧侶や介護スタッフら医療福祉の専門家が連携しながら、高齢者や障害者向け施設の運営、独居高齢者支援の事業を進めている。
ビハーラはサンスクリット語で「僧院」「休息の場所」の意味だが、近年は終末期を中心とした医療や福祉における仏教者のケアを指すことが多い。ビハーラ僧と呼ばれる三浦は寺の出身ではない。かつては猛烈サラリーマンだった。

▶バブル期
大阪府貝塚市のサラリーマン家庭に生まれた。
豊かな家ではなく、中学、高校の時に思ったのは「世の中、金がなかったらあかん」。
1985年、大学に進学したものの、時代はバブルが始まる次期。
「学校へ行っている場合やない、と思いました。働いたら金になる、って」
アルバイトに精を出して大学を中退、建築資材メーカーに就職し実力主義の社長に認められて秘書役に。華やかな接待に同席し、社長の名代として冠婚葬祭の場にも出向いた。
猛烈に働いて取締役に抜擢されたが、社長の死去を機に1997年の退職、企業の顧問などを務めるコンサルタントへ転身した。仕事は順調に高収入を得る。
そんなある日、大阪市内の有名百貨店が新事業として仏事相談コーナーを開設することを知り、強い関心を抱いた。
数多くの葬儀に参列した経験を持つのに、95年に自らの父親を送った際、会葬者への対応が十分ではなかったとの心残りがあった。
勉強のつもりで講習会に出掛け、相談担当者として働き始める。
顧客サービスの改善を求めていろいろ意見を言うと、百貨店側から現場責任者になるよう依頼された。以後、仏事相談が三浦の主な仕事となる。2001年のことだった。

▶悩みの相談
デパートの一角にある相談コーナーに座って驚いたのは、香典返しなどの相談そっちのけで亡き人への思いを吐露する客が多かったことだ。
「家で引き取りたがっていたのに、かなえてあげられなかった」「母の魂はどこへ?」
時間を気にせず、じっくり話を聞いた後、相手を思いやる言葉を掛けると、「ここへ来てよかった」と涙を流す人も。
「なんなんやろ、これは」
華やかな百貨店の片隅で、静かに語られる近しい人々の死にまつわる嘆きや悲しみ、悔恨。
小さな子どもを亡くした人に仏壇を世話し、こんなつぶやきも聞いた。
「○○ちゃんのおうちができたよ。ずっと一緒だね」
今も忘れられない。
死は誰にでも訪れる。
金は大事だが、金だけじゃ駄目だと身に染みた。
「イケイケ猛烈サラリーマンの反動が来ました」
三浦の相談は評判を呼んだ。
悲嘆の場に身を置くうち、三浦の中で疑問が膨らむ。
お坊さんは一体、何をしているのだろう。

▶生活全般
客に聞くと「お坊さんにそんなこと、言えません」
三浦は目についた寺に次々と飛び込み、僧侶の役割を問うた。いくつもの寺を回った後、「君がそう思うならば、自分が見本になったらどうか」と返答した住職に出会う。これが縁で三浦は住職になった。
「ビハーラ21」で主に心のケアを担うが、まずは安心して暮らせるよう、生活全般の支援をする。
大切なのは「自分らしく生きられること」。
そして、死期が迫った人の手を握り、体をさする。頼まれれば、葬儀も執り行う。専門職と連携しながら、その全てに関わるのが僧侶の役割だ、と三浦は考える。
通夜の席で亡くなった人についての話をする。みんなが真剣に聞き、問う。
「わしが死んだとき、何の話するの?」「そのときに考えるわ。間違ったことを言うたら、その場で突っ込んでくれてもええで」
みとりの場は意外に明るく、専門の介護スタッフへの感謝の気持ちが表情に出るという。
自らを振り返り、「自分の人生はこれじゃないな、と思う人が来てくれるといい」と話す。
「福祉の現場に僧侶がいる」
それが日常の風景になることが三浦の願いだ。

※「岐路から未来へ」より・西出勇志さん(平成26年9月13日地元紙掲載)

 

三度入院の師僧 眠るような最期

私の師僧は21年前に満99歳で死去した。
弟子入りした時が師僧86歳、それまで一度も医者にかかったことがないのに私は三度病院に運んだことがある。

最初は脳の4分の3が真っ白だと言われたので脳出血か。
入院して一週間後、退院するまで医者はCTを撮ったのみ。
意識が回復したら本が読みたいと言った。
「不思議なことですが、周りの健康な脳細胞が血を吸収しています」と医者。

5年後、次は結核
これも本人は元気なのだけれど法定伝染病だから仕方なく三カ月入院した。
そして晩年の98歳のとき、山登りをしていて転倒し鎖骨を骨折、利き腕にギブスをはめられていたが、食事時間は外すので意味がない。
これも一週間で骨がくっついた。

最期は好きな風呂に入って眠るように。
献体1年後、解剖学教授に師僧は肝臓がんだったと聞かされた。
それもビッグサイズの。
「ここまで大きいと何か症状があるはずですが?」と聞かれた。
だるいとかあったかもしれないが、一世紀生きたら、こんなもんだろうと笑っている師
僧の顔が浮かんだ。

病院に行くから、病気が発見される。

いわき市の平尾弘衆さん61歳(平成26年8月29日地元紙掲載)

 

夢実現の時にすべてを失った現実

夢中で子育てし、ホッとした時には孫守が始まった。
多忙のとき、二人で旅行するのが何よりの楽しみだった。
やっと暇を見て国内旅行し、外国に行くのが夢だった。
妻が63歳の12月末、この年から年賀状を印刷した。
妻には友人に近況を知らせたらと数枚の賀状を渡し、書き終わったのを見て愕然とした。

暮れも迫っていたので早く年が明けてほしいと眠れない日々が続いた。
これからが私たちの夢実現なのに、すべてを失った現実だった。
仕事始めの日、妻を連れて病院に行こうとした。
妻は「何で私が病院に行くの」と不機嫌だったが、何とか説得した。

心療内科を受診させ、先生の診断は予想通りアルツハイマー病だった。
自宅で介護したが10カ月で精神病院に入院した。
入院三日目から私のことを忘れ、独り言を言いながら徘徊が始まった。
急激な変化で為すすべもなかった。

その後施設にお願いした。
面会に行くたびに妻に「何も悪いことしないのにな」と何度も訳なく恨んだ。
私の感謝の思いも通じないまま、妻は71歳で他界した。

福島市の本多信治さん76歳(平成26年7月3日地元紙掲載)

 

憲法9条 空洞化の危機

解説
集団的自衛権行使を可能とする憲法解釈変更が閣議決定され、戦後維持してきた抑圧的な防衛政策の転換が決まった。
与党協議は多くの論点を詰め切れないまま決着し、拙速の印象は免れない。
国民理解は置き去りにされ、憲法9条の理念は空洞化の危機にさらされている。
安倍晋三首相の責任は重い。
自国の守りに徹する専守防衛は1954年の自衛隊発足以来の基本方針だ。
一方、集団的自衛権は、他国への攻撃を自国攻撃と見なして反撃する権利。
自衛隊の活動は大きく変容し、初の武力行使に及ぶ可能性がこれまでより高まる。
首相は閣議決定後の記者会見で、中国などの軍拡などを念頭に、抑止力を強化する必要性を説いた。
外国を守るために日本が戦争に巻き込まれる事態は「あり得ない」とも言い切った。
だが国策の根幹に関わる大転換が国民不在の政府、与党の議論で進められたこともあり、説得力は弱い。
政府は集団的自衛権行使の歯止め策として「武力行使3要件」を設け、「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限定すると主張するが、曖昧さは否めない。
先の大戦の反省もあって9条への国民の共感は幅広い。
安全保障環境の変化に即した対応が必要と考えるなら真正面から憲法改正を問うべきではないのか。
手続きを省き、結論を急いだ首相の政治手法は立憲主義の観点から危うさを覚える。
公明党も姿勢転換の説明責任を問われる。
首相は「憲法が掲げる平和主義をこれからも守る」と明言する。
今後の国会論議を通じ、首相の真意を見極める必要がある。

平成26年7月2日地元紙掲載

 

父の罪、許されない

オウム・松本死刑囚の四女 「生まれた自分が憎い」
オウム真理教松本智津夫死刑囚(59)=教祖名麻原彰晃=の四女(25)が14日までに共同通信の取材に応じ、「父は許されない罪を犯した。被害者の方々に償いきれるものではなく、死刑の執行を望んでいる」と現在の心境を語った。
四女によると、1989年、静岡県富士宮市の教団施設で生まれ、6歳の時に松本死刑囚が逮捕された。
その後、ほかの家族らと千葉、茨城、栃木各県や都内などを転々とし、16歳で家出した。
一連のオウム事件をめぐる公判記録を調べて教団の罪を理解し、18歳で信仰と結別。
現在は家族や信者と連絡を絶って生活しているが、罪悪感から繰り返し自殺を図ったという。
「父の娘に生まれた自分を、この世から消し去りたいくらい憎んでいる」とも話した。
松本死刑囚とは、2008年までに6回ほど収容先の東京拘置所で面会。
当時は丸刈りでひげもそり、だいぶ痩せた様子だったと説明した。
精神障害の状態にあるとの見解に対しては「会話が成立したことがある」と疑問を呈した。
教団の後継団体については、四女は「かつて殺人を容認した教義は変わっていない。再び父のような絶対者が現れれば、第二の事件が起こりうる」と強調、信仰をやめるべきだと訴えた。
松本死刑囚の子どもは信者の間で「皇子(こうし)」と呼ばれ、「神」として振る舞うことを求められていたという。
以前の家族との生活は、100円の靴下を買って喜ぶ一方、ゲームセンターで月に30万円使ったこともあり、「経済的価値観がずれていた」と振り返った。
松本死刑囚によって、幼い時には教団元幹部の遠藤誠一死刑囚(54)の婚約者にされていたとも明かした。
教義で禁じられているとされる「愛」を意味するハートのネックレスを着用。
「私にとって信仰が抜けたとの象徴」と説明した。

いじめや差別、居場所なく
信仰と決別しても「教祖の娘」という烙印は消えない
いじめや就学拒否、就職差別…。
オウム真理教松本智津夫死刑囚の四女は、血のつながりに悩み、苦しみ抜いた日々を振り返った。
「市民が不安に思っている」
松本死刑囚が逮捕された約5年後の2000年夏。
姉弟や信者数人と茨城県龍ヶ崎市に引っ越してきた四女は、小学校への就学を拒否された。
ようやく認められたのは翌年の春だった。
待っていたのはクラスのいじめ。
「人殺しの子ども」
集合写真は自分の顔の部分だけくりぬかれた。
地下鉄サリン事件の記憶が色濃く残る都心のベッドタウン
友人の母親は言った。
「あなたはオウムでしょ。うちの子に関わらないで」
中学卒業後、教団関係者と交流する家族から自立したくなり、家出を繰り返すように。
児童相談所に保護されたほか、元信者の家を転々とした。
数カ月間、インターネットカフェや路上で寝泊まりしたこともあった。
働き口が決まっても、しばらくして身元が分かると解雇された。
「絶対に間違っていると思う。でもどうしようもなかったんだ」
上司は申し訳なさそうに言った。
理由は経営に影響が出るかもしれないから。
その後もアルバイトや派遣の仕事を転々としたが、長続きすることはなかった。
周囲に受け入れられようと努力してみても、無力感が込み上げる。
「この血が罪なのでしょうか。私の立場で言えるのかは分からないが、社会はあまりにも非情すぎる」

平成26年6月15日地元紙掲載

 

つながり

「愛は溢れゆく」と言われています。

一人の長距離トラックの運転手が、自分の体験を投書していました。

「その日、自分は夜っぴて運転し続けて、あと少しで目的地に到着するはずでした。朝の7時頃だったでしょうか、目の前を一人の小学生が、黄色い旗を手にして横断歩道を渡り始めたのです」

運転手は疲れもあったのでしょう。
忌々(いまいま)しく思い、急ブレーキをかけてトラックを止めました。
すると、その小学生は横断歩道を渡り終えた時、高い運転台を見上げて、運転手に軽く頭を下げ、「ありがとう」と言ったそうです。

「私は恥ずかしかった。そして決心したのです。これからは横断歩道の前では徐行しよう。そして、もし道を通る人がいたら、渡り終えるまで待ち、笑顔で見送ろう」

ほほえみ、優しさ、愛は、このようにつながってゆき、溢れてゆくのです。
運転手に笑顔で見送られた人は、嬉しくなって、多分、言葉も、態度も、その日一日優しくなったことでしょう。

マザーテレサが言われました。
「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかも知れないが、この一滴なしには大海は成り立たないのですよ」
さらに、「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つ一つに、大きな愛を込めることはできます」

小学生の笑顔と、「ありがとう」の一言は、それ自体は小さな行いです。
しかし、それが次の人につながっていって、相手の心を優しくし、その優しさが溢れていって、社会に、家庭に、平和をつくり出してゆくのではないでしょうか。

※シスター渡辺和子さん(平成29年4月29日心のともしび「心の糧」より)

 

見直される俳句の力

震災詠と戦争詠 究極の詩型の強み

ー沈黙の量ー
2月24日、東京のホテルで開かれた読売文学賞贈呈式。
詩人の高橋睦郎さんが選考委員代表として壇上に立った。
「3.11という深刻な事態に対し、散文も詩も短歌もしゃべりすぎ。俳句だけがその詩型の宿命上、含み込まざるを得なかった沈黙の量により、かろうじて対応し得ている」
高野ムツオさんの句集「萬(まん)の翅(はね)」についてのこの選評が、文学の世界で話題になった。
「萬の翅」は蛇笏(だこつ)賞と小野市詩歌文学賞も受け、現段階での震災句集の決定版とされる。
地震(ない)の闇 百足(むかで)となりて 歩むべし〉は震災当日、仙台市から宮城県多賀城市の自宅まで歩いているときに作った。
〈車にも 仰臥(ぎょうが)という死 春の月〉
〈春光の 泥ことごとく 死者の声〉
高野さんは「今生きて在るこの現実、目の前で刻々と変化する現象を言葉でつかむ。それだけ考えた」と明かす。

ー深い思いー
高野さんが被災地以外の震災詠として注目する句に、金子兜太さん(元県文学賞審査委員)の津波のあとに 老女生きてあり 死なぬ〉がある。
金子さんは1944年に南洋の激戦地、トラック島に赴き、戦後は捕虜となった。
46年、島から引き揚げてくる際に詠んだ句、〈水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る〉は有名だ。
九死に一生を得る体験をした人だからこそ、津波で生き残った人に思いを寄せたのだと思う」と高野さん。
俳人の宇多喜代子さんも、震災詠と戦争詠を結び付けて考える。
「俳句は戦争や震災を詠むのに向いている。兵士は生死ぎりぎりの場面で頭の中で句を作り、戦地から戻って文字に起こした。切羽詰まった状況でも詠めるのが強みです」
宇多さんは震災翌年の夏、俳句大会で宮城県気仙沼市を訪ねたとき、女性から「赤ちゃんがあおむけで、手足を上げて亡くなっていたのを見た」と聞き、「ああ、ここの赤ん坊もそうか」と思った。
「赤ん坊は、母親に『助けて』と手や足を出し、そのまま息絶えるのではないか。そう思えてならないんです」

ー宙を蹴るー
45年7月、9歳だった宇多さんが山口県徳山市(現周南市)の空襲で見た赤ん坊の遺体も同じだった。
中東の戦禍で死んだ赤ん坊の報道写真も。
〈八月の 赤子はいまも 宙を蹴る〉
「戦争でも震災でも、これから生きようとする命が奪われることが、一番つらい」と宇多さん。
だから気仙沼ではこう詠んだ。
〈短夜(みじかよ)の 赤子よもっと もっと泣け〉
空襲で逃げる途中、すぐ後ろにいた人が焼夷(しょうい)弾の直撃で命を落とした。
「私が生きているのはたまたまのこと。空襲で生き残った私も、津波で生き残った人も、そういう意味では全く同じです」
多くの人が震災を詠み、それを読んで励まされたり慰められたりする人もいる。
「人間は自然と無縁ではない。そして、自然は美しいだけでなく怖いものでもある。俳句で、震災で感じた思いを後世に伝えていきたい」

平成26年6月28日地元紙掲載