朴念仁の戯言

弁膜症を経て

ソチ五輪に行かないで

釈放の女性バンド訴え

【ニューヨーク共同】ロシアのプーチン大統領を批判するパフォーマンスをして実刑判決を受け服役、昨年末、釈放された女性バンド「プッシー・ライオット(子猫の暴動)」の2人が5日、ニューヨークで記者会見し、ソチ冬季五輪観戦旅行に行かないなどの「ボイコット」でロシアの人権侵害に抗議してほしいと訴えた。
会見したのはマリヤ・アリョーヒナさん(25)とナジェンダ・トロコンニコワさん(24)。プーチン氏へのメッセージを問われ、「辞めて」と答えた。
「ミュージシャンには社会的責任がある。音楽は太陽の光と愛だけじゃなく、政治や囚われた人のことを歌わなければならない」と話し、「米国の人たちは目をしっかり見開き、プーチンの言うことを信じ込まないでほしい」と求めた。ロシアを去る意思はなく、「私たちの国を自由な国にしたい」と述べた。

平成26年2月7日地元紙掲載

潤い

マザー・テレサの修道会の仕事の一つに、貧しい人たちへの炊き出しがあります。
日本なら、さしづめ、おにぎりと味噌汁、外国ならパンとスープを、列を作って並んでいる空腹を抱えた人たちに渡してあげる仕事です。

夕方、仕事を終えて修道院に戻って来るシスターたちをねぎらいながら、マザーはお尋ねになります。
「スープボウルを渡す時に、ほほえみかけ、言葉がけするのを忘れなかったでしょうね。手に触れて、ぬくもりを伝えましたか」
この問いかけは、仕事は、ただすればよいのではない。その仕事には愛が伴っていなければいけないことへの忠告でした。

マザーの次の言葉も、それを裏書きしています。
「私たちの仕事は、福祉事業ではありません。私たちにとって大切なのは、群衆ではなく、一人ひとりの魂なのです」

朝から何も食べていない一人ひとりは、同時に、朝から誰からも「人間扱い」されなかった人たちだったのです。
仕事はロボットでもします。
シスターたちよりも、むしろ効率的に手早く仕事をするかもしれません。
しかし、ロボットにできないこと、それは、ボウルを受け取る一人ひとりの魂と向き合い、その魂に潤いを与え、生きていていいのだという確信を与える事でした。

シスターたちのほほえみ、言葉がけ、ぬくもりは、相手がその日受けた、唯一の人間らしい扱いとなったことでしょう。

忙しさは、その字のごとく人々の心を亡ぼし、慌ただしさは心を荒らす可能性を持っています。
ギスギスした社会、イライラした人の心は、渇き切っていて、潤いを求めています。
私たちも、日々の小さなことに愛を込めることによって、お互いの間に潤いをもたらしたいものです。

※シスター渡辺和子さん(平成28年2月27日心のともしび「心の糧」より)

 

母子手帳で知った愛

心に響くメッセージとともに、ユーモラスな鬼の絵を描く画家、しの武さんがエッセー「もう、なげかない」(小学館)を出版した。波瀾万丈の半生から生まれた、温かい人生哲学が胸を打つ自叙伝だ。
「私は母の顔を知らないんです」と話すしの武さん。実母は、生まれたばかりのしの武さんを父の実家に預け、姿を消した。その後、父も同居できなくなり、7歳から4年間、児童養護施設で育った。
「でも施設の先生や祖父などたくさんの人が、親代わりになってくれたので、決して不幸ではありませんでした」
父との生活が再開したが、継母との関係がうまくいかず、中学2年の時に家を飛び出す。子どもができて結婚し、16歳で長男を出産―。家庭に憧れ「いい母になりたい」と選んだ道だったが、現実は甘くなかった。
泣きわめく息子を前にイライラを募らせる日々。ほとんど育児ノイローゼだったこのころのことを、しの武さんは「頑張ってもどうにもならず、『こんなはずじゃなかったのに』とばかり考えていた」と振り返る。
エッセーには離婚のことや、鬼を描くようになった経緯など、その後の人生も赤裸々に書いた。
印象深いのは、しの武さんが3年前、児童養護施設を訪ねた際のエピソードだ。「最近、出てきたのよ」と先生から手渡された自分の母子手帳。「おっぱい良好でした」と記された文字に、手が震えた。
「ああ、私はちゃんと母に抱きしめられ、母乳も飲ませてもらっていたんだ、と。ずっと愛されていなかったと思ってきたけど、そうではなかったと気付き、自分の人生を受け入れられた」
周囲からは、描く鬼が、この時を境に優しい表情になったと言われる。
「誰でも心の中に一匹ぐらい鬼がいるもの。自分の鬼を受け入れて生きていこう、というメッセージを伝えたい」

平成26年1月30日地元紙掲載

 

死者を偲ぶ

17歳の暮れでした。
カトリックの洗礼を受けてもいいかと尋ねた私に、母は大反対し、その理由の一つとして、戦争中にバタくさい宗教に入ることはないと言いました。
二つ目の反対理由は、宗旨が違ったら、浄土真宗で亡くなった父をはじめ、ご先祖様への供養が途絶えるからということでした。

強情な私は、このような母の反対を押し切って洗礼を受けたのですが、カトリックには思っていた以上に、死者を偲ぶ機会が多くありました。
時差の関係もあって、毎日、毎時間、世界のどこかでミサがあげられており、ミサの重要な部分には、メメント・モリ(死を覚えよ)という典礼文があるのです。
さらに11月は「死者の月」と定められ、月の初めにすべての死者を偲ぶ日さえ設けられています。

修道院で朝夕唱える「教会の祈り」の中には、必ずと言ってよいほど、死んだ友人、恩人、会員、親族のための共同祈願もあって、「ああ、私もやがて、こうして偲んでもらえる」という安心感に包まれます。

親不孝をした挙句、修道院に入った私は、シスターたちと一緒にミサに与(あずか)り、祈りながら、「お母さま、ご心配なく。ちゃんとお祈りしていますからね」と今は亡き母に語りかけるのです。
母も、苦笑しながら喜んでいてくれることでしょう。

近頃あまり言われませんが、私は、煉獄の霊魂のために祈る習慣を、中学・高校時代のシスターから習いました。
天国に入る前の浄めの時期にある死者たちは、自分ではもはや何もできません。
この死者たちが、一日も早く浄められて神の御許(みもと)に行けますようにと、私は祈ります。
そして、小さな犠牲を捧げること、これが今の私にとって、死者を偲ぶ大切な部分になっています。

※シスター渡辺和子さん(平成27年11月3日心のともしび「心の糧」より)

 

浮世のはかなさ 浮かぶ雲に思う

ふわっと浮かぶ雲にあれこれ連想しながら、浮世のはかなさに浸っている。
畑の雑草とは休戦中の安らぎの中で、つかみどころのない不安に駆られるのは数え86歳の故でしょうか。
亡き母を偲べば、89歳の坂は越せなかったが、「86になってみな」と言っていた。
その年になって知る悲哀だと悟った。
100歳も夢じゃない時代に、突然親友が倒れたとの知らせに、明日は我が身を痛感する。

友人と茶飲み話。
生前のじいさまたちの「良い人だった」のうわさに意気投合しながら大笑いした。
話に満足しながらも、内心悪妻だったかと手向ける線香に「守ってね、助けてね」を連発した。

祖母たちの「今日は今日ぎり」の老境の意味を改めてかみしめている。

いわき市の磯上トシさん85歳(平成26年1月24日地元紙掲載)

 

人生を変えた言葉

まだ20代初めの頃のことでした。
戦争に負けた日本で、働き手のいない旧軍人の家庭は、経済的に苦しく、アルバイトをしながら大学を卒業した後、私は7年間キャリアウーマンとして、アメリカ人相手の職場で働いて家計を助けていました。

4人兄弟の末っ子だった私は、出来の良かった兄や姉と比較されることが多く、劣等感のかたまりになっていました。

そんな私にある日のこと、職場の上司でもあったアメリカ人の神父が、「あなたは宝石のような人だ」と言われたのです。
私は耳を疑いました。
戦争中、英語の授業もなく、たどたどしい英語と、間違いも多い仕事しかできていなかった私が宝石だなんて。

でも嬉しかったです。
自分は「石ころ」でしかないと思い込み、そのような振る舞いをしていた私は変わりました。
私は自信を持ち始め、宝石になれる、いやならなくてはいけない、と心に決めたのです。

神父は多分、私が職場で〝役に立つ〟宝石としてではなく、すでに神に愛されている人、従って劣等感を持つ必要がないことを言ってくれたのだと思います。
旧約聖書イザヤ書の中の神の言葉「わたしの目にあなたは貴い」(43・4)から、「だから、あなたは宝石のような人だ」と言ってくださったのでしょう。
他人と比べての自分の価値でない、かけがえのない自分に自信を持つことを教えられました。

その職場で7年、その上司の下で働き、その後、岡山の大学で教えることになりました。
私の願いは、学生の一人ひとりを「宝石」と見ること、そして、その私のまなざしが、学生の一人ひとりに、自分には偏差値で計れない価値があるのだということに気づかせるきっかけとなることなのです。

※シスター渡辺和子さん(平成27年10月30日心のともしび「心の糧」より)

壊れたボイラー

昨年、家のボイラーに火がつかなくなりました。
燃料がないのかと思ってタンクを見ると、確かに入っています。
義父の33回忌法要を二日後に控えていたので、泊まる人たちが風呂に入れないでは困ると、がっかりしました。
いつも世話になっている鉄工所に頼んでみました。
すると、すぐに社長が来てくれて、休む間もなく現場を見てくれました。
「これは困った。ボイラーが駄目だ」と言います。
休日だったので「どこも休みだし」と言いつつも電話をかけてくれました。
会津若松にあることを確かめ、自宅にいた奥さんに連絡し、取りに行かせました。
自分は一生懸命、ボイラーの取り外し作業を続けています。
「一服して」と言っても休まず、そのうちに奥さんが持ってきた装置を取り付け、掃除までしてくれました。
昼食も取らずに作業をしてきれいになり、午後早くに「終わりましたよ」と声を掛けられ、びっくりしました。
いくら仕事とはいえ、人のためを思う気持ちと親切心がなければできないことです。
弟に話したところ、「あの社長はそういう人なんだ」と言っていました。
感謝でいっぱいでした。

南会津町の菅家サチさん89歳(平成26年1月21日地元紙掲載)