朴念仁の戯言

弁膜症を経て

霊になった上皇を慰める

西行

平安時代末期の1156年、元天皇の崇徳(すとく)上皇と弟の後白河天皇による争いから、天皇を支える摂政、関白を出していた公家の藤原氏武家の源氏と平氏がそれぞれ分裂して内乱の「保元(ほうげん)の乱」が起きました。
呆気なく敗れた崇徳は今の香川県に送られました。京都に戻りたいとの願いはかなわず、恨みながら亡くなりました。
軍記物語「保元物語」には崇徳が爪も髪も切らず、生きているときから天狗の姿になり、没後に火葬された煙が京都にたなびいたと記されています。
死して怨霊になったといわれ、和歌を通じて親しかった歌人西行(1118〜1190年)は崇徳の霊を慰めるため、今の香川県坂出市の崇徳の墓を訪ね、鎮魂の歌を詠みました。「保元物語」は西行の歌で墓が三度震えたと伝えます。
西行像が立つ岡山県玉野市の渋川海岸は四国に渡る前に立ち寄った地。歌集「山家集」には船が出ず、しばらく滞在したときの歌が残ります。
西行は、元は佐藤義清(のりきよ)の名で朝廷に仕える武士でしたが、20代で僧に。二度に及ぶ東北への旅などを続けた歌人として知られ、没後の勅撰和歌集新古今和歌集」には最多の94首が載ります。
一時は栄華を極めた平清盛は同い年で親交があり、鎌倉では平氏を滅ぼした源頼朝にも会いました。
西行が生きたのは、武士が次第に力を持ち、栄華を極めた平氏が一転して滅亡し、訪ねたことがある平泉(岩手県)の奥州藤原氏も滅び、頼朝の武家政治が始まろうとしていた激動の時代でした。
移り変わっていく世を見ていた西行は乱世も戦いも歌に詠みました。
江戸時代の俳人松尾芭蕉ら、そして、その後の文学にも大きな影響を与えました。

平成27年7月11日地元紙掲載「歴史さんぽ」より