朴念仁の戯言

弁膜症を経て

人生をつむぐ

1時間以上歩いたころ、営業しているドラッグストアを見つけた。なかに入って、コーヒーを飲んだ。コーヒーは沸かしなおしで、黒くて苦く―—薬みたいな味がした。まさにわたしが飲みたかったものだった。すでにほっとした気持ちだったが、今度は幸せな気分になってきた。一人でいられることの幸せ。外の歩道を照らす夕刻間近の暑い日ざしや、葉が茂り始めたばかりの木の枝がわずかな影を投げかけるのを眺めることの。店の奥から響く、わたしにコーヒーを出してくれた男がラジオで聞いている野球中継の音を耳にすることの。アルフリーダについて書くつもりの物語のことを考えていたわけではない―—特にそのことを考えていたわけではない―—自分が書きたいものについて考えていたのだ。だが、それは物語を構築していくというよりは、宙からなにかをつかみだすのに近いように思えた。群衆のどよめきが、悲しみに満ちた大きな心臓の鼓動のように聞こえてきた。心地よい型どおりの音の波、その遠い、ほとんど非人間的な賛同と悲嘆。

それが私の望んでいたもの、それがわたしが留意せねばと思っていたこと、それこそわたしが送りたいと思っていた人生だった。

アリス・マンロー著「家に伝わる家具」より

 

お隣の独居老人 覚悟の旅立ちか

一昨年の年の暮れ、お隣の独居老人が救急車の要請や警察、市の福祉課職員の呼び掛けにも応じないので、ドアの強制解除となった。
最悪の覚悟をしていたが、生きていてほっとした。
しかし誰が見ても栄養失調と分かるので、「病院に」と言っても、こたつ布団にくるまって断固拒否。
「本人が行かないと言っているのを強制はできない」と解散となった。
放っておけない私は、部屋に山のようになっているごみを4人がかりで半日かけて撤去した。
温かい飲み物、次に食べ物と運んで、次第に打ち解けるようになっていった。
昨年は、春と秋の除草作業にもその老人は参加するほどになった。
しかし今冬の寒さのせいか、また回覧板が滞るようになった。
1月は管理人さんと私で合わせて16袋のごみを捨てた。
2月末、「○○さん」と声を掛け、ドアを開けても返事がない。
部屋に行ったら倒れていた。
脈をと思ったが、冷たかった。
警察に通報し、3日前に死亡とのこと。
事件性はなく餓死だという。
食事を取らなかったのは覚悟の自殺なのか。
合掌した。

福島市の小田秀子さん64歳(平成30年3月22日地元紙掲載)

 

安倍一強とおもねる官僚

森友学園に対する国有地の破格な売却をめぐり、財務省の決裁文書改竄問題が政局を揺るがしている。
犯罪になるようなことを、なぜ財務官僚が行ったか。
その背景について、中央省庁の現役やOBの官僚に話しを聞くと、首相官邸と官僚の歪んだ関係が浮かび上がってくる。
安倍晋三政権は2014(平成26)年、内閣人事局を設置し、政治主導のためとして各省庁の審議官クラス以上、約500人以上の人事権を握った。
安倍政権が「一強」となって長期化、首相官邸から指示や命令が下りてくる。
官僚は行政のシンクタンクの役割を担っているはずだが、それが麻痺し、首相官邸に唯々諾々と従う傾向が強まってきているという。
そして、首相官邸に逆らったり、にらまれたりしたら官僚として出世できないし、排除される恐れもある。
官僚は今、「萎縮」するばかりで、首相官邸の意向を「忖度」し、「おもねる」風潮が強まっている。公文書の改竄は、そんな中で起きた。

財務省が改竄し、削除した主なものに、首相の昭恵夫人の関わりを示す部分がある。
財務省が改竄を始めたのは、首相が「私や妻が関係していたということになれば首相も国会議員も辞める」と表明した直後からだとされる。
首相官邸のトップの夫人が記述されている原本はまずいとの判断が働いたのであろう。
改竄と並行して佐川宣寿理財局長(当時)は、土地売却への政治の関与を否定、「資料は廃棄した」「適正な取引」など答弁し続け、国会や国民を欺き続けた。その論功行賞か、佐川氏は「適材適所」だとして国税庁長官に起用された(9日辞任)。

首相の親友である人物が設立した加計学園獣医学部をめぐっては、「総理のご意向」文書が問題になった。この文書の存在を文部科学省の事務方トップである次官だった前川喜平氏が証言した。
すると、前川氏の私的行動まで新聞にリークされた。
首相官邸が、逆らう前川氏を貶めるためだったとされる。

南スーダンへの国連平和維持活動(PKO)でも文書問題が起きた。
首相は派遣した自衛隊に武器使用を可能にした「駆け付け警護」を新任務として付与した。
宿営地近くで「戦闘」が行われていると記された現地からの「日報」を「廃棄した」としていたが、実は防衛省内に残されていたことが発覚した。
首相が指示した新任務の危うさを隠す意図が、防衛官僚にあったのではないかとされている。

首相が「働き方改革」の目玉とした、裁量労働の対象拡大をめぐる厚労省のでたらめなデータも問題になったばかりである。

一強官邸に、「国民全体の奉仕者」であるべき官僚がおもねる。
改竄の真相究明と同時に「政と官」のこのおかしな関係にメスを入れなければならない。

※元共同通信社編集局長の国分俊英さん(平成30年3月18日地元紙「日曜論壇」より)

 

「政と官」のおかしな関係は改善されたのか。
モリカケ問題の真相は究明されたのか。
官邸が処方した時間という忘れ薬に毒されないよう、国民は忘却することなく、監視怠りなく、己がやり方で一人一人が事あるごとに世論に訴えていかなければ、日本の未来を担う子どもたちは大人の嘘を、言い逃れできる罪を正当と見なし、やがて社会は善を隅に追いやり、悪を一段崇めて必要悪として染まっていくことだろう。(朴念仁)

 

クリスマスとは

クリスマスとは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。
11月ともなれば街中にキャロルが流れ、電飾に輝くツリーが人々の目を引きます。
キャロルの中でも、一番人々に愛され、歌われているのは、「静けき真夜中」ではないでしょうか。

ところが、この歌がいつ頃、誰によって作詞、作曲されたかを知る人は、案外少ないようです。
私も、この度、クリスマスについて書くようにと言われて勉強しました。

それは今から200年ほど前のクリスマスの夜のことでした。
オーストリアのある小さな町の主任司祭ヨゼフ・モールは途方に暮れていました。
教会の古びたオルガンは、もはや音を出さないほど壊れてしまっていたのです。

深夜、ミサに信徒たちが集まってくる時間は近づいていました。
オルガンなしで歌える歌を新しく作ろうと考えた司祭は、数日前に生まれたばかりの幼な子を祝福するため訪問した家族を思い出したのです。
寒さから守るために、産着にくるまれた幼な子と母親の姿。

すると、どうでしょう。
歌の言葉が天から降ってきたかのようにモールに与えられたではありませんか。
出来上がった歌詞を持ってモールは近所の音楽教師である友人、フランツ・グルーバーの家に駆け込み、ミサの直前に、ギターでも歌える「静けき真夜中」が完成したのでした。

苦しみの中、友情に助けられて生まれた聖歌は、瞬く間に世界中に広まりました。
一方、その作詞作曲のエピソードは、160年もの間、知られていませんでした。

それはちょうど、貧しき中で、人々に知られることなく生まれ育ったキリストの誕生を祝う歌としては、誠にふさわしいものだったと言えるのではないでしょうか。

※シスター渡辺和子さん(平成27年12月19日心のともしび「心の糧」より)

 

クリスマスの訪れ

キリストが12月25日に生まれたという記録は、どこにもありません。
その昔ローマでは12月24日を「冬至明け」の日とし、太陽神の祭礼の最後の日として祝ったと言われています。
従って、その翌日25日は、太陽が活力を増し始める日でした。

その土地の伝統を大切にした初代キリスト教が、夜の一番長い冬至の後に、この世に光をもたらす神の子、キリストの誕生を祝う日としてもおかしくないでしょう。

今日、教会は、そのキリストの訪れを「待降節」と呼んで約4週間過ごします。
クリスマスリースと呼ばれる丸い輪を作り、それに4本のローソクを立てるのです。
第1週には1本、2週目の日曜日には2本目と、次々に火がともされて、主の訪れが徐々に近づいていることを示すのです。

また、主がおいでになる道が歩きやすく、平らであるように、人々は自分の心から罪を清め、善行に励むようにと勧められます。
この待降節の間は、特にミサの中でも「主の道をまっすぐにせよ」(マタイ3・3)と荒野に叫んだ洗礼者ヨハネの姿が福音で読まれます。

一方、街でもクリスマスの訪れを待つ人々が溢れるのです。
ツリーには豆電球が点滅し、キャロルが流れ、店という店には商品が溢れ、主の訪れには無関心の人々が、ひたすら、いかにして25日を過ごすかと、パーティー、プレゼントに心を奪われています。

このような喧騒に流されることなく、主の訪れの真の意味を静かに思いめぐらす一人でありたいと思います。
一番夜の長い時期に、暗闇を照らすために来給う主を、心静かにお迎えしましょう。
主を一番お喜ばせるプレゼントをたずさえて。
それは、私たちが相愛し、許し合う心ではないでしょうか。

※シスター渡辺和子さん(「心のともしび」平成26年12月10日の心の糧より)

 

かたくなだった親に頼らぬ人生

昨年2月、生まれて初めて入院、手術をした。

いよいよ手術時刻が迫ってきた。
背骨に部分麻酔をし、腰から下は感覚を失い、意識もやや混濁してきたその時であった。
わが姉妹が現れて、口々に「兄貴も私たちの仲間入りだね」とほくそ笑んでいるではないか・・・。
手術は進み、「胸は苦しくないですか」「気分は悪くないですか」と女性スタッフの声が心地よく耳元をくすぐる。
そしてその時であった。
わが父母が、部屋の片隅に立っているように見えた。
その顔は慈愛に満ちている。

私はこれまで、人生の大事は自分で決めてきた。
進学、就職、結婚、住宅新築、そして再婚の決断も。
父母は私の決断がうれしかったのだろうか。
寂しくはなかったのか。
もう少し甘えるところがあっても良かったのではなかったか。
「言いたいこと」が多くあったに違いない。
それを言わずに、静かに見ていてくれたことを初めて知った。

病室に戻り、かたくなだった自分を恥じ涙をぬぐった。

福島市の渡辺武房さん75歳(平成30年3月3日地元紙掲載)

 

質素な中に無限の可能性

冷蔵庫もない節電生活で注目されている元新聞記者の稲垣えみ子さん。
近著「もうレシピ本はいらない」(マガジンハウス)で、自分で作るご飯、みそ汁、ぬか漬けといった「早くて安くてうまい」食事を心から楽しむ暮らしを軽妙洒脱な文章でつづり、「質素な中に無限の可能性があります」と語る。
稲垣さんは、3日に1回玄米を鍋で炊いておひつに保存し、みそ汁、干し野菜や厚揚げなどでおかず1品をささっと作る毎日を送っている。
「ご飯の甘さ、干し野菜の凝縮されたうま味を味わい尽くしています」
会社員時代、特に若い頃は食べ歩きしたり、山ほどのレシピ本や多種多様な調理道具、食材を取りそろえ、ギョーザの皮や手打ち麺まで作ったりした。
それが40代を迎える頃、「こんな浪費生活はいずれ行き詰まる」と思い、衣食住にお金を注いできた生き方を見詰め直すように。
ライフスタイルの変革を後押ししたのが、東京電力福島第一原発事故を機に始めた節電生活。
掃除機、テレビ、エアコンなどの家電を手放してみたら止まらなくなり、ガス契約もやめた。服は手洗いし、ほうきで掃き、銭湯に通う。
「今必要なのは『食の断捨離』」ときっぱり。
経済成長の中で、洋服や家具を捨てる断捨離がブームになった。
「でも食だけが忘れられている。珍しい、おいしい味を求めて、食はどんどん複雑に見た目も過剰になった。生きるための手段から遠ざかり、際限のない娯楽、競争になった」と指摘。
「でも家庭料理はワンパターンでもいいのでは。自分でご飯と汁をつくれば、お金も時間もかからない。毎日違うごちそうを作らなきゃいけない、と思うから苦しくなってしまう」と力を込める。
現在、東京都内の築50年の賃貸ワンルームマンションに1人暮らし。
電気代は電灯、ラジオ、パソコンと携帯電話などで月150円台、食費は1食200円、という生活だ。
「お金が少なくても幸せになれる、と実感している。いい家が欲しい、もっと稼ぎたい、評価されたい、という欲望にはきりがない。老後で一番必要なのは友人や近所の人との助け合い。世のため人のために生きれば、回り巡って自分も幸せになります」と爽やかな笑顔を浮かべた。

※平成29年12月7日地元紙掲載