朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「私の肝臓をあげます」

いのちのコンパス 生体移植という選択
余命3カ月の父助けたい

付き合って7年の彼は心配しないかな。そんなことを考える前に、川野祥子さん(28)の口は動いていた。
「私の肝臓を、父にあげます」

2006年4月、父の弘さん(55)に付き添って鹿児島県内の病院を訪れた時のことだ。弘さんは肝臓がんと診断され、体調は日々悪化していた。この日の診察では、ついに「余命3カ月」と告げられた。
駐車場の車の中で黙り込む弘さん。祥子さんはいま出てきたばかりの診察室に一人で引き返し、医師に尋ねた。
「父を助けるには、移植しかないんですよね」
「そうは言っても、提供者が決まらないことには始まりません」
医師は机の書類に目を落としたまま、気乗りしない様子で答えた。脳死移植は提供数が極めて少なく、生体移植はドナー(提供者)に大きな負担を強いる。肝臓では、手術に伴うドナーの死亡例も国内で一例だけある。
家族と離れ、島にある小学校の保健室で働く母恵子さん(52)には健康上の不安があり、提供は難しい。あとは自分と、二人の妹。祥子さんは迷わず提供の意思を伝えた。医師は顔を上げ、祥子さんをじっと見つめた。
帰宅後、祥子さんは寝室にいた父に「移植するから」と告げた。返事は聞かずドアを閉めた。
自分のためにドナーになろうとしている娘。弘さんの心は揺れた。うまくいくと限らないのにわが子の体にメスを入れていいのか。たとえ自分は助かっても、娘に万一のことがあったら。
「何を考えているの?」。祥子さんから突然問い掛けられた。余命宣告から数日後の夜。迷ったまま、テレビをぼんやり眺めていた。
数秒の沈黙。「移植はしなくても…」。うつむいたまま、口にした。
「お父さん、生きたいの、生きたくないの?」
怒ったような口調。弘さんは気おされた。
「…生きたいよ」
「じゃあ、決まり」
祥子さんはさらりと言った。
当初は提供に賛成だった恵子さんは、移植の準備が進むにつれて、最悪の事態ばかり考えるようになった。
「もし命がなくなったらどうするの」。祥子さんに毎日電話をかけ、泣きじゃくった。
祥子さんと交際していた山本陽平さん(30)も、本音は提供に反対だった。インターネットで情報を集め、医師の説明も聞いたが、不安は募るばかりだった。
言い出したら聞かない性格の祥子さん。どうしても止めたくて、遠回しに思いを伝えた。「事の重大さを分かっているの?」「怖いなら怖いって言っていいよ」。
祥子さんの気持ちは変わらなかった。でも心配してくれる両親や彼のことは気掛かりだ。
「私にもしものことがあったら、この人たちはどんなに悲しむだろう」
手術は6月15日と決まった。祥子さんは入院のための着替えをバッグに詰めながら、そう考えていた。(文中仮名)
※平成21年2月23日地元朝刊掲載