朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「無常」から明るい旋律

宗教学者 山折 哲雄やまおり てつお

金融恐慌、通貨危機、100年に一度の大暴風…。いささか大げさな言葉が、ちまたにあふれ出している。ほとんど異口同音の波に乗って、それが聞こえてくる。
けれども、どうだろう。その「金融恐慌」という名の妖怪の本質は、ただ一つの言葉〝景気循環〟という経済用語で片が付くのではないか。景気が循環するという、何の変哲もない話である。
経済は好調のときもあれば、暗転するときもある。10年、50年に一度の変動であろうと、100年に一度の暴風であろうと、ことの本質に変わりはない。
バブルの現象も、過熱すれば、やがてはじけるときが必ずやってくる。景気は、ニセ天国の上昇気流に乗ることもあれば、たちまち地の底に墜落もする。照る日、曇る日である。そんな現象をひっくるめて、景気循環と称してきたのではないか。
とすれば、この景気循環という経済用語を、分かりやすい人間的な言葉に翻訳すると、さしずめ〝無常〟〟ということになるであろう。あの諸行無常の無常である。この世に常なるものは何一つ存在しない、という意味だ。持続可能な永遠など、単なる虚妄(きょもう)のたわ言にすぎない―そういう認識である。
死と再生
だが同時に、ここで慌てて付け加えなければならないことがある。この無常の認識からは、実は明るい旋律も聞こえてくるのである。とかく世の中は、人間の運命であれ、山川草木(さんせんそうもく)のような自然であれ、変化と蘇生(そせい)を繰り返して循環を止めないということだ。死と再生のリズムである。
われわれの人生も、社会のあり方も、浮沈(ふちん)を繰り返しつつ、この循環の軌道に乗っている。何も慌てることはない、いたずらに騒ぐ事なかれ、そんな天の声も聞こえてくる。
それなのになぜ、この世界的な金融経済不安の状況を、先に述べた景気循環というキーワードで一挙に説明しようとしないのか。無常という宗教言語の力を借りて、潔く片を付けようとしないのか。
こんな言い分は、前後の脈絡を考えない横やりのように思われるかもしれない。だが、そこには、それなりの確かな理由が横たわっていると、私は思っている。
そもそも無常には、三つの考えが含まれている。この世に永遠なるものは、何一つ存在しない。形あるものは、必ず壊れる。人は生きて、やがて死ぬ。以上の三原則だ。
これを否定することは誰もできないだろう。よほどのひねくれ者でない限り、まずは疑うことのできない客観的な事実であると言っていい。
二つの選択肢
しかし困難な問題が、まさにそこから発生することも認めなければならない。なぜなら、客観的な事実をそれとして認めるにしても、それを自己の血肉として受容しようとしない文明が歴史的に存在してきたし、現に存在しているからだ。
それが、ユダヤキリスト教文明であり、アングロサクソンによって形成された西欧社会である。この人生の無常という原則に対し、この文明は拒否的な態度を取り続けてきた点で一貫していたと思う。
なぜなら、この文明にとっては、危機を乗り越えるための戦略こそが最大の関心事だったのであり、それに対し、無常というアジア的なエートス(精神)ほど、退嬰(たいえい)的で虚無(きょむ)的な思想はないと映ったからであろう。
さらに息苦しいことには、この日本の社会までが、アングロサクソン流生き残り戦略の傘の下に、すっぽり包み込まれてしまっている。そしてこれまで、その戦略に加担することに、われわれは夢中になり過ぎていたのではないか。
この先、光明は見えてくるのか…。いずれにせよ、われわれの前方には二つの選択肢が見えている。一つは、不安と危機をあおり立てる短期的な経済予測に、依然として翻弄(ほんろう)され続けるか。もう一つは、景気循環=無常の原則に立って長期的な展望を持ち、この事態に冷静に対処するよう努力していくか。
経済への視点とは、直面している緊急の問題に対処すること以上に、われわれ自身のエートスにかかわる大きなテーマでもあるはずだ、と指摘しておきたい。

平成21年1月23日地元朝刊掲載

 

ほめれば成犬も変化 名前でしからない

家族としての犬のしつけ3

今から20年ほど前、うちの動物病院にはステファンという雑種犬がいた。
子犬時代に雨に打たれて倒れているところを、小学生に抱えられてやってきた。新しい家族が見つからず、当院で生活するようになった。われ関せずの性格で、なんだか達観しているようにも見える犬だった。
前米ドッグインストラクター協会の元会長テリー・ライアン先生が来日したのは、この時期だ。先生とともに、家庭犬をほめてしつける「陽性強化法」が日本にやってきた。国内ではまだ知られていないこの方法を私は直接指導していただく幸運に恵まれた。
パートナーとして参加したステファンは7歳を超えていた。おとなしく、反抗心のない優等生だった。だが、別の視点から言えば、「無表情で人間に期待していない」という風情の犬でもあった。不足ない環境ではあったが、伴侶動物としては、何かが欠けていたのかも知れなかった。
テリー先生の教室では、犬には呼びやすい名前をつけて、名前を呼んだら良いことがあるように教え、絶対しからない。
名前を呼び、その犬の一番好きな「ごほうび」を繰り返し与える。食べ物だけではなく、「家族の笑顔」も非常に大きいなごほうびになり、モチベーションの維持につながると教わった。とても新鮮だった。
このしつけ教室に参加するようになって、徐々にステファンが変わっていった。
それまで、ステファンは人が近づいても、寝たままちらっと横目でこちらを見るだけだった。それが、私が行くと〝笑顔〟(のような表情)で頭を上げる。「今日もお出かけ?」「しつけの勉強に行く?」と、期待しているようなしぐさを見せ、待てもお座りも伏せも〝喜んで〟できるようになっていった。
子犬でなくても、成犬が十分にしつけで変われることを知った。大切なのは、犬が名前を好きになることだ。だから、絶対に名前でしからない。
名前を呼んだら、パッと目を見る。アイコンタクト、つまり目を合わせれば、集中力が生まれ、しつけや意思疎通は格段にしやすくなる。これは人間同士でも言えるのではないか。

(獣医師の柴内晶子さん)平成21年1月22日地元朝刊タイム掲載

 

餌やりに矛盾 なぜハクチョウ

「みんなのひろば」にも、ハクチョウへの餌やりが禁止され「かわいそう」「人間は身勝手だ」と嘆く意見が掲載されています。わたしの周りでも同じくハクチョウを思いやる意見を聞くことがありましたが、私は逆にその反応に首をかしげてしまいます。
まず、なぜハクチョウならば餌をやろうと思うのでしょうか。カラスに餌をやろうという人はいないのに、なぜかわいそうという人はいないのでしょうか。ハクチョウもカラスも、野生生物ならば餌を取る能力はあるはずです。
ハクチョウが弱る姿はかわいそうでも、カラスが弱る姿は何とも思わないのでしょうか。餌やりを禁止することを人間の身勝手と嘆く前に、その矛盾に気付いてほしいのです。ハクチョウは美しくかわいらしいから人間は餌をやり始めたのでしょう。人のエゴに任せてどうしてもかわいそうと思うならば、餌をやる前に、餌となる虫や小魚が自然に生きる環境を維持するべきだと思います。
 
(高校生の鈴木悠子さん18歳)平成21年1月19日地元朝刊投稿

 

時代性より世代性重視

芥川賞受賞者に聞く

契約社員としてつつましい生活を送る29歳の独身女性を描いた津村記久子さん(30)の小説「ポトスライムの舟」が芥川賞に決まった。働きながら執筆を続ける津村さんは「大きな望みやお金が無くても楽しく生きていけると訴えたかった」と語る。
―受賞の気持ちは。
候補になるだけで十分なのに自分でもすごいと思う。作品に普段の暮らしで自分が実感したことを投影しました。以前はあらかじめ結論を考えてそこから逆算して書いたりしていたが、今回は自由に書けました。
―執筆の動機は。
大学時代のクラスメートが30歳ぐらいで再会したときに生じる〝立場の違い〟を書こうと思いました。登場人物がすべて女性なのは、男性よりも違いを明確に出せると考えたから。わたし自身現在30歳で、大学を卒業したころはちょうど就職氷河期。「あの時に必死に内定を取ろうとしたのは間違いでは」との思いもあり、「成功していない30歳の女性」を考え付きました。
ワーキングプアの問題も反映されている。
執筆したのは昨年の7月から9月。こんな不況は予想しませんでした。重視したのは時代性より世代性。今の30代の女性を描きたかった。作品中にシングルマザーになる友人が出てきますが、これはわたし自身が母子家庭育ちで「母子家庭になる瞬間」を描きたいと思ったから。実際に母から父と別れたころの話を聞きました。
―作家を志した理由は。
「100歳まで生きる」と宣言していた祖母が5年前に80すぎで亡くなり、自分もいつ死んでもおかしくないと感じました。「好きな小説を書いてみよう。3年間は続けよう」と考え、現在は会社に勤めながら、帰宅後いったん睡眠を取って夜中の二時から四時に執筆します。会社を辞める気はありません。働いているからこそ小説を書けると思っています。
―今後の抱負は。
取り上げる人物の範囲を広げながら、自分の実感が伴うものを書き続けたい。結論を導くために思っていないことまで書きたくありません。電車の中吊りの見出しとか、ネットニュースの見出しを見て「ちょっと違うんじゃないの?」と思うことがあって、同じように〝世間の声〟を疑う人に作品を発信できたらと考えています。

平成21年1月19日地元朝刊掲載

 

さまざまな正月

日曜論壇

毎年お寺のお正月は、檀家(だんか)さんからの年始受けやこちらからの年始廻りで慌ただしい。こちらからお邪魔するのはお寺独特の用語で「配札(はいふだ)」というのだが、要するに元朝に祈祷(きとう)した御札(おふだ)を配り歩き、各家の一年の清安を祈るのである。
年によって、天気もさまざまだが各家の事情も一定ではない。いつもきちっと玄関まわりも片付き、松飾りの奥から和服で出てくるような家もあれば、パジャマで出てくる家もある。その違いは、それぞれの正月なのだからべつに結構なのだが、年によってはその家のいつもと違った雰囲気を感じることもある。
「お変わりないですか」と訊くと、待っていたように息子が入院した、あるいは父が寝たきりになった、といった変化を告げられ、驚くことも多い。
今年は年末に亡くなった檀家さんが二人いた。最近は、三が日が明けないうちから葬儀を行うような新聞の知らせも見かけるが、うちの寺では古式に則(のっと)り、七日まではしない。たとえ自分の家で不幸があったとしても、余所(よそ)の家の正月を壊す権利はないと考えるからである。
以前、福島市のお寺の和尚さんが元旦に亡くなったが、電話で知らせがあったのは五日だった。聞けば、親戚(しんせき)以外にはみな五日以後に知らせたとのこと。こうしたゆかしい心遣いが、最近は少なくなっているようで寂しい。
ところで年末に亡くなった二人のうち、一人は29日だったので翌日お通夜が営まれ、大晦日(おおみそか)に火葬された。今はお骨になって葬儀を待っていてくださる。しかしもう一人が亡くなったのは大晦日であったため、巨大な冷蔵庫のような霊安室に預かっていただき、冷たい体で通夜・葬儀を待っているのである。
突然の体調の変化、また救急車で運ばれて11時間後のご逝去であったから、おそらくその家では正月準備も済んでいたのではないかと思う。亡くなったのは数え62歳の奥さんで、残された旦那(だんな)さんはこれまで一緒に過ごす時間が少なかったからと、ちょうど大晦日づけで会社を辞めた矢先だった。
すでに自らの手で供えられていた餅や松飾りが、あまりにも哀しい。ひとり葬儀を待ち、奥さんのいる霊安室に通う旦那さんの寂寞(せきばく)は想像を絶する。正月は、めでたいと決まっているだけに、そのモードになれない人々にはことさら辛い。
けれども人は、生まれる状況もだが死ぬときも選べない。死は人為を超えているがゆえに、正月のめでたさは些(いささ)かも減ぜられることはない。そう考えるのが禅的な思考だと思う。
無条件で強いそんなめでたさを、またいつか心から愛でたいと思う日が、残された旦那さんに戻ることを祈る。

(僧侶・作家の玄侑宗久さん)平成21年1月11日地元朝刊掲載

 

答えてもらえない悲しみ

随想「対話できる社会、そして優しさ」

人間は人々との対話の中に生きているのだとつくづく思う。今、失業者も就職活動をする若者たちも深い悲しみや絶望の中で「なぜ私たちは社会から必要とされていないのか?」と問い、その答えを待っているのではないだろうか。同じ人間として、なぜ仲間から排除されるのか、納得できないのではないだろうか。
会社が好況のときにためこんだ利益や高額な役員報酬がどうなったのか、そのゆくえを答えてくれる人もいない。解雇された後、どうやって生きていけばいいか答えてくれる人もいない。答えてもらえない悲しみが今、日本社会を覆っている。
東西ドイツが統一されたとき、とくに東ドイツでは失業者があふれた。当時のことを私は思い出す。激変の中にもそこには答えてくれる社会、対話できる社会があった。
あるアパートで、以前は元気に通勤していた人が、最近、部屋にこもりきりであることに気づいた主婦が「もしかしてあの人は失業したのではないかしら」と心配して、それとなく「スープをつくりすぎたので」とわが子に持っていかせたり、ハイキングに「荷物持ちが必要だから」と誘ったり、もしコンピューターを勉強したければ自分の家に来るように、と勧めたりしていた。
それは実に自然で、家族のひとりに対する配慮、という感じだった。「おせっかいでは」とか、そのうち付き合いが負担になるかも、などと気を回して、結局何もしない私とは全く違っていた。ほうっておけば、アルコール依存症うつ病になり、自殺を考えるかもしれないじゃない? と彼女は心配したという。
同様な問題を抱えた失業者が増えていることが社会的な話題になると、さっそく市民たちは500円ぐらいのお金を出し合って基金をつくり、あっという間に全国失業者連盟ができてしまったのである。
もちろん、失業した当事者たちも呼びかけあって、集会を開いたり、政府や自治体と新しい仕事をつくる交渉をした。例えば、町で残したい歴史ある建物を修理する仕事、青少年が気軽に集まれる場所や相談所をつくる仕事、老人向けの有機野菜の食堂の経営、不用品の交換所で雇用を新しくつくる、などである。
労働組合の対応も早く、自分たちの建物を失業者にただで使えるようにして、失業者が会議を開いたり印刷機でビラをつくったりする手助けをした。自分の会社を解雇された労働者を招いて、定期的に相談にも乗っていた。
あるとき労組の部屋を借りて会議を開いている失業者の会に出席させてもらったが、組合員が彼らのためのコーヒーやクッキーも用意していて、心が和んだ。自治体は職業探しをする失業者のために半額パスを支給し、支援する民間非営利団体のためには事務所代とそこで働く人の人件費を助成した。「ここでは誰かが助けてといえば、必ず支えがある社会です。見捨てられることはない」との失業者の言葉を私はうらやましく聞いた。
人々と対話し、答えてくれる社会の中で、失業者は「企業が生き残るためには仕方がない」犠牲者でもなく「関係のない人」でもなかった。不十分であっても人々は助け合う「同じ人間」だったのだ。

(生活経済学者の暉峻淑子てるおかいつこさん)平成21年1月11日地元朝刊掲載

 

炎の記憶乗り越えて

『歩み来て、未来へ1』出兵と抑留

シベリアで死者の歌に出合った。
生きてて良かったね/わたしみたいにならなくて/小屋の中で焼き殺された/屋根に逃げても弾の雨/日本人のやったこと/日本人のやったこと…
1919年3月22日。ロシア革命後の内戦に乗じた「シベリア出兵」で極東支配を狙った旧日本軍は、革命政権側パルチザンの拠点とみたアムール州イワノフカ村を焼き払った。
犠牲者は無力な村民だった。村の記憶で死者は300人を超える。小屋に閉じ込め36人を焼き殺した跡に炎の碑が立つ。作詞作曲不詳の「炎のイワノフカ」は、高齢の女性が無伴奏で歌う録音が村の史料館に残る。257人の銃殺現場にも慰霊の碑があった。
教師ガリーナ・コロスクツェワ(61)は父母から目撃談を聞いて育った。「女も子どもも銃剣でとどめを刺された。教会だけ焼け残り、死体が散乱していたそうです」
コロスクツェワは最近、郷土史家らが教会の埋葬記録や聞き取り調査でつくった犠牲者名簿に祖父の名がないことに気づき、追加を申請した。事件は終わっていない。
毎年、悲劇の日に、村人は総出でろうそくをともし慰霊碑を訪れる。炎の記憶が世代を超えて受け継がれてきた。
■和解
94年、一人の日本人が訪れた。元抑留者の慰霊碑を建てようと埋葬地を探していた全国抑留者補償協議会会長の斎藤六郎。「日本人の墓はありませんか」「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」
斎藤とこんな会話をした村長のゲオルギー・ウス(84)は今も現役だ。「抑留と出兵の犠牲者をともに慰める日ロ合同の碑を提案したのは斎藤さんだった。恨みは忘れようと思った」
観音像のレリーフを埋め込み、ギリシャ正教の十字架を頂く白い慰霊碑が村にできたのは翌95年7月。近くに日本人兵士が眠る。費用は元抑留者の募金で賄った。12月、斎藤は役割を終えたように72歳で急逝する。
除幕式で読経した僧の横山周導(84)も元抑留者だ。毎夏、ロシア墓参団を組織、2008年8月、14回目のイワノフカ訪問を果たした。「誰かが毎年、お参りしなきゃいかんが、ワシはいつまで来られるか…」。墓参団を日ロ友好の民間非営利団体NPO)に変えた。20代の若い女性も加わり、村の少年合唱団との交流についても話し合えるようになった。
■執念
初めて参加した荻野和代(65)は、抑留中に死んだ父の笹谷隆次郎を知らない。母が元気なうちにと墓参を願っても埋葬地が不明だった。
1991年、ゴルバチョフソ連大統領が持参した名簿に「ササタニ・タカビロ」の名を見たが、埋葬地は分からなかった。2006年、元抑留者の村山常雄(82)が独力で編んだ名簿で、中ロ国境に近いブラゴベシチェンスクの「中央病院墓地」に父が眠ることを知る。
村山は70歳でパソコンを覚え、日ロの資料を調べ、漢字の名簿を初めて作った。老兵士の執念が父の居場所をつかんでいた。和代は村山の勧めで厚生省に問い合わせて、やっと個人記録の存在を知る。3年前にロシアから届いていたが、遺族に通知はまだなかった。
「タカビロ」が隆次郎になるまで15年の歳月がかかった。「個人にできて、なぜ国にできないのか」。和代には、わだかまりが残る。
明治維新に始まる日本の近代は、武士の仕事だった戦争に、普通の国民を引きずり込んだ。国家の運命と、農民や商人、その家族の運命が重なり、戦場は国民が国民を殺す場となった。繊維の町、大阪・船場のボンボンだった笹谷は40歳を目前に召集された。「病弱で重労働に耐えられなかったのでは」。遺骨もない空の木箱を前に母が泣いていたことを和代は覚えている。
■犠牲
墓地は訪れる人も絶え20年前に閉ざされたままだった。鉄の鍵をはずすと緑色の木戸が開き、和代と夫の源吾、娘の史枝(32)が、シラカバ林に吸い込まれた。野草が風に揺れ、墓碑もない地に手を合わせた。
史枝はその場から携帯電話で、病院の祖母に写真を送った。96歳の祖母は埋葬地判明で安心したのか転んで骨折、翌日が手術だった。
キンミズヒキの種が史枝にまとわりついた。「おじいちゃんを連れて帰ろう」。そう思った。
広大な大豆畑の向こうで、もう一つの歌が墓参団を待っていた。ユウヤケコヤケデヒガコレテ…。ラズドリノエ村のパーベル・シドレンコ(77)は、夕焼け小焼けの歌を「アリタサン」に習った。子を日本に残した抑留兵士は、シドレンコの家で揺りかごの赤子を見ていた。
シベリア出兵は膨大な犠牲を伴い失敗したが、日本はさらに戦争への道を進んだ。非道なシベリア抑留はその先にあった。イワノフカの惨劇から90年。国家が忘れた無名の人々を、歴史と記憶に刻み、和平を未来につなぐ営みがある。

(松島芳彦さん)平成21年1月10日地元朝刊掲載