朴念仁の戯言

弁膜症を経て

人間弾圧の象徴、復元を

歩み来て、未来へ ハンセン病重監房

足元にある食事の差し入れ口から骨と皮だけの手が突き出ていた。それが右に左に泳ぐ。
しゃがんで声をかけた。「飯だよ。早く引っ込めて」。「あぁ?」。独房から男の声がして、一瞬、手の動きが止まった。だが、また宙をさまよう。「早くしなよ。飯なんだから」。「わあぁ」。今度は奇声になった。
「放っておけッ」。後ろにいた看守が怒鳴る。「飯なんかやらなくていい。次の房へ行け」
群馬県草津市国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」にあった患者の監禁施設、通称「重監房」。入園者の鈴木幸次(85)は太平洋戦争末期の数カ月間、そこに食事を運んだ。「翌日、給食係に行くと一人分減っていた。死んだんだよ」。60年以上過ぎても忘れない。「人間に対する扱いじゃねぇよ」
 医療はせず
標高1,200㍍の草津高原。温泉街から3㌔ほどの森の中、約360平方㍍の広さに重監房の礎石が残る。正式名称は「特別病室」。だが医療が行われた形跡はない。
当時足を踏み入れた鈴木らの証言では、コンクリートで造られ、高さ約4㍍、中には独居房が八つあった。入り口から鉄の扉を四、五枚開けてようやく房にたどり着く。通路には屋根がない。冬の寒さは厳しく、氷点下20度近くまで下がり、積雪も深かった。四畳半ほどの広さの房には暖房も照明もなく、縦10㌢、横約80㌢の素通しの窓が唯一の明かりだった。
食事は午前8時半と午後2時半の2回。地面から30㌢の高さの差し入れ口を通して渡した。じゃがいもや大根を混ぜて炊いた麦飯一膳(いちぜん)ぐらいに梅干しやたくあん。器に盛るのではなく、木の箱にそのまま載せた。
重監房が使われたのは1938-47年の9年間。記録によれば、この間に92人が収監され、14人が〝獄死〟、8人が出所後に死亡したとされる。だがその記録が正確かどうか。
「そんな数じゃすまない」。鈴木は言下に否定した。
収監者を外に出して風呂に入れるのを見たことがある。「おばけだった。やせすぎて浮いてくるから、係の人が湯に押し込んでいた」
 責任問わず
ハンセン病患者を隔離する法律が制定されたのは1907年、医学的根拠はなかった。患者の不満が高まり、逃走や反発が増えると、政府は弾圧を強め、監禁などの懲戒権限を各所長に与えた。
新潟大医学部准教授の宮坂道夫(44)(医療倫理学)は「欧米諸国に並ぼうと近代国家を目指した日本にとって、ハンセン病は後進性の象徴だった」とみる。患者は〝国辱〟として隠ぺい、排除された。「隔離ばかりか、強制労働、懲罰制度にも誰も疑問を抱かないほど人権意識がなかった」
近代国家をアピールするつもりで露呈したのは、皮肉にも後進性だった。
実家の農作業で一時療養所を抜け出したり、賭けをして遊んだりした人たちが、全国の療養所から重監房に送られた。「草津送りするぞ」。職員がこの一言を発すると、患者たちは何も言えなくなったという。
重監房は戦後、楽泉園入園者が待遇改善を求めた47年の〝人権闘争〟で使用中止に。人道問題として国会で取り上げられ調査もされたが、設置や運営の責任が問われることはなかった。53年に取り壊されたとされるが確かな記録さえない。
 続いた隔離
特効薬の投与が始まった戦後も「公共の福祉」の名の下に隔離は続く。開始から90年、強制隔離は96年に終止符を打った。2001年には熊本地裁が隔離政策の違憲性を認める。歴史はようやく正しく流れ始めた。
東京都東村山市の多磨全生園入園者自治会長佐川修(78)は「判決以降、社会が関心を持ち、回復者が自由に発言できる環境ができた」と話す。
「重監房は日本のアウシュビッツだ」。楽泉園入園者自治会副会長の谺雄二(76)はナチス・ドイツによるユダヤ強制収容所になぞらえ、人権弾圧の象徴として復元を求めている。
宮坂は02年、新潟大に谺を招き講演会を開催、その主張に共鳴した。「栗生楽泉園・重監房の復元を求める会」を設立、10万人以上の署名を集めて04年6月、厚生労働省に提出した。同省は08年から復元に向けて調査を始めている。
公立の療養所が設立されて今年で100年。55年に1万人を超えた入所者は全国15施設で2700人に減り、平均年齢は80歳近くになった。4月にはハンセン病問題基本法が施行、療養所の一般開放も目前に迫る。
楽泉園の自治会は今、千㌻を超える「証言集」を編んでいる。鈴木は重監房の話を含め10時間以上、体験を証言した。
人間として扱われず死んでいった仲間たち。「重監房の体験を人権教育の基礎にしてほしい」。記憶を語る鈴木のほおを、涙が伝った。
(敬称略、文・平野雄吾さん)平成21年3月7日地元朝刊掲載

 

尺蠖(せきかく)の屈するは

尺蠖之屈、以求信也 『易経

全体は「尺蠖の屈するは、以(もっ)て信(の)びんことを求むるなり」。尺蠖は、尺取り虫。信は伸と同じ意味で、のびる。
尺取り虫が体を曲げるのは、伸ばそうとしてのことである、との意。
尺取り虫が身を屈するのと同じく、人間も一時的に不遇であっても、それは将来に備えての準備なのだ、ということ。
もとの文では「竜蛇の蟄(かく)るるは、以て身を存するなり―竜や蛇が、冬蟄居(ちっきょ)するのは、身を守るためである。人も時には退いて後日に備えねばならぬ」と続いており、将来に備えることの大切さをいう言葉。
(監修は全国漢文教育学会長の石川忠久さん、本文は鶴見大教授の田口暢穂さん)
※平成21年2月27日地元朝刊掲載

 

命(めい)を知る者は天を怨まず

知命者不怨天、知己者不怨人 『説苑(ぜいえん)』

後半は「己(おのれ)を知る者は人を怨まず」。命(めい)は、天が定めためぐり合わせ。天命。
天命を知る者は、何事も天の定めたことで、人の力ではどうにもならないことだからだと考え、天を怨まない。自分を知る者は、他人の自分に対する態度は、自分の言動、態度に原因があるのだから仕方がないと考えて反省し、人を怨まない、ということ。
天命に逆らわないというのは、中国の伝統的な人生観だが、現代ではちょっと通じにくいかもしれない。だが後半は、国や時代を超えて、一人ひとりに大切な心構えだ。
(監修は全国漢文教育学会長の石川忠久さん、本文は鶴見大教授の田口暢穂(のぶお)さん)
※平成21年2月25日地元朝刊掲載

稀勢、執念の変化

検証 春場所逆転V

26日終了の大相撲春場所エディオンアリーナ大阪)で、新横綱稀勢の里の劇的な逆転優勝がファンの感動を呼んだ。13日目に左上腕部を負傷しながら強行出場し、千秋楽に本割、決定戦で奇跡の2連勝。背景などを検証した。
休場危機に陥った13日目の夜以降、東京や千葉、静岡から旧知の専門家が大阪へ駆け付けて治療を施した。前向きになり、「やると決めた以上は絶対諦めないでやると思った」と決意した。患部にテーピングをした14日目は横綱鶴竜に完敗で2敗目を喫した。
1敗で首位だった大関照ノ富士との千秋楽。15歳での初土俵から立ち合いの変化に頼ることのなかった稀勢の里が、本割で迷わず左右に動いた。変化は褒められるものではないが、勝利への執念がにじみ出た。二日ぶりに行ったこの日の朝稽古。右に変わり、もろ手突きを試す周到さだった。
最初の立ち合いで右へ変化したが不成立。「同じことはできない」と二度目は左へ跳び、動き続ける。痛む左差し手を抜き、相手を俵伝いの右突き落としで仕留めた。
2002年初場所千秋楽。千代大海との優勝決定戦を変化で制した玉ノ井親方(元大関栃東)は言う。「大一番での変化は相当な覚悟がいる。腹を決める以外にない」。そして本割の
稀勢の里を見て、「開き直って、下半身で取っていた」と決定戦での勝利を確信した。
不慣れなもろ手突きで立った決定戦。稀勢の里はもろ差しを許して後退しながら土俵際の右小手投げで逆転した。「上(半身)が駄目なら下でやろう。疲れはなく、下半身の出来がすごく良かった」と話す。大関昇進後に合気道で学んだ「上1、下9」との理論に下半身強化の重要性を再認識。四股やすり足を増やした努力が逆境で生きた。
照ノ富士は13日目に古傷の左膝痛を悪化させ、歩くのもやっとだったという。加えて、14日目に稀勢の里と当たった鶴竜が「こんなやりづらいものはない」と語ったように、目立つ大けがをした相手と取る難しさも、逆転の陰に見え隠れする。
稀勢の里の左上腕は内出血で赤黒く変色し、春巡業の休場を決断するほどの症状だ。新横綱は「自分一人の力じゃない。見えない力」と無形の力を勝因に挙げる。表彰式で君が代の大合唱の中、初優勝の先場所以上に涙を流した。(田井さん)
平成29年3月31日地元朝刊掲載

「私の肝臓をあげます」

いのちのコンパス 生体移植という選択
余命3カ月の父助けたい

付き合って7年の彼は心配しないかな。そんなことを考える前に、川野祥子さん(28)の口は動いていた。
「私の肝臓を、父にあげます」

2006年4月、父の弘さん(55)に付き添って鹿児島県内の病院を訪れた時のことだ。弘さんは肝臓がんと診断され、体調は日々悪化していた。この日の診察では、ついに「余命3カ月」と告げられた。
駐車場の車の中で黙り込む弘さん。祥子さんはいま出てきたばかりの診察室に一人で引き返し、医師に尋ねた。
「父を助けるには、移植しかないんですよね」
「そうは言っても、提供者が決まらないことには始まりません」
医師は机の書類に目を落としたまま、気乗りしない様子で答えた。脳死移植は提供数が極めて少なく、生体移植はドナー(提供者)に大きな負担を強いる。肝臓では、手術に伴うドナーの死亡例も国内で一例だけある。
家族と離れ、島にある小学校の保健室で働く母恵子さん(52)には健康上の不安があり、提供は難しい。あとは自分と、二人の妹。祥子さんは迷わず提供の意思を伝えた。医師は顔を上げ、祥子さんをじっと見つめた。
帰宅後、祥子さんは寝室にいた父に「移植するから」と告げた。返事は聞かずドアを閉めた。
自分のためにドナーになろうとしている娘。弘さんの心は揺れた。うまくいくと限らないのにわが子の体にメスを入れていいのか。たとえ自分は助かっても、娘に万一のことがあったら。
「何を考えているの?」。祥子さんから突然問い掛けられた。余命宣告から数日後の夜。迷ったまま、テレビをぼんやり眺めていた。
数秒の沈黙。「移植はしなくても…」。うつむいたまま、口にした。
「お父さん、生きたいの、生きたくないの?」
怒ったような口調。弘さんは気おされた。
「…生きたいよ」
「じゃあ、決まり」
祥子さんはさらりと言った。
当初は提供に賛成だった恵子さんは、移植の準備が進むにつれて、最悪の事態ばかり考えるようになった。
「もし命がなくなったらどうするの」。祥子さんに毎日電話をかけ、泣きじゃくった。
祥子さんと交際していた山本陽平さん(30)も、本音は提供に反対だった。インターネットで情報を集め、医師の説明も聞いたが、不安は募るばかりだった。
言い出したら聞かない性格の祥子さん。どうしても止めたくて、遠回しに思いを伝えた。「事の重大さを分かっているの?」「怖いなら怖いって言っていいよ」。
祥子さんの気持ちは変わらなかった。でも心配してくれる両親や彼のことは気掛かりだ。
「私にもしものことがあったら、この人たちはどんなに悲しむだろう」
手術は6月15日と決まった。祥子さんは入院のための着替えをバッグに詰めながら、そう考えていた。(文中仮名)
※平成21年2月23日地元朝刊掲載

 

見えない力

「これで終わったな」
14日目の鶴竜戦で力なく土俵を割った姿にそう思った。
大方の国民もそう思っただろう。
稀勢の里の優勝は消えたと。
13日目の日馬富士戦で手痛い一敗を喫した上に致命的な怪我を被(こうむ)った。
痛みでその場を動くこともできずに顔を顰(しか)める稀勢の里の表情からは休場の文字が浮かんだ。
そうして迎えた鶴竜戦。
怪我の影響が疑いようもない負け方だった。
千秋楽は星の差一つでトップに立つ照ノ富士
本割で勝ち、さらに優勝決定戦で勝たないと稀勢の里に優勝の目はない。
絶望的だった。
どうあがいても無理だと思った。
同じ立場だったら弱気に、自分の負ける無様な姿を思い浮かべていたに違いない。
この怪我なら負けても仕方がないと。
ところが稀勢の里は違った。
最後の最後まで諦めなかった。
それが如実に表れていた対照ノ富士戦だった。
本割では立ち合いを躱しての突き落とし、優勝決定戦では押し込まれながらも小手投げ、いずれも土俵際まで粘り、見事に優勝を勝ち取った。
その瞬間、私の体の深部に力が漲(みなぎ)った。
稀勢の里の最後まで諦めない気持ちがテレビ画面から放射されたのだ。
優勝が難しくとも応援し続ける国民の想いが稀勢の里の背中を押したのだろう。
稀勢の里が優勝インタビューで話した「何か見えない力を感じた15日間」とはこのことだと信じて疑わない。
「相撲人生の15年間が凝縮された特別な15日間」
この春場所は正にそうだったのだろう。
待望の日本人横綱
この漢(おとこ)の力士としての行く末に期待したい。

 

偏見に立ち向かう

植物の受精の講義をしたら、少女たちの前で性の話をしたようにすり替えられ、博物館長のいすを失ったのはフランスの昆虫学者ファーブルだ。
1823年貧しい農家に生まれ、独学で教員免許を取得、教育界で力を付けてきたのを快く思わない師範学校出身者らが仕組んだらしい。
1809年2月12日英国で生まれ、今年が生誕200年のダーウィンが唱えた生物進化の法則も宗教家の激しい反対にあった。自然淘汰(とうた)説で生物が適応する仕組みを解明した「種の起源」出版から150年にもあたる。
大著「昆虫記」を残したファーブルには貧困がつきまとい、世界から届いた寄金を送り返した晩年の逸話も伝わっているが、裕福な家庭に育ったダーウィンは英海軍の帆船「ビーグル号」で5年かけ世界一周、進化論の着想を生む旅になった。
父の跡を継ぐため医学部に進んだが血を見るのに耐えられず断念したダーウィン誕生の日に米国ではリンカーンが産声を上げ、血を流す奴隷解放の戦いを強いられている。ちなみにダーウィン奴隷制には反対したそうだ。
人類と他のほ乳類が別々に創造されたと信じたのが実に不思議なことだと考える時代がくるのも遠くはなかろうとダーウィン。生きた月日が重なる三人の生き様は偏見に立ち向かった歩みとも通じることだろう
※平成21年2月12日地元朝刊「編集日記」より。(下線部、朴念仁修正)