朴念仁の戯言

弁膜症を経て

命の発言権

子どもたちの夏休みも終わりですね。お母さん方の暑くて忙しかった日々も、ほんの少しホッとできるのではないでしょうか。
8月になると例年メディアはこぞって「戦争」をテーマにした、いろいろな話題を様々な角度による切り口で取り上げます。「戦争」はまるで、「8月には外せないコンセプト」のように、新聞、雑誌の紙媒体からテレビなどの放映媒体まで一斉に報じるのが習慣になって久しいと感じます。
今年は特に「戦後70年の節目」という言葉を冠し、その勢いは盛んでした。勢いの内側には、一連の政治の流れに対する国民の不安や、世論も横たわっていると思います。
私は、こうしたテーマは「8月」の、つまり「終戦記念日」にスポットを当てての、そのシーズンのみの報道といった扱いに終わらせず、「季節」にも「記念日」にも関係なく絶えず取り上げられ、語られ、考えられていかなくてはいけないと思います。
8月の終わりとともに戦争についてのメッセージが潮が引くように消えていくことがないようにと願わずにはいられません。
先日、じきに90歳を迎える読者の方とお話しした際、彼女が8歳の時、12歳年上の長兄が出征する日のことや、その後について伺いました。
「父は凛と背中を伸ばし、お国のため男子の本懐を遂げるようにと言いましたが、母は小さな声で、お国のために死なずに生きてお母さんのところへ必ず帰って来て、と兄に告げるのを聴きました。兄の戦死の報が入った時の、畳をかきむしって号泣した母の姿は、昨日のように鮮明です」
そう言いながら目頭を拭いました。彼女の母親の思いは、すべての母親の願いだったでしょう。
私は中学生の時、母に訊ねたものです。
「母さん、戦争の時、どうして大人はみんなでイヤです!と言わなかったの?」
すると母はため息するように力なく答えました。
「言えない時代だったの。それに日本は絶対に負けないんだと信じ込まされていたし…」
母の言葉が何とも不甲斐なく聞こえて腑に落ちず、その時に「私はイヤなことはイヤ、おかしいことはおかしいと言える大人になろう」と心に誓ったことを覚えています。その頃、毎日のように戦争について考えた記憶は体の深くにしっかり根を下ろしていたらしく、私が初めての出産で男の子を産んだ直後に、子どもの産声を聴きながら何よりもまず一番に思ったのは、「この子をゼッタイに戦争にとられまい!」という覚悟に似た決意でした。あの時に「突如」として訪れた込み上げるようなその不意の思いは、理屈を超えた「母親の本能」としか言いようがありません。
命がけで命を産み出す母たち、女たちは、命について一番の発言権、決定権を有している存在だと私は思っています。政治の場で醸し出される男たちの空気の、なんと命の実存から遠くしらじらしいことでしょう。
命を産む女たちに、いささかでも未来の子どもたちへの不安を抱かせてはなりません。女たちの顔が曇る時、「女性が輝く…云々」はあり得ないのです。

※詩人・エッセイストの浜文子さん(平成27年8月30日某宗教新聞掲載「親子によせる詩ごころ」より

 

霊になった上皇を慰める

西行

平安時代末期の1156年、元天皇の崇徳(すとく)上皇と弟の後白河天皇による争いから、天皇を支える摂政、関白を出していた公家の藤原氏武家の源氏と平氏がそれぞれ分裂して内乱の「保元(ほうげん)の乱」が起きました。
呆気なく敗れた崇徳は今の香川県に送られました。京都に戻りたいとの願いはかなわず、恨みながら亡くなりました。
軍記物語「保元物語」には崇徳が爪も髪も切らず、生きているときから天狗の姿になり、没後に火葬された煙が京都にたなびいたと記されています。
死して怨霊になったといわれ、和歌を通じて親しかった歌人西行(1118〜1190年)は崇徳の霊を慰めるため、今の香川県坂出市の崇徳の墓を訪ね、鎮魂の歌を詠みました。「保元物語」は西行の歌で墓が三度震えたと伝えます。
西行像が立つ岡山県玉野市の渋川海岸は四国に渡る前に立ち寄った地。歌集「山家集」には船が出ず、しばらく滞在したときの歌が残ります。
西行は、元は佐藤義清(のりきよ)の名で朝廷に仕える武士でしたが、20代で僧に。二度に及ぶ東北への旅などを続けた歌人として知られ、没後の勅撰和歌集新古今和歌集」には最多の94首が載ります。
一時は栄華を極めた平清盛は同い年で親交があり、鎌倉では平氏を滅ぼした源頼朝にも会いました。
西行が生きたのは、武士が次第に力を持ち、栄華を極めた平氏が一転して滅亡し、訪ねたことがある平泉(岩手県)の奥州藤原氏も滅び、頼朝の武家政治が始まろうとしていた激動の時代でした。
移り変わっていく世を見ていた西行は乱世も戦いも歌に詠みました。
江戸時代の俳人松尾芭蕉ら、そして、その後の文学にも大きな影響を与えました。

平成27年7月11日地元紙掲載「歴史さんぽ」より

 

絶望 極寒のシベリア 

おい、おかしいぞ。俺たちは、だまされたのか-。
太平洋戦争が終わり、二カ月が過ぎた昭和20年10月。朝鮮でソ連軍の捕虜となった久保田親閲(しんえつ)さん(86)=田村市大越町=ら帰還兵を乗せた船は朝鮮・興南の港から一路、日本を目指していた。ところが、どうだ。南に向かうなら右側に見えるはずの大陸が左側に見える。船内は騒然となった。出航前、ソ連兵は確かに「ヤポンスキー、トウキョウダモイ(日本人は東京に帰る)」と言っていたはずなのに。
着いた先は夢にまで見た母国ではなく、極寒のシベリアだった。

シベリア南東部のスーチャン捕虜収容所では、過酷な労働が待っていた。
一日8時間、休む間もなく石炭掘りをさせられた。食事は、一食につき黒パン200㌘と馬の餌のコーリャンで作ったスープだけ。板の上に干し草を敷き、一枚の毛布に3人でくるまって寝た。冬のシベリアは特にこたえた。目覚めると、隣に寝ていた仲間が冷たくなっていることもしばしば。収容所に入った2,000人のうち、200人ほどが一冬で亡くなった。
遺体を埋葬するのも、仕事の一つになった。「軽作業」扱いで、けがや病気を患った仲間が担当した。凍った地面を二、三日かけて掘り、裸のまま埋めた。「極限状態になると、悲しいとか悔しいとかいった感情が消えてなくなるんだ。他人のために涙を流すことができなかった」

栄養が偏り、大半が壊血病にかかった。皮膚や粘膜、歯茎から出血し、貧血などの症状が現れた。風呂はない。体を洗えないためシラミにも悩まされる。発疹チフスが相次いで発生した。
まだ10代後半。「母ちゃんが恋しかった」。頭に浮かぶのは温かな味噌汁とご飯。腹一杯食べたかった。ただ、それだけだ。逃げようとした仲間は全員、ソ連兵に殺された。じっと耐えるしかなかった。
目の前に広がる青春は鉛色をしていた。

平成27年6月27日地元紙掲載「思いつなぐ~戦後70年 ふくしまの記憶~」より

 

頑固な決意

電車のシートに掛けて、辺りを見回すと、なんと多くの人が携帯電話やスマホの画面をじっと見ていることでしょう。
先日は私の隣に掛けていた4人家族全員がスマホを操作し、それぞれの目の前に表れるものに没頭していました。30代後半のパパとママ、そして子どもはやっと4、5歳になったほどの子と、小学2、3年生…といった年恰好の二人。
私など携帯電話というものを持ったこともなく、この先も持つ気は全くなく、パソコンもせず、インターネットを駆使して何でも情報を身近に引き寄せることができるという生活とも無縁の日々。これからも、この暮らしは変わらないだろうと分かっているので、私の目に映った4人の家族は「全く私の想像できない感覚の中で、家族・親子をやっていく人たち」と映りました。
二人の子も、指先を実に滑らかに使い、画面をなでたり、つついたりするような動きをしながら夢中です。
40分以上の時間を、全く無言のままそれぞれの手元の画面に没頭している家族に私が抱いた不思議な感覚、違和感いっぱいの光景が、もし居間でも旅先でも毎回繰り広げられていくとしたら、家族が家族として生き合っている実感というものは、どのように培われていくのだろうと、ふと思いました。
別の日、レストランで隣のテーブルに着いた家族も、やはりそれぞれがずっと料理の皿の脇にスマホを置き、眺めていて不思議だったのを思い出しました。
IT機器が出回るまでは、電車の中で新聞、本などを読む人が大半でした。そして女性たちは季節によって編み物(レース編みなども)をしている姿も、そこ、ここに見られたものです。
おなかの大きい女性が、小さな帽子や靴下を編んでいると、女性の周囲にいる乗客の目は少しずつ手元に手繰り寄せられ、小さく動く毛糸玉など見詰めながら、それぞれに心の内が優しく豊かなものに包まれたものです。
先日、30代のママの方々との集まりで、昔の母たちが電車の中で編み物をすることがあったと告げると、「えーっ! 何ですかそれ?」「どうして、わざわざ電車の中で⁉」と、彼女たちの驚く様子に、こちらが驚きました。昔の女性たちは、〝手持ち無沙汰〟のひとときを手仕事で埋めるという発想があり、その延長が車内の編み物だったのでしょう。
私は今の時代に母親がときどき電車の中で絵本を読んで聞かせている姿を見掛けると、とても心が潤い、幸せな気持ちになります。席を立って、「お母さん!頑張って。偉い、偉い」と伝えたくなります。
私は小さい子どもにはケータイもスマホも与えることに大反対です。なぜならケータイとスマホを与える前に互いの顔を見、あれこれ会話し、教え、伝えなくてはならないこと、家庭で親が実生活の中でやらなければいけないことがいっぱいあります。親は、自分たちが子どもの時分に「必要だった」と記憶しているモノ以外は早々に子に与えていけないと感じます。現代は、子育ての周辺でそのような頑固な決意も必要なことがあふれていると感じます。

※詩人・エッセイストの浜文子さん(平成27年5月24日某宗教新聞掲載「親子によせる 詩ごころ」より)

 

業と信念の作家人生

車谷長吉氏が突然亡くなったと聞き、驚いた。
食べ物を喉に詰まらせた窒息死だというから、突発的な事故だったのだろうか。
あの強烈な文章がもう読めないのかと思うと、今後の日本文学がひどく退屈に感じられる。
こんな作家はもう二度と現れないだろう。
大家とも名人とも違う。職人でもない。根っからの異色の人であり、一種の怪物であった。
1990年代半ばに、「鹽壺の匙」をはじめとする彼の作品を初めて読んだときの驚きと戸惑いは、今も生々しく記憶している。おのれと世間に対する呪詛のような激しい嫌悪と容赦のない断罪が、まがまがしいエネルギーとなって充満していた。同時に「言うた」や、「併(しか)し」「迚(とて)も」など反時代的な言葉遣いが、知性と理性に基づく近代の小説言語とは全く異なる地べたのリアリティーを感じさせた。
たとえば、売文の徒となった息子をひたすら非難し嘆く老母の方言交じりの説教からなる「抜髪」という短編がある。「文章を書く」「小説を書く」という行為に、「阿呆(アホ)」で「無能者(ナラズモン)」で「甲斐性なし」の浅ましい偽善と虚栄を母は見いだす。
車谷長吉という作家が自らの中心に据えていたのは、作家の誇りとは正反対の、羞恥と汚れの自覚であった。そこに強さがあった。
泥くさい私小説と言ってしまえばそれまでだが、そう書くより生きようがないという抜き身の刃物を携えているような覚悟があった。
一見、私小説を純文学の中心に据えてきた日本文学の伝統と近しいように思えるが、そんな文士的な伝統への甘えを憎悪し峻拒している苛烈さが、むしろ彼の異色さを際立たせていたのである。
一方、川端康成文学賞を受賞した「武蔵丸」のように、異形の想像力が火花のようにはじけている短編もたくさんあって、そういう方面が実はこの作家に潜んでいる可能性だったのに、十分に評価されなかったきらいがある。
最高傑作「赤目四十八瀧(あかめしじゅうやたき)心中未遂」が98年に直木賞を受賞したときから、彼と文学にとって、ある不幸なねじれが生じたようだ。読者を満足させるようなエンターテインメントを注文に応じて書くような生活がこの作家にできるわけがない。一種の遁世者の姿勢が、それを契機に固着してしまった気がする。2004年に実名の私小説がトラブルとなり、ついに彼が私小説作家廃業宣言をしたことは、さらに決定的な転機となった。
この度の急逝は全く意外だったが、この10年ほどの車谷氏にはどこか余生を送っているような気配がうっすら感じられた。晩婚によって得た家庭生活は幸福だったと思うが、作家としては寂しかったのではないか。いや、それもまた彼流の断固たる放下だったのではあるまいか。だとすれば、自らの業と信念を貫いた見事な一生だったと言わなければならない。
  ×   ×
車谷長吉さんは17日死去、69歳。

※文芸評論家の清水良典さん(平成27年5月23日地元紙掲載)

 

兵隊は消耗品だった

1938年と43年の二回召集され、中国やビルマ(現ミャンマー)などに従軍した。私は一兵卒だったが、弟の収吾は士官学校を出た少尉で、同じ歩兵第128連隊に所属してビルマにいた時に亡くなった。軍隊は「兵隊は使えるだけ使え」という主義で、ほんまの消耗品だった。
弟が亡くなったのは44年。ビルマ北部モガウンの守備に当たっていた時だった。6月の雨の降る夜、別の場所にいた私のところまで訪ねて来て「兄さん、卑怯な真似をしても内地に帰ってください。絶対に生きて帰ってください」と言ったので、戦死を覚悟しているんだなと思った。
モウガンでは、ビルマからインド北東部の攻略を目指して大失敗した「インパール作戦」の敗残兵も見た。当時は雨期。増水した川を渡ることができず、溺れて死ぬ人が多かった。みんな疲れた様子だった。
モウガンに英軍が攻めてきた時、弟の部隊も全滅したと知った。その後、私がいた場所も危険な状況になったので、南に向かって退却することになった。
負け戦は悲惨なもの。補給路を断たれて食料がない。爆撃で転覆した汽車から米俵が散乱し、コメをつかんだまま日本兵が死んでいるのを見た。赤痢で、血便を垂らしていた。自分はそのコメを拾い集めて食べた。
食料がありそうな集落を探し、強奪したこともあった。やみくもにジャングルに入っても食べ物はなく、ほかに方法がなかった。
逃げている間も航空機の機銃掃射を受けた戦友は即死。弾が土に突き刺さる時は「ピシュー、ピシュー」と音がする。戦車と戦闘した時も戦友が顔を上げた瞬間、機関銃の掃射を顔に受けた。
軍は兵隊が死んでも令状で集めて補充すればいいという考え。人海戦術はやらないことだ。犠牲者を増やすから。歩兵がえっちらおっちら行ってもだめだ。

(注)ビルマ戦線 太平洋戦争の開戦から間もなく、タイに進駐していた日本軍が英国領ビルマに侵攻し、1942年5月にほぼ全域を攻略。44年のインパール作戦失敗後は連合国軍の反撃を受け、45年5月にラングーン(現ヤンゴン)が陥落した。

ビルマ戦線に従軍した大阪府枚方市の谷川順一さん(98)(平成27年4月16日地元紙掲載「語り残す 戦争の記憶」より)

 

苦しみ背負う人 忘れないで

汚染された魚介類で神経障害を発症した水俣病患者を描いた「苦海浄土(くがいじょうど)」で知られる作家石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さん(88)=熊本市=が、共同通信のインタビューに応じた。水俣病は5月1日で公式確認から59年。被害の全容はつかめないまま、患者の高齢化が進む。
「苦しみを背負ってあの世に行こうとしている人がいることを忘れてはいけない」
石牟礼さんは訴える。

-55年ほど前、最初に水俣病の患者を見た時を鮮明に覚えている。
「夕暮れ、結核の長男が入院していた水俣市立病院に、真っ白な包帯で頭を包み、ゆっくり歩く人がいた。何の病気かと思ったら『奇病の病人』と噂になっていました」

-許可を得て病棟に入ると、「苦海浄土」に登場することになる患者の釜鶴松さんがいた。
「私は見知らぬ人間でしょ。ベッドに寝ていた釜さんは、漫画でパタッと顔を隠した。『しまった』。自分が(健康な)人間である嫌悪感に耐えられませんでした」

-患者は各地で出ていた。
「どの家も生活できなくなり、裁判や原因企業であるチッソとの交渉に入った。患者たちは、チッソ社長なら偉いから人徳があって分かってもらえると思っていた。ところが、長い間、多忙を理由に面会を断られ、偉い人でも人徳があるとは限らないと知ったんです」

-解決は遅い。
「59年という年月は人間の一生ですよね。私は書いたり話したりできるけど、それでも一生は語り尽くせない。(発達障害の出る)胎児性患者や小児性患者の中には、語ることさえできない人もいる。患者が余りに多く、チッソも国も(被害の全容が)分からないのでしょうが、一人一人に聞けば、生々しい状況が分かるはずです。でも、行政は全然調査をしない」

-最近では東京電力福島第一原発事故、沖縄の基地問題が…。
「日本は近代、大企業中心、経済第一の社会が制度化されてきた。中央志向とも言われる。水俣の苦しみと同じです」

水俣病患者の多くが高齢化している。
「(語り部として活動していた)水俣病患者の杉本栄子さんが亡くなる前に来ました。『全部許すことにした。チッソも、私たちをいじめ、差別した人や世間も許す。その代わり、水俣病の苦しみを全部あの世に持って行く』と言う。苦しみを知っていたから、よくそんな気持ちになられたなと感じた。現代に生きるわれわれが許される。それでいいのかしら、と思いますね」

(注)水俣病 熊本県水俣市チッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を海に流し、汚染された魚介類を食べた住民らが手足のしびれ、視野狭窄などの神経障害を発症した公害病。1956年5月1日、公式確認された。当初は感染症の「奇病」と間違われ、患者や家族が差別され、補償を受けたり訴訟を起こしたりした人への偏見もあった。国は2015年3月末で全国約3,000人を患者認定しているが、今も新たな確定申請や賠償請求訴訟が続いている。新潟県阿賀野川流域)の昭和電工鹿瀬工場の排水が原因となった新潟水俣病(1965年5月31日公式確認)もある。

平成27年5月6日地元紙掲載