朴念仁の戯言

弁膜症を経て

年頭に想う

新年だ。
年の区切りとして目出度いことなのだろうが、これも人間界の出来事であって、自然界は何ら変わりなく、過ぎ行く時の概念も人間だけのものであって、自然界はただ「今」あるだけ。
人間も肉を脱ぎ捨てれば、過去も現在も未来もなく、「今」あるだけの魂となる。

可燃物の収集日を狙って生ゴミを漁るカラスのように、庭の片隅の砂地に人糞と見紛うような糞を積み上げる野良猫のように、物悲しい眼で遠くを見詰める鎖に繋がれた飼い犬のように、今を生きたい。
「今」を意識し、今あることの有難味を知れ。

 

自学

そろそろテレビを消そうかと炬燵の上のリモコンに手を伸ばし、椅子に坐り直してテレビに向けた。
「ボクの自学ノート」
テレビ画面に浮かび上がる文字。
丁度、何かの番組が始まる時間帯だった。
「自学」の文字に好奇心が湧き、リモコンを手にしたまま、また椅子に坐り直して画面に見入った。

番組の主人公は梅田 明日佳君(現在17歳)。
彼は小学校時代に出された自由課題の、自らテーマを見つけ学ぶ「自学」に小3から中3までの7年間取り組んだ。
小学校までは自学の成果を評価してくれる教諭がいたが、中学生になると自学の課題はなくなり、環境は一変した。
生来、運動が苦手だった彼は、同級生たちの輪の中に溶け込むことができず、孤立しがちだった。そんなこともあってか、大半の生徒は部活動に励んでいたが、彼はどの部にも入らず、授業が終わると自宅に直行し、一人自学に励んでいた。
中学生になっても自学を続けて来られたのは、小3の時、地元時計店の社長と出会って自学ノートを通して新たな交流が始まったことが大きく影響しているようだ。
その後も彼独特の押しの強さで地元資料館の職員や様々な分野で活躍する人たちにも自学ノートを読んでもらえるようになり、自学ノートは彼らと会える「切符」、未知の扉を開ける「鍵」となった。

だが、母親としては、同い年の子とあまりに違う我が子の姿がとても心配だったようだ。
「コミュニケーション能力もないでしょ。積極的でもないでしょ。それがないと社会でやっていけないよっていう話も学校であったときはちょっとショックでしたけど…」と言って涙ぐむ。
でも、こう話す。
「自分の子どもではあるけど、『明日佳をこういう風に育てよう』とか、そういう考えはおこがましいと思っています。やっぱり、一人の人間ですから。人格があって、いろいろ自分で考えているので。道筋はつけてやっても結局、歩いていくのは自分なんですよ。あの子、「自学」で何を得たんでしょうね。小学生の時は「先生との対話」でしょ? 中学生になってからはいろんな人に会うための「切符」。だけど、やっぱり一番は「自分との対話」かな、と思います。自分がその時、考えていることをちゃんと言葉にする作業をずっと頑張って続けてきた。不器用な明日佳が、ここまで時間をかけてやってきた」

明日佳君の一日は、朝、新聞を読むことから始まる。
30分かけて新聞を読み、その中で特に注目した記事を切り取り、ファイルに保存しておくことが彼の日課だ。
(以下、明日佳君)
「自学ノートに書くのは、自分のための感想ではなく“他の人に読んでもらうための感想”なので、丁寧に書くようにしています。『どうやったら伝わるだろう?』とか、『どうしたら見やすいか?』をいつも考えています。誰が読んでも面白いものじゃないといけないので。言葉も練りに練った方がちゃんと相手に伝わる。推敲しないといいものはできない。ボクはそう思います」

「なかなか分かってもらえないけれど、『自分はこういうことを考えているんだ』というのを伝えたかったから、自学ノートを作りました。ボクがどういう人物であるかを知ってもらいたかった。もう、ありったけの時間を使うほど『ボクは自学ノートが好きなんだ』ということを知ってもらいたかったんです。思春期に熱中していたものはこれだから、『ボクにとっての青春はこれだな』と思います」

「(自学ノートは)切っても切り離せない存在です。ボクの中では、必要不可欠なものになっています。自分が今、どんなことを思っているか。以前、どんなことを考えていたか。それを見直すことができる。自分の考えをまとめるものであり、自分の心の支えでもあると思っています」

人の10倍もかかって書き上げる自学ノート。
ITがもてはやされる現代に背を向けるように、それを意に介すことなく自分の意志を貫く彼の姿勢、考え方に大いに励まされた。
私が下手なブログを続けているのも明日佳君の考えに近い。

童心そのままの、澄んだ目をした明日佳君の未来に幸多からんことを。

※引用先:NHKスペシャル

ステージ4

前回の「今この瞬間を共に生きる」と同じ紙面に、ぼうこうがんの手術から丸5年の節目を迎えたボクシング元世界ミドル級チャンピオンの記事が載っていた。
人間は死ぬほどの(身体的にも精神的にも)痛い思いをして、初めてそこから本当の人生が始まるというが、さても180度変わったという元チャンプの、「ボコボコ相談室」で回答していたような高飛車で、けんもほろろな言動は180度変わったのだろうか。

2013年、激しい頻尿に見舞われました。
医者に行きましたが、ぼうこう炎か何かだろうと。
薬を飲んでも治らず、大みそかの忘年会の日、大量の血尿が出て、これはやばいと思いました。
翌14年の2月、ぼうこうがんと診断されました。
初期かと思いきや、検査の度に悪いことが見つかる。
医師の一人からは「何もしなければ最悪あと1年」と言われ、がくぜんとしました。
ジムを一緒にやっている畑山隆則(ボクシング元世界王者)の勧めもあり、東大病院で手術を受けることになったのですが、入院直前にリンパ節への転移も分かり、0から4まであるがんのステージ(病期)は4になりました。
ネットを見ると、リンパ節転移があるぼうこうがんの5年生存率は25%と。
もう絶対に駄目だと諦めかけたのも事実です。
その気持ちを変えてくれたのが家族でした。
特に女房の支えは大きかった。
めちゃくちゃだった食生活を根本から見直し、気持ちを強く持たせてくれました。
女房がいなかったら頑張れなかったでしょうね。
闘病で何が大切かというと前向きになることだと思います。
ボクシングの現役時代もそうでした。
僕はネガティブな人間なので、試合前は絶対勝てない、と否定的に考えるのですが、だから必死に練習して、リングに上がる時は負けるはずはないと信じて闘いました。
世界王者に挑戦したとき、自分がタイトルを奪う確率は数パーセントもなかったと思います。
テレビも生放送でなく深夜の録画中継。
誰もが竹原のKO負けを予想していました。
でも判定で勝ったのです。
世界チャンピオンになったのだから、がんに負けない。
そう思うようになりました。
治療は、抗がん剤から始め、6月にぼうこうを全摘する手術を受けることになりました。
医師は高圧的でなく親身で、話も納得できました。
全摘の場合、ぼうこうの代わりが必要です。
方法は二つ。
腹にパウチと呼ばれる袋を付け、そこに尿を出すか、自分の小腸を切り取って体内に「新ぼうこう」をつくるか。
考えた末、新ぼうこうの方を選びました。
東大病院でも2例目の最先端ロボット手術で、11時間かかりました。
当時は保険適用でなく、250万円が必要でした。
術後の痛みは半端ではありません。
もう一度やれ、と言われたら断るでしょう。
病理検査の結果、転移のあったリンパ節から、がんがなくなっていました。
病気になって初めて、心から笑いました。
入院中に10の目標を立てました。
ホノルルマラソンを5時間以内で完走」は既に実現。
「ゴルフのシングルプレーヤー」は相当難しいですね。
新ぼうこうは尿意を感じないので、夜も2~3時間おきにトイレに行く不便さはありますが、慣れて順調です。
術後の定期検査は毎回ドキドキでしたが、3年を過ぎた頃から落ち着きました。
今年6月、ゴルフのコンペから帰宅したら、女房から「おめでとう。今日で5年だよ」と言われました。
ああそうだったと。
がんを経験し、自分は180度変わりました。
これからの人生、どうせやるなら楽しく、と決めています。
がんを通じて仲間もできました。
「元気をもらった」なんて言われるとうれしいですね。

※元世界ミドル級チャンピオン竹原慎二さん47歳(令和元年12月2日地元紙掲載) 

今この瞬間を共に生きる

一昨日から二日間、陋屋の庭の雪囲いに追われ、昨日の夕方にようやく終えた。
後片付けをしながら夕陽が沈んだ先の山並みの稜線に目を向けると、初冬の大気は橙色から瑠璃色の濃淡へと鮮やかな変化を見せ、その先を目で追っていくと、澄み渡る瑠璃色の天空には星々が早くも見え始めていた。
自然の色彩の鮮やかさに思わずため息が漏れた。
同時に、何故か息苦しいほどの寂寥感に包まれ、切なさで涙があふれ出そうになった。
夕陽の名残をそのまま見続けることはできなかった。

今朝の朝刊に老人ホームで介助の仕事をしている劇団主宰の菅原直樹さんの連載記事が載っていた。
「朝の老人ホーム、僕はおじいさんの介助をしていた。介助が終わり、部屋のカーテンを開けた。雲一つない青空が広がっていた。「いい天気ですね」と声をかけると、おじいさんは突然泣き出した。僕は驚いた。しかし、おじいさんと青空を眺めているうちに、だんだんと僕も泣けてきた。80年間いろいろあった。また新しい一日が始まる。まるで、そのことを祝っているかのような青空だ」

これを聞いた看護師は、脳梗塞の後遺症の一つ「感情失禁」と言ったそうだ。
ちょっとした刺激で感情があふれ出す症状。
菅原さんは言う。
「あの感動を「感情失禁」という一言で片づけてしまっていいのか、いや、あの瞬間にこそ介護の希望があったのではないか」と。

昨日、私が寂寥感を覚えたのは感情失禁の一種ではないかと思っている。
夕陽の名残の橙色と瑠璃色の空から感受したのは、菅原さんが感じた希望とは反対側の「生のはかなさ」だった。

感受したものは違っても、だからこそ今この瞬間を共に、共に、私は生きる。 

見えない愛

昨年6月に東海道新幹線で乗客3人を殺傷した男(23歳)の初公判の記事が、今朝の朝刊に載っていた。
男は、一昨年の12月に祖母の家を出た後、公園で野宿して過ごすうちに「社会で一人で生きていくのは難しく、刑務所に入りたい」と思うようになったという。
「早く帰ってこい」
孫の身の上を心配して掛けた祖母の電話は、狂気の衝動に憑かれたこの男に通じなかった。

この男の狂気に似た妄想は私にも覚えがある。
20代の一時期、今でいう「ひきこもり」の状態になったことがあった。
夢破れ、生き甲斐なく、人付き合いも真っ平で、ガチガチの堅い殻の中に閉じ籠っていた。
何のために生きているのか。
お前に存在意義はあるのか。
雨風が凌げ、三度の飯にありつけ、規則正しい生活ができる刑務所暮らしも悪くないと、いつしか安直に思うようになった。
刑務所に入るには罪を犯さなければならない。
少しでも社会の役に立ち、間違いなく刑務所送りになる犯罪は何?
そんな馬鹿げたことを半ば本気で考えていた。
その愚考を一掃したのは家族、身内の存在だった。
己一人だけならまだしも、身内をも巻き込み、一生、日陰者にさせてしまう。

愛と言えば、ちんけな、善人気取りの安っぽい響きが鼓膜を震わし、口にするのも気恥ずかしい。
私は未だに広義的な愛の、真の意味が理解できず、性愛的で限定的な意味合いの狭義的愛に縛られているが、愛は本来、地球を照らす太陽の光のように隈なく広く、そして身近に、あらゆるところに遍満しているといわれる。
それが見えないから無いことにしてしまう。
見ようとさえしない。

この男の、幼い顔立ちに不釣り合いなガラス玉のような眼に、もう祖母の愛は見えなかった。
祖母の愛だけでは満たされなかったのか。 

白鵬のあがき

意識して行っていようが、取組前の控えから土俵に上がっての所作が礼法のように一番整っている力士は白鵬だろう。
横綱の風格が漂う。
だが、勝ちに徹した取組は時に汚い。

今日、手負いの御嶽海に、よもや張り手やかち上げはないだろうと見ていたが、意に反して張り手をかました。
白鵬のやり口には賛否あるようだが、指摘されているように年齢による身体の衰えがそうさせるのか、まともに組んで勝ちを得るには難しくなったのか。
楽に勝ちを得ようとする狡猾さと、勝つために手段選ばぬ非情さが、予想外の引退を前にした風前の一瞬の灯火、あがきのように映る。
逆に白鵬に張り手をかます気概ある力士はいないのか。

白鵬の、ネコ科の虎のように躍動する筋肉から繰り出される身体能力とその強さは、歴代の横綱の中でも群を抜いている。
強さは誰もが認めている。
白鵬よ、横綱らしく相手の当たりを胸でがっちり受け止め、四つに組んで勝負しろ。
それで負けが込めば潔く引退、それが横綱だろう。

白鵬の取組後、母の一言で溜飲が下がった。
白鵬のバカ」

 

道化師

「健全そうな顔をしていても、多くの人が精神のきしみやたわみを抱えている。誰にも何らかの欠落や過剰なものがあり、どこかが狂っているというところから始めなければいけないのではないか」
新刊出版に際して地元紙に掲載された作家・辺見庸氏の言葉が、昨今の幼児的で感情的で衝動的で一方的な殺人事件と、俺もお前も誰も彼も、そして、ある映画と符合した。

電車かバスの窓ガラスから街を眺める男。
男を包む灰色の、愁いを帯びた佇まい。
このほんの一場面で男の不遇な人生が直に伝わってきて、テレビで予告編を観ただけに過ぎない映画に惹き込まれてしまった。
米国漫画の、原作にない実写版だった。
この映画の封切りに合わせて、先月、BSで3週連続で前作が放送された。
第2作目では公開前に28歳で急死したヒース・レジャーが圧倒的な存在感を示した。
本作はこれを凌駕するか。

滑稽な服装や化粧で人を楽しませる芸人を道化師と呼ぶが、誰も彼もの心の内に巣食う狂気の道化師は「ジョーカー」と呼ばれるのだろう。
ホアキン・フェニックス演じる本作を観たいと思うが、映画館に行くほどの気はさらさらない。
数年後のテレビ放送を待つとしよう。
それまで新聞に載る「ジョーカー」たちの本質と、私の「ジョーカー」との異質、いや同質性をも観取して待つことにしたい。