朴念仁の戯言

弁膜症を経て

見えない愛

昨年6月に東海道新幹線で乗客3人を殺傷した男(23歳)の初公判の記事が、今朝の朝刊に載っていた。
男は、一昨年の12月に祖母の家を出た後、公園で野宿して過ごすうちに「社会で一人で生きていくのは難しく、刑務所に入りたい」と思うようになったという。
「早く帰ってこい」
孫の身の上を心配して掛けた祖母の電話は、狂気の衝動に憑かれたこの男に通じなかった。

この男の狂気に似た妄想は私にも覚えがある。
20代の一時期、今でいう「ひきこもり」の状態になったことがあった。
夢破れ、生き甲斐なく、人付き合いも真っ平で、ガチガチの堅い殻の中に閉じ籠っていた。
何のために生きているのか。
お前に存在意義はあるのか。
雨風が凌げ、三度の飯にありつけ、規則正しい生活ができる刑務所暮らしも悪くないと、いつしか安直に思うようになった。
刑務所に入るには罪を犯さなければならない。
少しでも社会の役に立ち、間違いなく刑務所送りになる犯罪は何?
そんな馬鹿げたことを半ば本気で考えていた。
その愚考を一掃したのは家族、身内の存在だった。
己一人だけならまだしも、身内をも巻き込み、一生、日陰者にさせてしまう。

愛と言えば、ちんけな、善人気取りの安っぽい響きが鼓膜を震わし、口にするのも気恥ずかしい。
私は未だに広義的な愛の、真の意味が理解できず、性愛的で限定的な意味合いの狭義的愛に縛られているが、愛は本来、地球を照らす太陽の光のように隈なく広く、そして身近に、あらゆるところに遍満しているといわれる。
それが見えないから無いことにしてしまう。
見ようとさえしない。

この男の、幼い顔立ちに不釣り合いなガラス玉のような眼に、もう祖母の愛は見えなかった。
祖母の愛だけでは満たされなかったのか。