朴念仁の戯言

弁膜症を経て

クリスマスの訪れ

キリストが12月25日に生まれたという記録は、どこにもありません。
その昔ローマでは12月24日を「冬至明け」の日とし、太陽神の祭礼の最後の日として祝ったと言われています。
従って、その翌日25日は、太陽が活力を増し始める日でした。

その土地の伝統を大切にした初代キリスト教が、夜の一番長い冬至の後に、この世に光をもたらす神の子、キリストの誕生を祝う日としてもおかしくないでしょう。

今日、教会は、そのキリストの訪れを「待降節」と呼んで約4週間過ごします。
クリスマスリースと呼ばれる丸い輪を作り、それに4本のローソクを立てるのです。
第1週には1本、2週目の日曜日には2本目と、次々に火がともされて、主の訪れが徐々に近づいていることを示すのです。

また、主がおいでになる道が歩きやすく、平らであるように、人々は自分の心から罪を清め、善行に励むようにと勧められます。
この待降節の間は、特にミサの中でも「主の道をまっすぐにせよ」(マタイ3・3)と荒野に叫んだ洗礼者ヨハネの姿が福音で読まれます。

一方、街でもクリスマスの訪れを待つ人々が溢れるのです。
ツリーには豆電球が点滅し、キャロルが流れ、店という店には商品が溢れ、主の訪れには無関心の人々が、ひたすら、いかにして25日を過ごすかと、パーティー、プレゼントに心を奪われています。

このような喧騒に流されることなく、主の訪れの真の意味を静かに思いめぐらす一人でありたいと思います。
一番夜の長い時期に、暗闇を照らすために来給う主を、心静かにお迎えしましょう。
主を一番お喜ばせるプレゼントをたずさえて。
それは、私たちが相愛し、許し合う心ではないでしょうか。

※シスター渡辺和子さん(「心のともしび」平成26年12月10日の心の糧より)