朴念仁の戯言

弁膜症を経て

あの苦難あってこそ

『逆風に挑む ふくしまの技7 ものづくり脈々』大手に一矢報いる

創業からちょうど20年目の今年。東洋システム(いわき市)社長の庄司秀樹(47)は新年あいさつで県内外を飛び回りながら時々、忘れようにも忘れられないあの事件を思い出していた。
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「…もう一度言ってくれませんか」。庄司は耳を疑い、電話の受話器をぎゅっと握りしめた。「だから、あなたの会社の設計図そのままに、大手メーカーに同じ装置を作らせようとしているんだ」。周囲をはばかる様子でヒソヒソと話す男の声に、体がぶるぶると震えた。
創業5年目の平成5年の冬。中国で開催された電池学会に出品した装置が高い評価を受け、経営が軌道に乗り始めた矢先のことだった。
「300万円の装置を100台注文したい」。会社を訪ねてきた大手メーカーの男の言葉に、庄司の心は躍った。「素晴らしい技術だ。詳細を教えてほしい」。どこか人を見下した態度だったが、有名企業の技術者にほめられて悪い気持ちはしない。性善説を信じる庄司は何の疑いもなく、積み上げてきた技術のすべてを公開した。
だが、肝心の発注書がいつになっても届かない。あの男に何度電話しても、つながらない。「何かおかしい」。男と一緒にいた別の技術者に電話をし、その予感が正しかったことを知らされた。「小さな会社は信用できないっていうが、ウチだって最初はそうだったのに」。会社の方針に憤る技術者の気持ちはありがたかったが、「名の通った企業がここまでするのか」と茫然(ぼうぜん)とするしかなかった。
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それから一年が過ぎ、大手二社が装置の販売を始めた。だが、庄司はまさにこのときを狙っていた。大手がカタログをつくり、受注を開始するタイミングを待ち、半分の値段で倍の性能を持つ新製品を投入する。庄司の技術者の意地とプライドをかけた作戦だった。
こうして会社の存続を揺るがした事件は、庄司の圧倒的な勝利に終わった。「このままでは終われない。負けてたまるか」。その一心だったが、結果として会社の技術力向上という成果をもたらした。「あの苦難があってこそ」。今はそう受け止めている。

平成21年1月9日地元朝刊掲載

 

お多福のわが母

今日は母の誕生日。
母に関する切り抜きを載せてみた。
※以下、「情(こころ)を育(はぐく)む」(親子で読みたい教育の話)より一部引用。

話は変わりますが、以前、高校生が国語の授業で綴った一行詩「父よ母よ」が評判になりました。
○母よ! あなたは嫌味の百科事典だ。
○母よ! 金、カネ、かね、現実的なことばかり言ってんじゃねえ。
○母よ! あなたは私の監視人形ですか。
○母よ! 言いたいことをそのまま言うなよ。

いかがでしょう。苦笑するお母さんもいることでしょう。
そこで思い出すのは「お多福」の面です。細い目、大きい耳朶とふくよかな頬、鼻の低いユーモラスなお多福の顔は、実は、「母」として、こうありたいという五つの願いを、誰にも分かるように「五徳の美人」として表現した顔なのだそうです。その「五徳」とは?

第一は「目」…憎しみの目ではなく、慈愛の目
第二は「耳」…子供の声なき声を聞き取ることのできる耳
第三は「頬」…なんでも優しく包みこんでくれる頬
第四は「口」…責める尖った口ではなく、喜びの言葉が出てくる口
第五は「鼻」…自己中心の高慢な鼻ではなく、謙虚なつつしみの鼻

子供達も、このような徳を備えたお母さんを求めているに違いありません。
「賢母を最も多く有する国が世界の最大強国なり」という言葉があります。私の知る限り、かつての日本は世界一多くの賢母を有する国でした。はたして今の日本はどうなのでしょうか。

十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや(真宗の高僧 暁烏 敏あけがらすはや

(土屋秀宇さん)平成22年1月26日地元朝刊掲載

 

命懸け 貫き通した愛

『地球人間模様 @LOVE』駆け落ち(アフガニスタン

部屋を出る時、父は何も言わなかった。そっと屋根に上ると、月明かりの中、村外れの丘に懐中電灯の白い光があった。今だ。屋根を下りて夢中で光に向かって走った。
懐中電灯を手に暗闇の中に立っていた彼に夢中で言った。「最後まで一緒に逃げると約束して」
「約束するよ」。走りだすと彼が手を差し出した。大きくて温かい、初めて握る男の人の手。この人の妻になる。アフガニスタンの厳しい冬が終わった春先、生まれた村を初めて出た。
アフガン中部のバーミヤン州アジダール渓谷。泥壁で囲った二間ほどの借家でカマルニサ(20)は夫アブドル・ハミド(24)と暮らしている。「日ごとに彼のことがますます好きになるの」。夫から結婚の際にもらった六輪の金の腕輪をしたカマルニサは少し照れるつつも、誇らしげに言った。
▶道ならぬ恋
二人の命懸けの「駆け落ち」成功の話は、町中に知れ渡っている。アフガンでは、血縁関係者の中から両親が選んだ相手と結婚するのが通例だ。それ以外の恋愛は、ふしだらな「道ならぬ恋」。だから時折、いちずな男女は駆け落ちを選ぶ。捕まれば「一家の名誉を汚した」と家族から殺されることも多い。イスラム教では本来、宗教指導者の前で愛を誓えば結婚は成立することになっているが、現実は因習に縛られている。
二人の出会いは三年前。徒歩で三時間の村から農作業の手伝いに来たハミドは、茶や食事を運んでいたカマルニサに一目ぼれした。「初めて会ったとき、互いにほほ笑んだの」とカマルニサ。
そのころの彼女は、父の暴力におびえる日々を送っていた。ささいなことで殴られる。母が死んでから暴力はひどくなり、継母が来るとさらに激しくなった。「いつか、誰か、わたしを救ってください」。そう祈りながら暮らしていた。
ハミドは母に「彼女を妻にしたい」と打ち明けた。息子の必死の願いを聞いた母はカマルニサの父に会い、結婚を申し入れた。しかし、血縁関係のない男からの求婚にカマルニサの父は「ふしだらなことをしたに違いない」と激怒。カマルニサにも「お前のような娘には食べ物も着物もやらん」と怒りをぶつけた。
ハミドはそれでもあきらめなかった。カマルニサを一目でも見ようと何度も彼女の村をこっそりと訪れた。遠目に彼の姿を見るたびに、カマルニサの心もときめいた。
彼女は近所に住む友人の女性にハミドへの伝言を託した。「あなたが好き」。伝言は女性の友人に、友人はその友人に。メッセージはハミドに届いた。父に暴力を振るわれていることも伝わり、ハミドの胸は震えた。「彼女を守らなければ」
▶読書会の夜に
決行の日は間もなくやってきた。カマルニサが父にスコップの柄で頭を殴られ失神したのだ。家を出よう。もう一度、女性たちに彼への伝言を託した。「わたしを救い出して」
返事はすぐに来た。「コーランの読書会の夜、9時。村外れの丘で待つ」。「安全」なら白、「中止」の場合は赤の懐中電灯をかざす、と。
二人は一昼夜、山道を走り、ハミドの兄が住む町に着いた。出会ってから一年半がたっていた。
それでもまだ、カマルニサの父が追いかけてくるおそれがあった。見つかれば本当に父に殺されかねない。二人はバーミヤン州の知事ハビバに助けを求めた。知事は二人のいちずさに心を打たれ、「カマルニサの父を娘への暴行罪で懲らしめる」と公言した。案の定、父はやってきたが、知事の助けで二人に手出しはできなかった。
ハミドはそれでも安心できず、日本円で約25万円を借りて示談金として払った。公務員の年収二倍以上の額だ。そして自らも警察官となった。「彼女を愛している。全財産を投げ打っても彼女を守り、二人で暮らしたかった」とハミド。寄り添うカマルニサの目から涙がこぼれた。
「よくやった」。ハミドの家族は祝福したが、三日間続いた結婚披露宴にカマルニサの家族は一人も来なかった。だが、生まれた村の女性たちからは祝福の言葉が届いた。「おめでとう、お幸せにね」。寒さが緩み始めるころ、二人には子どもが生まれる。

痛み知る女性たち歓声
二人の話に地元の女性たちはほおを染め、歓声を上げる。「手を取り合って逃げたの? それが成功するなんて」。アフガニスタン女性のだれもが、今なお続く戦火と男性優位社会の中で痛みを分かち合っている。だからこそ二人の話に夢中になり、かっさいを送る。
タリバン政権崩壊後、カブールでは顔を覆わずに歩く女性も増えた。女子の学校も復活した。
しかし、女性を取り巻く環境はむしろ悪化していると地元の人権活動家は指摘する。
「耐えるだけだった女性が、少しずつ主張し始めたことに保守的な男性が反発、暴力に訴える例が増えている」。レイプ被害者の女性を家族が「名誉を汚した」と殺す例さえある。
一方で、愛した男性との思い出を支えに生きる女性もいる。カブールに住むファイマ(44)は13歳のときに、いとこで18歳のアブドゥルと結婚。「最初は結婚の意味も分からなかったけど、彼の心の広さを知るにつれ、深く愛するようになった」。夫の勧めで勉強を続け教師になり、働きながら4人の子どもを育てたが、夫は1990年代の内戦中、自宅に飛び込んだロケット弾で死んだ。
アフガンでは、夫を失った女性は再婚する例が圧倒的に多いが、ファイマは自分だけで子どもと夫の母を守ると決意、昼は教師、夜は裁縫の内職と必死に働いてきた。タリバン時代は秘密の場所で女生徒を教え続けた。
「母は僕の誇りです」。傍らで長男ショケル(17)が言った。

共同通信外信部の舟越美夏さん)平成21年1月7日地元朝刊掲載 

利益よりも教育優先

『ものづくり脈々5 逆風に挑むふくしまの技』家族は仕事の原点

「専門知識を持つ君が必要なんだ」。平成4年春、日大理工学部の男子学生を朝日ラバー(さいたま市)社長の伊藤巌は熱っぽく口説いた。今は会長となり74歳の伊藤は「社長業の三分の一は人材の発掘と育成」との信念を持つ。つてを頼って自ら大学に足を運び、人材獲得に走り回っていた。学生は伊藤の熱意に心を動かされ入社を決意した。この学生が後に主力商品である「アサ・カラーLED」開発の端緒をつかんだ技術グループ課長の市川明(39)だ。
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創業者の伊藤は本宮町(現本宮市)生まれで、安積高から日大工学部を卒業した。ゴム会社に入社し東京工場の営業で新規取引の実績を挙げた後、36歳で独立した。
幾つかの誓いを立てた。第一に掲げたのは「家族に迷惑を掛けない」。男が仕事をしていく上で、家族は安らぎであり原点。その家族を心配させることはあってはならない―という考えだ。この誓いは社員を大切にする社風をはぐくんだ。
例年、売り上げの10%は必ず社員研修費に回した。約20年前、利益が上がらず経費削減を進めるため、総務部が研修費を削減しようとしたことがあった。「なぜ社員を大事にしようとしないのか。利益より社員教育の方を優先しろ」。伊藤は声を荒らげ、減額を頑として許さなかった。
こんなこともあった。泉崎村にある福島工場の最寄り駅はJR 泉崎駅。駅に降り立った伊藤は構内にごみが散乱しているのに気づいた。「無人駅とはいえ、泉崎駅は福島工場の玄関口だろう」。伊藤の一言で毎週火曜日の朝7時半から一時間、福島工場と福島第二工場の社員約260人が5人ずつローテーションを組んで駅の清掃に当たるようになった。これは16年間続いている。
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伊藤は経営の一線を退いた今でも社員教育に情熱を傾ける。平成19年春からは、私財を投じて40歳代の社員二人を岩手大大学院博士課程に通わせている。「いずれは工学博士を5人育てたい」との思いからだ。
東北ポリマー懇話会の会長を務め、学会やセミナーに出席する日々。「経営とは人づくり。カネは二の次」。可能な限り工場に顔を出し、若手社員にアドバイスを送り続けている。

平成21年1月7日地元朝刊掲載

 

年初の便り

『水の透視画法21』こころばえと憂愁…

ことしの賀状はいつもの年とずいぶんちがって、気のせいか、文面や絵がらが重く沈んでいた。何通かはおきまりの祝詞を略して「暗中模索」だの「五里霧中」だの、およそ賀状らしからぬ文言でまえおきし、「めげずにがんばりましょう」などと、なにをどうがんばればよいものかさっぱり要領をえないまま文をむすんでいたりした。だれしも手ばなしで「おめでとう」とおもっておらず、眼(め)にはみえない不安の波動のわけをとらえようと過敏になっているようだ。かつてうたがう余地がなかったはずの日常のなめらかな連続性が、ここにきて不気味にきしみはじめていることは、たかが賀状の変調にもそこはかとなく知れる。
いつもなら「旧年の特筆私事トップ5」と「新春の決心」を細かな字でびっしりと書きおくってくる70歳代の女性の賀状が、ことしはおくれて着いた。文面も例年とまったくことなる。のっけから「轍鮒(てっぷ)の急にたちあがれ!」といかにも古めかしい檄文(げきぶん)調なので苦笑してしまう。「轍鮒の急」とは「荘子」にでてくることばで、わだちや水たまりにいる命あやういフナ。つまり、危急にひんする者のたとえで、この寒空に困窮する失業者たちをたすけるために行動せよ、とよびかけているのである。あいからず元気なことだと感心して読みすすむうち粛然としてすわりなおした。彼女、暮れから東京・日比谷公園年越し派遣村で「飯炊き、テント張り、救援物資の分類、配給、ゴミひろい」のボランティアをやっていたのだという。
「立ちっぱなしで一日目はヨロヨロ。けれど、だんだんつよくなりました。陽(ひ)が落ちるととても寒いのですが、私は〝お母さん〟と呼ばれながら、まわりに教えられて仕事をしています」。ことばに屈託がない。物心にまだ余裕のある私たちにたいし「たちあがれ!」と叫んでもとくにふくむところはなく、ストレートなぶん、かえって明るいのだ。彼女は殺された樺美智子さんらと60年安保をたたかったことがある。しかし、ふたたび水をえた魚というのではない。くさぐさおもったすえ私は得心する。世代、経歴、思想、立場をはねかえす一個人の凛(りん)とした〈こころばえ〉が、老いた彼女を派遣村にかよわせているのだ、と。ときに単純にもみえるよきこころばえのまえには、どんな華麗で精緻(せいち)な理屈もしぼんでしまう…そう自分にいいきかせたことだ。
この正月、印象深い便りがもうひとつあった。こちらは30代の新聞記者からのEメールで、赤さびのような疲労が文面にただよっていた。仕事をやめたいのだがやめられない。「暗やみに吸いこまれていくような孤独と虚無感」に日々おそわれている。つらいこと、疲れること、解決のむずかしいことを考えるのをうまく避け、自分に都合のよい相手とだけほどほどにつきあう毎日をおくっていたら「かつての理想がうそみたいにやせほそってしまった」という。社はこの不景気をしのぐために以前よりさらに権力や大企業、お茶の間になりふりかまわず媚(こ)びをうり、大事な記事をへらしてでも広告を入れようとしているけれども、異議をとなえる気力は社内にも自身にもないとなげく。
知的障害があるとみられる容疑者でも写真撮影できるよう便宜をはかれと警察にもとめているのは、読者ではなくじつは記者たちであり、社内でさして議論にもならない。自社のウェブサイトへのPV(アクセス量)が毎日、社内メールで流され、まるでPVを上げろとおいたてられているようだともいう。記者たちは社外でも社内でもまず「空気をよむ」のが本分のようになりつつあり、他者の苦しみをおもう「痛覚」が年々にぶっている…と恥じいる。「孤絶の感情がつのり、このところ自分の存在を脅かすほどになってしまいました」「人は生まれてから死ぬまで、孤独のやみに沈められているのですね。ふと足もとをみると、会社もまた孤独の底なし沼です」-。
青年は年末休みに妻子をおいて夜行列車でひとり旅にでた。雪の北陸路をさまよいあるくうち、孤独からのがれるのでなく、これからはいっそ孤独をもっとふかめてみようとおもいたったという。晦日(みそか)の夜に帰宅したら、産まれて間もないわが子が暗い寝床でじっと自分の小さな手にみいっていた。かれのこころはその情景にふるえ「痛覚が静かによみがえるのを感じて泣いた」のだそうだ。雪道、赤ちゃんの手、派遣村…が、私のまなうらでひとつらなりの絵になった。

(作家の辺見庸さん)平成21年1月9日地元朝刊掲載

 

葬儀日に届いた父の検体申込書

父への検体の申込書が届いたのは葬儀当日だった。近所の人に相談したら「おれたちには関係ない。家族で決めろ」とのことだった。「無駄な慣習はやめ、世のために何か尽くしたい」というのが父の遺志だった。気が動転している家族で即決できるわけがなく、父は火葬された。
予想を超える葬儀代の請求書にがくぜんとし、また、父の遺志をかなえてあげられなかったことを悔やみ、そして命の終わり方を考えておくのに早過ぎることはないと痛感した。
それにしても医療費や保険税の高騰で若者に負担をかけることを憂い、生涯通院しなかった父を裏切り、救急車を呼んでしまった。
そして父は多忙で粗雑な看護を受け逝ってしまった。父を殺したのは私かもしれない。

(主婦・門馬貴子さん46歳)平成20年12月8日地元朝刊投稿

 

冬を楽しむ

随想

これから厳しい冬を迎えますが、会津の冬といえば、真っ先に雪が浮かんできます。私たち会津に住む多くの人々にとって雪は、一般的にマイナスのイメージしかありません。しかし、視点を少し変えると、雪どけ水は落葉の分解を助け、岩石層を通してミネラルたっぷりの伏流水を提供してくれます。また、冬においしくなる漬物や酒、みそ、しょうゆも、このすぐれた伏流水のおかげなのです。
晩秋になると落葉樹は葉を落とし、一見、枯木の様に見えます。日本の美を代表するさび、わびの原点は、葉を落とした状態の「枯れる」と、冬の厳しい寒さがもたらす「ひえる」という二つの美意識が元になっております。秋の紅葉は、だれが見てもきれいに映ります。室町期の先人は、厳しい環境での木々本来の姿に美を見いだしたのです。そこから茶の世界にさびが生まれ、わびへと発展し、千利休によって大成された日本を代表する茶道となったのです。
このような流れを見てくると、雪国会津は「枯れる」「ひえる」を代表する地域なのです。利休は茶道の精神として藤原家隆の「花をのみ 待つらむ人に 山里の 雪間の草の はるを見せばや」の歌を示しており、ここから山里銘の茶碗が多く見受けられます。会津では一面の雪野原から力強く芽を出すフキノトウが、そうした世界を表している様な気が致します。
現在の会津は、昔に比べ雪も半分以下であり、道路もきれいに除雪され、先人が経験した大変さは、昔物語になってしまいました。しかし六代目豊意の時代は暖房設備も充実しておらず、そのため、粘土は凍(し)みやすく、乾燥もままならぬことから、冬の間はロクロもニシン鉢づくりも控えめにし、春に向けて道具を整えたり趣味の川釣りの準備をしたり、合間には、謡(うたい)を楽しみ、厳しい冬を逆に楽しんでいた様に思われます。現代は厳しさがなくなった代わりに、心も休ませる暇もなく働き続け、ひいては心を病む人も現われてきた様に見受けられます。
戦後の日本は高度成長を求め、働けば働くほど、豊かになる時代でした。その結果、確かに物の豊かさと便利さは手に入れましたが、心の豊かさは失われた様に思われます。七代目が若かりし頃、六代目はあまりにも厳しい環境のため、窯を継がなくても良いと言ったそうです。そうした厳しい生活の中にあっても心の豊かさを見いだした六代目の生き方に私は共感しております。
ニシン鉢がベルギーのブリュッセル万国博でグランプリを受賞して今年でちょうど50年になります。今の世の中はあらゆる面で大変厳しい時代を迎えていますが、厳しくともプラス志向で身を慎めば、心も健康になり実りも多い様に思われます。これからも会津の冬は「宝物」と思い、厳しさを楽しんでいきたいと思います。

(宗像窯八代目当主の宗像利浩さん)平成20年12月9日地元朝刊掲載