朴念仁の戯言

弁膜症を経て

会津に生きる №24

熱海で過ごした私の体は、発症当時から比べれば、信じ難いほど元気になっていた。
平らなところでなら、車いすを一人で操ることができるし、左の腕も役に立つ。一時は痛みに負けて、手も足もいらないと思ったこともあったが、今は心から切断しなくて良かったと思っている。
知覚は鈍いが、本も支えることができる。車いすのブレーキもはずせる。一人でタオルを絞るコツも覚えた。顔も洗える。
そして何よりも、自力でおしっこが出たとき、私が初めて、生きていけると思った瞬間だった。うれしくて、涙が止まらなかった。
会津の自室には、車いす用のトイレと洗面所を作ってもらった。
時間ごとに、そのトイレに座る。尿意がなくても、時間を決めて必ず座る。それが排尿促進、尿管回復のための必須の条件だと信じて、熱海でも実行してきた。自力で排尿、排便ができる、これ以上の幸せがあるだろうか。
体のしびれは取れないが、これが今の私そのものである。私はもう、この体をのろったりしない。苦痛に顔を歪(ゆが)めたりもしないつもりだ。死をも望まない。
私もつらかったが、長年休みなく痛めつけられてきた、この手や足のほうが、もっとつらかっただろうと思う。これからは、この体と折り合いをつけながら、仲良くやっていきたいと思っている。
    ◇
父と母からは、週に一度必ず連名の手紙が届いた。母の、のびやかな美しい文字と、数学が専門らしい、数字のような几帳面な父の文字が並ぶ手紙だった。
昭和51年3月14日、「こちらみんな変わりなし」との父母からの手紙を枕の下において休んだ深夜、枕元の電話が鳴った。父急死の知らせだった。
震えが止まらなかった。深夜3時、熱海を発った。夜明けまで待てなかった。東名高速から東北道に入り、郡山から国道49号に入った。当時、磐越道はまだできていなかった。100㌔以上で走っています、と言われたが、こんなに遅く感じられる車は初めてだった。
心も体も固まったまま、猪苗代の志田浜まで来たとき、正面に磐梯山が見えた。両手を広げて私を待つ父の姿に見えた。
悲鳴のように磐梯山に向かって父を呼んだ。磐梯山は父だった。それまで耐えに耐えてきた悲しみが堰(せき)を切ったようにあふれ、磐梯山に取りすがるように泣きじゃくりながら、父を呼び続けた。
午後1時、家に着いとき、父はすでに冷たくなっていた。父のきれいな白髪だけが、なでると生前のままの柔らかさで、私を待っていた。
父の命を縮めたのは、私だった。私への不憫(ふびん)さが、父の命を縮めたのだ。寡黙な、愛情表現の下手な、優しい父だった。後悔ばかりが胸を締め付けた。63歳だった。
父は、車いすの私が生きていけるように、バリアフリーなどという言葉のない時代に、バリアフリーの家を造ってくれていた。
私は、5年間を過ごした熱海の生活に別れを告げて、会津に戻った。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月某日地元紙掲載)