朴念仁の戯言

弁膜症を経て

骨髄移植し20年 名も知らぬ恩人

21年前、白血病の完治を目指し骨髄移植を望み、骨髄バンクに患者登録した。
その後、ドナーが見つかり骨髄の提供を受け、移植し成功した。
今、私があるのはあなたがいたから。
もし、あなたがいなければ私はいないかもしれない。
見ず知らずの私のために、自らの体を痛め、骨髄を提供してくれた命の恩人。
会って感謝の思いを伝えたいが、制度上許されない。
健康体になってからその思いを詞に込め、元阿呆鳥の菊池章夫さんに曲を付けてもらった。
曲名は「見えないあなたにありがとう」。
詞の一節を紹介したい。

「一時は絶望の淵を歩き 光が遠のく不安の中で
 生きることの何故考えていた
 そんな俺だったけど 
 見知らぬあなたの骨髄を得て 今日こうして生きている
 俺にできること
 今を精一杯生きること あなたのために
 見知らぬあなたの限りなく 深いやさしさに報いるために
 愛を伝えたい
 愛の形に触れたから 生かされたから」

移植し20年・・・「あなたがいたから」私の人生は続きます。

※矢祭町の青砥安彦さん59歳(平成29年12月6日地元紙掲載)

 

何回でも転び 起きる

芥川賞作家にして慶応大の教壇に立つフランス文学者。時には金原亭馬生(きんげんていばしょう)門下の二つ目として高座にも上がる荻野アンナさん(60)は多方面で活躍中だが、20年ほど前からうつ病の治療を続けている。発症のきっかけは、親の介護だった。

画家である母を祖母が支える姿を見て、私も40歳までには子どもを持ちたいと思っていたんです。結婚は反対されましたがパートナーの男性がいて、不妊治療を受けようかと思い始めた頃、母が骨折し、父が悪性リンパ腫で手術を受けました。
父の治療が続いている最中に、パートナーが食道がんになり、最期をみとりました。ぎりぎり子どもを産める時期に介護と看病が重なり、うつ病の症状が出てきたんです。

怠け病と誤解
朝、目覚めているのに起き上がれなくなりました。「早くしないと」と思いながら、2時間かけてやっとベッドを出るような状態です。
それでも、単なる怠け病だと思っていました。「私は怠けている」と自分を責めるんです。当時はまだ「介護うつ」という言葉も知られていなくて、病院に行くという発想がありませんでした。
そのうち、歩いていると、わずかな段差で転ぶようになった。精神的な原因で身体的能力まで衰えるんですね。知り合いの医師に連絡を取ると、すぐに心療内科医を紹介してくれました。

病院へナイフを
父は90歳を超えてから大量飲酒するようになり、朝からビールやワインを飲む。ついに倒れて入院しました。救急で入った病院は10日以上置いてくれません。転院先のスタッフの助けで、長期入院ができるリハビリ専門病院に移りました。
ところが、米国人の父は英語で「元気なのに、なぜこんな所に入っているんだ」とわめくんです。そのたびに病院から「娘さん、来てください」と携帯電話に連絡が入るようになりました。
ある日、大学の授業が終わると「すぐ来てください」といつもの電話です。原稿の締め切りも重なっていたので、私の中で何かが崩れたのでしょう。気がつくと、病院の近くのコンビニでカッターナイフと缶チューハイを買っていました。病室で父を諭そうとしたら、また怒鳴りだしたので「もう嫌、こんな生活!」と叫んで床を転げ回りました。父に飛び掛かろうとしたところで取り押さえられました。心中しようという気持ちがあったのかも知れません。

がんでハイに
5年前に、自分の大腸がんが見つかりました。父は亡くなっていましたが、母の自宅介護が続いていたので「これで休める」とハイな気分になったんです。人の付き添いではなく、自分のことで病院に行ける。最大のぜいたくだと思いました。
人間の体は面白くて、手術後、抗がん剤治療が始まって体がダメージを受けるのに反比例して、うつ病がどんどん良くなっていきました。抗うつ剤も減って、翌年の秋ごろからはしばらく抗うつ剤がゼロになりました。
でも、いつの間にか前よりひどい状態になっていました。起きられないだけでなく言葉が出ない。授業の途中で絶句しちゃうんです。その後、徐々に抗うつ剤を増やして現在に至っています。
うつ病が一種のブレーキの役割を果たして、自分を助けていたんだと分かりました。もしあのままアクセルを踏み続けていたら、とっくにくたばっていたと思います。
研究室の壁に「79転び、80起き」という色紙を貼っています。何回でも転んで、何回でも起きればいい。自分をそう励ましています。

※作家の荻野アンナさん(平成29年10月2日地元紙掲載)

 

美大を目指す夢よみがえる

私は絵を描くことが好きだ。
物心ついた頃から10数年間、ずっと描き続けている。
将来は絵に関係する職に就きたかったので、そのために美大に行きたいと考えていた。
有名な美大は憧れだった。
しかし、中学生になった時、その夢を諦めてしまったのだ。
原因は、自分の描く絵に対する自信の喪失だった。
「これから何があっても、一生、絵と向き合っていく覚悟があるのか」という自問に、目の前が真っ暗になった。
端的に言うと、怖気づいたのだ。
高校3年生になった今、それをとても後悔している。
自分を恨んだ。
進路を決める時、大学で学びたいことは何だろうと考えると、必ず頭の中に「絵」という言葉が浮かぶ。
やはり夢は捨て切れてなかったらしい。
画塾に通ってこなかった私には、遅すぎるかもしれないが、それでも必死に抜け道を探し、再び公立の美大を目指すことにした。
夢は一種の〝呪い〟だと思う。
己の愚かさを噛みしめながら、私は夢に向かって進む。

郡山市の会田真子さん17歳(平成29年9月26日地元紙掲載)

 

かけがえのない経験

骨髄ドナーの実態知って

白血病などの治療の難しい血液疾患を治すための骨髄や末梢血幹細胞の移植は、提供者(ドナー)の慢性的な不足が課題となっている。
「提供の実態がまだまだ知られていないのでは」とドナーを体験した俳優の木下ほうかさんは語る。

▶きっかけは献血
木下さんが日本骨髄バンクにドナー登録したのは2004年ごろ。20代からたびたび献血をしていた。そこでバンクのポスターを見たのがきっかけだ。
「骨髄提供についてはかなり負担がある、しんどいものだというイメージを持っていた。でも登録自体はわずかな採血で済むので、やってみようと」
ドナー登録は献血ルームや保健所、各地で開かれるドナー登録会などでできる。申込書に記入し、約2㏄を採血するだけ。もちろん費用はかからない。
09年、患者と白血球の型が適合したとの通知が木下さんに届いた。提供の意思確認と家族の意向、健康状態や日程などを尋ねる書類が同封されていた。

▶仕事の調整に悩み
「半分忘れかけていたのが急に本番となって、驚いた。ひとまず病院でコーディネーターからの説明と医師の問診を受け、健康状態を確認するための採血をしました」
その後は仕事のことで悩んだという。一週間から十日間のスケジュールを空けないといけない。そこに良い仕事が入ったら-。
「生きている中で一時くらい、仕事が取れなくてもいい。たった一回、数日のことで人が一人救われるのであれば意義があるなあと考えた」
骨髄採取に不安はなかったが、所属事務所や家族は反対した。
「臓器を取り出すようなイメージを持っている人もいるので。でも結局は自分の意志で決めることだから」
実家のある大阪の病院で両親も同席し、最終同意書に署名。東京に戻り、骨髄採取後の貧血を軽くする自己輸血用に、800㏄の血液を二回に分けて採った。

▶患者からの手紙
採取前日に入院し、翌朝、採取を開始。骨盤に注射針を二ヶ所刺し、二時間半で約1㍑の骨髄液を採った。
三泊四日で退院し、その後の検査も異常なし。一年後、木下さんの骨髄を移植された患者から、バンクを介し手紙が届いた。ドナーと患者の間では個人を特定しない形で術後一年間二往復まで手紙を交換できる。
「丁寧で、重い内容で・・・。顔は見えないけど、喜んでおられる。僕のしたことは、大したことじゃないのに。読むたびに泣けてきます」
ドナー登録者数は約47万人で伸び悩んでいる。登録は55歳の誕生日で取り消され、毎年約2万人がいなくなる。木下さんも19年で「卒業」だ。
「骨髄提供は、かけがえのない経験でした。だからこそ多くの人に知ってもらいたい。若い人には取りあえず登録だけでもしてほしいな」

※平成29年9月25日地元紙掲載

 

あの世の私の母 義母をお迎えに

お盆の行事が終わってホッとしていた夜、「奇跡の霊能者・・・」という番組が流れた。
見て50年も前に本当にあった不思議な体験を思い出した。
義母ががんの手術をし、一時は普通の生活に戻れたが、再発し入院した。
死期が近づいていた時、義母が突然「お母さんが来ているよ」と言った。
「誰のお母さん?」と聞き返すと、「文子のお母さん」とはっきり言った。
驚いたが本気にせず、「よろしく言ってください」と返事をしておいた。
程なくして義母は息を引き取った。
「あの世からお迎えが来る」という話は聞いたことがあるが、私の母が義母を迎えに来るとは・・・。
実は、母とは私が18歳の時に死別している。
私が誰と結婚したかなど知る由もないのだ。
あの世ってどんな世界なんだろうか。
あちらへ行けば分かるのだろうか。
でも、まだ行きたくはない。
50年経っても、あの時、病室で交わした会話は、耳から離れることはない。

※相馬市の塚本文子さん80歳(平成29年9月16日地元紙掲載)

 

人間中心でいいのか

田んぼの中を、数え切れないほどの黒いオタマジャクシが泳ぎ回っている。
「この水田に5万匹いる計算になる」
福岡県糸島市の農家、宇根豊さん(67)が田植えから10日ほどたった6月18日、笑顔で話した。
田に足を踏み入れ、目を凝らすと、小さな虫がたくさんいる。
ヒメアメンボ、ゲンゴロウの幼虫、イネミズゾウムシ、ガムシ・・・。
宇根さんが次々に名前を挙げていく。

▷昔ながら
宇根さんによると、田んぼとその周辺にいる生物は植物が2,200種類、動物が2,700種類。
「昔の百姓に比べ、最近は農家もあまり種類を知らない。忙しくて目を向ける暇がないのだろう。利益にならないことに興味を持たない」と寂しそうに語った。
宇根さんの農法は、農薬や化学肥料、農業機械にほぼ頼らない昔ながらだ。
田植えは手作業。あぜの草取りに除草剤は使わない。一日に何度も田畑を見回り、水やりをする。生育状況は作物に話しかけて確認する。
「稲や生物の『声』を聞くようにしている」
そうして農作業に没頭していると、時が経つのを忘れる。農業をしていて良かったと心から思う瞬間という。
その幸福感を「天地自然に抱かれ、その恵みを受け取る。百姓はこういう精神世界の中にいる」と表現する。
ただ、何百年も受け継がれてきた、この農業の世界が今、崩れつつあると感じている。
「田や畑にいると、生き物の悲鳴が聞こえてくる。いつも会えた虫や草が年々いなくなっていく。一方で高齢になった農家が田畑を手放すようになり、荒れ地が増えた。集落を維持できなくなった地域もある。このままでは、田園風景はそのうち消えてしまう」
自然破壊と農業離れ。原因はいずれも現代社会にあると考えている。

▷資本主義
7月29日、猛暑に見舞われた熊本県八代市の民家の前には、100人近い農業関係者が全国から集まった。この場所で約50年前に亡くなった高名な農業指導者、松田喜一の教えを、現代の視点で捉え直そうとする集会だ。宇根さんも主催者の一人として参加した。
松田は戦前から戦後にかけ、農業を志す多くの若者を育てた。
「稲の声が聞こえるようになれ」という独特の教え。
70年前に研修生として一年間、松田の農場に住み込んだという福岡県の男性(89)は「教えを実践し、悔いのない人生を送れている。松田先生のおかげ」と感慨深げに語った。
松田は、資本主義経済が農家に及ぼす影響を危惧していた。
「右も左も給料取りばかりで、骨を折らず派手な生活をする者も多い。機械化の道が開け、所得を増やしても、世の中の誘惑に勝てず、百姓嫌いになる」
戦前の多くの農業指導者も著作などで同じような心配をしている。明治以降、農業にも資本主義的な発想が入ってきた。コストを下げて生産性を上げ、所得を増やす。技術革新を進め、労働時間を減らす。経済的合理性の追求という、現代では常識と言えるこうした考え方を、農業に当てはめてはいけないのではないか。
「そもそも近代化や資本主義と農業は合わない」と訴えていた。
宇根さんも「収穫量に限界がある。それを超えて収穫を増やそうと農薬や肥料を加えて実現しても、自然環境に大きな負担がかかる。やがて土地はやせ衰え、生物は死ぬ」と共感する。

▷生き物調査
現代社会の影響を受け、農家の精神は変わったようだ。農林水産省の統計によると、1960年に約1,400万人いた農業就業人口は200万人を下回った。より収入が安定するサラリーマンを好む傾向が進んだとみられている。
「昔の百姓は農作物ができた、とれたと言った。最近は『作った』という人がいるが、この表現からは、人間が自然の制約を克服したと言うような、自然を見下した傲慢さが読み取れる」
「人間中心主義」とも言えるこうした感覚は、国の根幹である憲法にも見て取れると指摘する。
憲法は人権の大切さを書いている一方、自然の大切さへの言及はない。明治憲法もこの点が欠けているが、当時は国民の多くが農家だったから、当たり前すぎて書かなかったのではないか」
もっと自然に目を向けてほしいとの思いから、同じ考えの人々と「生き物調査」を提唱。2001年にNPO法人をつくり(10年解散)、子どもたちや農家を集め、各地の田んぼにどんな生物がいるのかを観察してきた。国も支援に乗り出し、活動は全国に広がった。
6月18日の生き物調査。宇根さんの水田では、緑色の1㌢程度の生物が泳ぎ回っていた。
「それはホウネンエビ。これが出る年は豊作と言われる」
収穫は10月初めだ。

共同通信の斉藤友彦さん(平成29年9月16日地元紙掲載「憲法ルネサンス」より)

 

風情ある和語の数詞

「ひとつ、ふたつ、みっつ・・・やっつ、ここのつ、とお。何で次は『じゅういちつ』って言わないの?」
私の勤務先の学習塾に通う小学3年生のよし君が面白い質問をしてきました。
皆さんは答えられるでしょうか?
これは、「ヒ(ト)、フ(タ)、ミ、ヨ、イツ、ム、ナナ、ヤ、ココノ」に「ツ」を付けた、ものの集まりを表す和語の数詞で、その歴史は奈良時代古事記までさかのぼることができます。
他にも、中国伝来の「イチ、ニ、サン・・・ハチ、ク、ジュウ」の呉(ご)音、「イツ、ジ、サン・・・ハツ、キュウ、シュウ」の漢音があります。
お手玉遊びなどで「ヒフミ・・・」になじみのあるシニア女性の中には、よし君と同じ疑問をお持ちの方もおられるかもしれません。
今は「トオ」の次は呉音の「ジュウイチ」になってしまいますが、実は昔は和語にも続きがあったのです。
「11」以降は、数の位の間に「アマリ」を入れて「トオ・アマリ・ヒトツ」「トオ・アマリ・フタツ」と言いました。「20」は二十歳の「ハタ」で、「23」なら「ハタ・アマリ・ミッツ」。「30」からは三十路(みそじ)、四十路(よそじ)のように、「十」を「ソ」で表します。
百は「モモ」、千は「チ」、万は「ヨロズ」です。人名の「百瀬(ももせ)」や「千歳(ちとせ)あめ」「八百万(やおよろず)」などに今も名残があります。風情ある和語の数詞ですが、呉音の方が二桁以上の数を容易に表せることから、「トオ」までしか使われなくなってしまいました。

※遠山真学塾・主任相談員の小笠直人さん(平成29年4月3日地元紙掲載「数楽へのいざない」より)