朴念仁の戯言

弁膜症を経て

命をもらうこと 感謝して食べる

私は授業で畜産を勉強しています。
昨年、鶏の解体をしました。
鶏はひなから飼い始め、授業選択のみんなで大きくなるまで育てたものです。
大事に育ててきた鶏を解体するときは、とても複雑な気持ちになりました。
解体は、まず鶏の足を縛り、逆さに吊るすところから始めます。
顔を押さえながら、首の血管を切って血抜きを行うのですが、私は首を切る時点でかわいそうになり、自分で手を下すことができませんでした。
解体してからは、誰もが店頭で見掛ける肉の姿になります。
私は動物が好きで畜産の授業を選択しました。
しかし、鶏の解体は思いもよらない体験でした。
この授業によって、肉が店で売られているという当たり前の光景の裏には、毎日、専門家によって家畜が解体されているという事実があることが分かりました。
私たちは常に動物の命をいただいて生きている。
そのことに感謝すべきだと強く思います。

※安達東高2年の大内亜依さん(平成29年3月27日地元紙掲載)

 

宙を飛んだ! 不思議な事故

夢に現れた恩人に助けられたという投稿が1月に掲載された。
読んで、20年ほど前の真冬の朝、勤務先の駐車場で起きた、不思議な出来事を思い出した。
止めていた私の車に、同僚の車が路面凍結によるスリップで衝突したと聞き、駆け付けると、同僚にけがはなかったが、その車はかなり破損していた。
しかし、私の車は無傷だった。
自分の車の脇にいると、今度は別の同僚の車がスリップし、衝突してきた。
一瞬の出来事で避けることもできなかったが、気付くと私は、車の前方の地面に正座していた。
なぜかけがや苦痛もない。
私の車には傷一つ見当たらず、同僚も無事だったが、車の破損はひどいものだった。
同僚によるとぶつかる直前、私が宙を飛んだ!と言うのだが、私にはそのことも衝突時の記憶もなかった。
2台の車は、一体どこに衝突して、あんなに破損したのだろう。
いくら考えても訳が分からず、仕事が終わって、家に着くとすぐ、神棚と仏壇に合掌した。

喜多方市の加藤栄子さん63歳(平成29年3月8日地元紙掲載)

 

「大人とは話さない」

小学生が障害者家庭背負う

呼び鈴を鳴らして家に入ると、刃物を持った少年が大声を上げて襲いかかってきた。
「大人とは話さない。全員死ね!」
今から数年前、学習支援で中通りの家を訪問した支援団体の女性担当者は、当時、小学生だった和也=仮名=との出会いを鮮明に覚えている。
和也の家は生活保護世帯だった。両親は離婚し、母と2歳年上の兄と3人暮らし。母と兄には知的障害があった。
障害者手帳があれば福祉サービスを受けられる。行政から取得を促されたが、理解力に乏しい母はそれに応じず、地域から孤立していった。担当者は、母と行政の間で信頼関係が構築されていなかったと感じている。母は仕事が長続きせず、収入も少ない。生活は不安定だった。
「おまえがしっかりしないと家庭は崩壊してしまうんだよ」
周囲の大人は和也に言い続けた。和也はその期待に応えようと家事を頑張ったがうまくいかなかった。テーブルにはカップ麺やコンビニ弁当の空容器が散乱、家中にごみがあふれた。和也は精神的に追い込まれ、大人への不信感が募っていった。担当者が出会ったころは、そんな状態だった。
この団体は貧困家庭に家庭訪問して子どもたちに学習支援を行っている。担当者が和也と出会って数年がたつ。今では笑って話せるが、担当者は「学習支援どころではなかった」と振り返る。
ある大雪の日、母は子どもを買い物に連れ出した。こたつを付けたまま出掛け、そこに寝ていた子どもが脱水症状になったこともあった。
児童虐待だ」。周囲から児童相談所に通報された。母と子どもを引き離す「母子分離」での介入が始まろうとすると、母も兄も和也も泣きじゃくった。
「子どもが連れていかれる」「お母さんと離れたくない」
息子たちを愛する母は懸命に子育てを頑張り、息子たちもその母を大好きだった。担当者は、母子分離より家庭環境を整えることが大事だと感じた。
その後、母と兄の障害者手帳の取得に向けて行政と話し合いが持たれ、時間はかかったが取得できた。
和也とはゲームで遊び、そばに寄り添い、話し相手になった。学習支援の枠を超えていたが、現場ではそれが必要だった。
「自分がしっかりしなくちゃいけないんだ。でもこんな汚い家、友達も呼べないじゃん」
涙で訴える和也に担当者は答えた。
「よく頑張ってきたね、和也。家をきれいにしてくれる人もいるんだよ。一緒に掃除しよっか。もう、一人で頑張る必要ないよ」
家庭は変わりつつあった。でも、一生そばにいられるわけではない。家族の孤立を防ぐ地域の仕組みが必要だった。
しかし、そこには新たな壁が待っていた。

※平成29年1月12日地元紙掲載「子どもに未来を」より

 

理屈優先の社会に限界

幼少期から昆虫採集に親しみ、医学部に進んだものの「(医療過誤で)人を殺さずに済む」との理由で解剖学者の道を選んだ養老孟司さん。
「命とは何か」「幸福とは何か」を常に問い続けた人だ。
かねて、日本よりも経済的に豊かではないブータン人が大切にする幸福観に注目し、この小国を何度も訪れては「本当の幸せ」の意味を考えてきた。
ブータンを通して、日本人の幸福観はどう見えるのか。そして、現代の日本人が失いつつあるものとは。養老さんと、ブータンへの思索の旅に出掛けた。

養老さんは約20年前にブータンを初めて訪れた時の驚きを忘れることができない。
「タイムマシーンで戻った気がした。高度経済成長前の日本に」
屈託のなさ、他者への信頼。足るを知り、ほどほどに分相応に生きようとする謙虚さ。他人が困っていると、寄っていって世話を焼いてしまう親切心。多くの日本人が近代化と引き換えになくしていった「大切なもの」が、まだこの国には根付いていると感じた。

「私は都市化を、脳が望んだという意味で『脳化社会』と言うけれど、感性よりも頭で考えた理屈を優先させる社会の限界を、それまで以上に深く考えるようになった」

近年、その傾向は強まり、養老さんの目には「脳化社会」がますます肥大化して見える。相模原の障害者施設殺傷事件や相次ぐいじめ、ブラック企業の問題も「根っこは同じ」とみる。
「生きていても役に立たない」
そうした愚かな結論が出るのは「頭の中の理屈だけで考えようとするせいだ」と養老さん。
「本当は幸福や人生なんて人それぞれで、結論なんてないのに。ブータンで自然に、自由に育った人の面構えを見てるとね、そう思うんです」

輪廻転生の思想 生き物に優しく
野良犬
ブータンの首都ティンプーの街にあらゆる場所で、野良犬が腹を出して寝ている。首をつながれた愛玩犬を見慣れた日本人には、街中で猫のように野良犬たちが寝ている様子は珍しい光景に映るだろう。
「この犬たちの行動がね、ある意味、ブータンという国の在り方を象徴してるんですよ」と養老さん。
信心深いブータン人は、人は死んでも何かに生まれ変わり、再び現世に戻るとの世界観を持つ。輪廻転生の思想だ。
殺生せず、動物をいじめたりしない。むしろ「祖先の生まれ変わりかもしれない」と、せがまれなくても餌を与える。そのまなざしは、犬だけでなく生きとし生けるもの全て、山や森などの自然環境にも向けられる。
この国では、犬にとっても人はおそらく対等な存在なのだろう。パロからティンプーの道すがら、養老さんが虫の観察のため地面を掘ると、野良犬が近づき前足を使って手伝いだした。養老さんは声を出して笑った。
「これって、生き物同士の共感としか説明のしようがない。なぜブータンで自然が残るのか、こんなところに理由があるんですよ、きっと」

自由で印象的な「はにかみ笑顔」
表 情
ヒマラヤ山脈東部の王国ブータンに養老さんと降り立った。空港に近いパロの街は標高2,300㍍。酸素が薄く、速足で歩くだけで息が上がる。
街をわずかに離れると、すぐに照葉樹林が見えた。宗教上の理由で殺生は禁じられ、めったに除草剤もまかないという。虫の音がにぎやかだ。
移動中、制服姿の子どもたちに出会う。1995年にブータンを初訪問した際に、強烈に印象に残ったのが、彼らの〝顔〟だったという。
この日も子どもたちの笑顔を見て「管理されてない、自由に育った顔だよね」と養老さん。
「比べると、日本の子はどうしても官僚的な顔に見えちゃうな。昔は彼らと一緒だったんだけどね」
パロ郊外の険しい絶壁にへばりつくように立つタクツァン僧院。ここで見かけたえんじ色の法衣をまとった若い僧二人も、やはり笑顔が印象的だった。見ている方も釣られて笑ってしまう見事な顔に、この後も行く先々で遭遇した。
古都プナカの寺院で会った僧侶に、養老さんが「いい顔してますね」と思わず言うと、55歳の高僧はさらに大きな笑顔をつくった。恥じらうような彼らの表情に、私たちは「ブータン人のはにかみ笑顔」と名付けた。

発展より心の安らぎ
ブータンが国家理念とする「国民総幸福量(GNH)」を先代の国王が提唱したのは1970年代。物質的な発展よりも心の安らぎが重視され、いわば国民総生産(GNP)とは逆の考え方だ。
ブータンに詳しい研究者の今枝由郎さんは、GNH提唱の背景を「国のサイズが極端に小さく、大国になる可能性がなかったので、世界とは違う方向に行かざるを得なかった」と話す。
人口は約77万5千人。小規模ゆえに人の顔が見えやすい利点もあり、個人の幸福や心の在り方に配慮した政策を取る余裕が生じたという。
精神性に重きを置くブータンの人気が日本で高まっている理由を、今枝さんは「絶えず巨大化を目指すグローバルスタンダードへの追随を余儀なくされ、それに疲れた日本人が増えたからではないか」と指摘している。

※平成29年1月10日地元紙掲載

 

命より大切な仕事ない

古都の紅葉も終盤の昨年12月3日。
京都市北区の私立洛星高校で、寺西笑子さん(67)が1年生約220人に特別な授業をした。
寺西さんは「全国過労死を考える家族の会」の代表を務めている。
「夫が49歳で亡くなったとき、私は47歳、長男20歳、次男14歳。皆さんの中には、似たような年齢構成の家の人がいるかもしれません。お父さんをイメージして聞いてください」と切り出し、自らの経験を語り始めた。

▷会社謝罪まで10年
1996年2月14日の朝、出勤する彰さんにバレンタインデーのチョコを渡した。いつもなら笑顔を返すのに、元気のない後ろ姿を見送った。翌日の未明、飛び降り自殺を知らされた。
彰さんは当時、和食店の店長。店員が長続きしない上、サポートもなく、いつも人手不足で疲れ果てていた。宴会のセールスまで命じられ、業績が上がらないと、経営会社の社長になじられた。
亡くなる直前「眠れない、食べられない」と体調不良を訴えたが、仕事量は変わらなかった。
「遺書がなく、なぜ死んだのかと夫を責め、なぜ救えなかったのかと自分も責めた」
会社側は同僚らに口止めし、平然としていたという。
約1年後、会社を許せない、泣き寝入りでは彰さんが浮かばれないという気持ちが強くなった。息子たちに説明する責任もあると考え「過労死110番」へ相談した。会社を退職した人らの協力で、彰さんが年間4,000時間も働き、うつ病を発症して自殺に追い込まれた経過が明らかになる。
2001年に労災と認定され、さらに裁判で和解し、会社に謝罪させたときには彰さんの死から10年余りがたっていた。
「夫の無念を思うと、やり切れない。命より大切な仕事はない。長時間労働パワハラなどが蔓延しているので、正しい知識を身につけてほしい」と授業を結んだ。

▷ロビー活動に奔走
京都伏見区にある寺西さんの自宅2階。仏壇に置かれた彰さんの遺影には、好きだったコーヒーを毎朝供えている。
同じ電子部品の工場で働いていたときに知り合い、結婚した。
和食店の会社へ転職したのは、彰さんが料理人を志したからだ。当初から帰宅が遅く、心配すると「忙しさが腕を育ててくれる」と言っていた。
会社と和解後、家族の会の活動として大阪労働局に過労死などで社員が労災認定された企業名公開を求めたが、開示しない。提訴すると一審は公開を命じたものの、二審で敗訴。「企業の顔色を見ているところがある」と考えている。
家族の会の活動は「どうすれば夫が死なずに済んだのかを考えていくために始めた。労災認定や裁判で悔し涙を流す人も多く、その人たちの思いも伝え、報いたいので続けてきた」と明かす。
過労死防止法(過労死等防止対策推進法)は、そんな寺西さんの気持ちにかなうものだった。13年10月から半年間にわたり、過労死で長男を亡くした女性らと一緒に、週末以外は東京に滞在し、国会議員を回って法の必要性を訴えた。
「寺西さんは14年の防止法制定になくてはならない人だった。遺族による議員会館回り、ロビー活動が大きかった」と評するのは、弁護士の古川拓さん(40)。過労死弁護団全国連絡会議のメンバーで、働くことは「幸福の追求」でもあるとして、過労死対策に力を注ぐ。幸福の追求は憲法13条で国政上最大の尊重が必要とされている。

▷未来なくすこと
しかし、防止法に基づく初の過労死等防止対策白書が閣議決定された昨年10月7日、電通の新入社員、高橋まつりさん=当時(24)=の過労自殺が明らかに。
「仕事も人生もとてもつらい。今までありがとう」と母親にメールしていたという。
高橋さんの母親は昨年11月9日、厚生労働省主催のシンポジウムで「社員の命を犠牲にして業績を上げる企業が優良企業なのか。娘を突然失った悲しみと絶望は失った者にしか分からない。だから同じことが繰り返される」と涙ぐんだ。
同月29日、日本記者クラブ。母親の代理人を務めた弁護士の川人博さん(67)が会見し「かつての経済成長の過程には長時間労働のシステムがあったかもしれないが、経済成長のない21世紀の長時間労働は有害でしかない」と指摘した。
その有害さを寺西さんは14年5月23日の衆院厚生労働委員会で、次のように表現した。
「若者が過酷な労働環境に追いやられ、優秀な人材を失うことは日本の未来をなくすこと」
15年に労災認定された過労死96件、過労自殺93件。未来は大丈夫だろうか。

※平成29年1月7日地元紙掲載「憲法ルネサンス」より

 

生死さまよう中 夢で救った恩人

以前、体調を崩し、大変苦しい思いをしたことがありました。
部屋のベッドで休んでいた時のことだと記憶しています。
まさに生死の境をさまよう状態でした。
その時、枕元に幻影が立ったのです。
私の頭の後ろを両手で抱きかかえるようにして、私の名を何度も何度も呼び、起こそうとしていたのでした。
ふと目を覚ますと誰もおらず、暗闇の中に、私一人でした。
夢か現実か、私は混沌とし、涙があふれるばかりでした。

実は私を目覚めさせてくれたのは、8年前に不慮の事故で天国へ旅立った人だったのです。
生前、個人は地域の人望を集めた、誠実で謙虚な方でした。
私は幼少の頃からお世話になってばかりいました。
「天国の恩人が私を救ってくれた」と思いました。

「晩酌はコップ酒が楽しみ」と語っていた故人の笑顔が忘れられません。
「あざみの歌」をこよなく愛した故人をしのび、命日に懇(ねんご)ろに合掌し、感謝の気持ちを届けました。

二本松市の折笠友一さん64歳(平成29年1月7日地元紙掲載)

 

少年時代の思いが原点

自由な発想と色使い、思わずクスッと笑ってしまう物語が魅力の絵本作家・五味太郎さん。なりたかったわけではない70歳を過ぎ、「気がついたら絵本しかやってないな」と顧みる。この「自分に合う表現の仕方」に出会ってから40年を超えた。

最近、作家としての歩みをまとめた「五味太郎絵本図録」(青幻舎)を刊行した。何刷出版したか、改めて数えてみたら約400冊も。海外では約30カ国で計約100作品が出ていた。自らの足跡をたどり直したばかりだ。

1968年に東京・桑沢デザイン研究所を卒業。広告や工業デザインを手掛けたが、企業間のビジネスの要素が強い仕事は、自分の「質」と違うと感じた。73年、出版社に持ち込んだ絵本「みち」でデビューした時「自分の質に合った形が世の中にあった」と思えた。

五味さんにとって、例えば「とある街角に立つ男」と言葉で説明するのはどうもためらいがある。でも絵では、そんな男を雰囲気も含めさっと描ける。その上、絵本は「たたずまい」がいい。何より絵の具や筆に囲まれての作業が好きだ。自分にしっくりと合ったから「結果として続いている」。つまり、天職だ。

時々、奇妙な記号のようなものが並ぶ謎の手紙が届く。
「この間、5歳くらいの男の子の手紙をよく見たら『ぼく、でしりしたいです』って書いてあった。どうやら弟子入りのことらしい」

極めて個人的な感覚を描いた本なのに、読者が面白がったり、伸び伸びしたりする。
「絵本って雰囲気が伝わるんだろうね」
それが作家には妙味でもある。

愉快な手紙の合間に、深刻そうなメッセージも届く。
ある女子学生からは「毎日、皆と同じ黒い服を着て就職活動をするのは変だ、と思う私はおかしいでしょうか」とあった。
「いや、おかしくない」と五味さん。
「生きていたら、違和感って必ずある。皆、我慢したり気付かないふりをしたりしているのかな」

小学校の時、〝問題行動〟を起こして三者面談の憂き目に遭った五味さんを、両親は否定せずに認めてくれたという。
「自分の違和感は異常だと思ってしまうと、世界から拒絶された気がする。おれは割と早くに、異常ではないと確信できたんだけど」
それが、型にはまらない表現の原点になったのかもしれない。

少年時代、ふと考えた。
「おれはおれでしかない。切なさもあるけれど、それ以外に頼るべきものはない」
すべては個性を持った個人に始まるから。
71歳の今も、そう思っている。

※絵本作家の五味太郎さん(平成29年1月9日地元紙掲載「老境佳境」より)