朴念仁の戯言

弁膜症を経て

無意識の呼吸

今日は予定通りに休暇が取れ、庭先の、ほったらかしにしてあるミニトマトのジャングルのような枝ぶりを眺めながら物思いに耽っていた。
少し前まで頻繁に訪れ、庭内を優雅に舞っていた揚羽蝶の姿はそこにはなく、代わりに蟋蟀たちの鳴き声が深まりゆく秋の気配を私に伝えた。

数年前の出来事。
夫婦と思われる男女が私の職場を訪れた。
男はSだった。
Sとは大河ドラマ新選組!」が縁で知り合った。
「あれー、久しぶりですね、Sさん、痩せたんじゃないんですか」
「ちょっと内臓を…」
Sは言い淀み、冴えない表情を浮かべた。

「太れないんですよ、いくら食べても」
脇からSの嫁らしき女が口を挟んだ。
冴えない顔色のSとは対照的な女の表情。
Sは話を続けた。
「心房細動が出て不安なんですよ。カテーテルの手術をしても治まらないんです。救急車で4回運ばれました。昔から腰が悪いんですけど、それで腰に注射してもらったら急に動悸が始まって。その時が1回目の搬送。心臓が悪いと脊髄注射は良くないようです。運転中に苦しくなって近くの消防署に駆け込んで運んでもらったこともあります」
「えっ、4回もですか。それは大変でしたね。私も大病しました。同じく心臓です。弁を取り換えました。不安ですよね。その気持ち、良く解ります。私もそうでした」
「うちの姉と同じですね。手術は何時間掛かったんですか」
「12時間です。胸に電気メスを入れてパカッと開いて。身体への最大の侵襲行為と言われていますね」
手術に要した時間をそれとなく自慢気に話す私。
「ワーファリンは飲んでるんですか」とS。
「はい」
「私も飲んでます。物にぶつけるとすぐに紫色になって。ホウレン草を食べ過ぎて鼻血が出たこともあります」
Sは同類を得た喜びからか、笑顔を浮かべながらそう言った。
「そんなに食べたんですか」
「ええ、大好きなんです。朝、新聞見てたらバアッーと鼻血が出てびっくりしました。なんで鼻血が出るのか訳分からなくて。そしたら嫁に、あなた、昨日ホウレン草たくさん食べたでしょ、って言われて」
「それで病院行ったんですか」
「いえ、鼻押さえて止血しました」

「前のように動けなくなりました。疲れるんです。仕事でもパッ、パッ、パッと出来なくなりました」
Sの仕事振りが目に浮かんだ。
「おいくつになったんですか」
「57です」
「まだまだじゃないですか」
「そうですか」
「まだまだですよ。ストレスも心臓に良くないですから。大丈夫ですか」
「ストレス、ありますよー」
Sは背を反り気味にして、一段と声を高くして言った。
「そういう時はうまく躱して。心臓は感情に左右されますから。私も稀にドカッドカッと心音が鳴って、あれっと思う時ありますよ」
そんな話をしながら、最後はお互い大事にしましょうと言って別れた。

この時のSとの会話で呼吸の有り難さが思い返された。
寝ている最中、突然何かに起こされたようにいきなり目を覚ます。
と同時に、鼻と口にビニール幕が張り付いたような息苦しさが襲って来る。
急いで鼻を使って大気を吸い込んでも大気は満足に肺に届いて来ない。
鯉口のように口をパクパクさせても息苦しさは消えない。
闇夜が徐々に胸を圧し潰すような不安に襲われ、身体を起こし、不安を取り除こうと試み、救急車を呼ぶ機会をじっと見計らう。
幾夜、こんな目に陥ったことか。
呼吸が少しずつ楽になると、命がつながったことに安堵し、そしてその都度、呼吸の有り難さを思い知らされた。
無意識になされる呼吸と、見えない大気の存在。
生かされていることを肚の底から実感した。

某日、ノートルダム清心女子大学の名誉学長だった渡辺和子さんを紹介したテレビ番組で、ある一つの詩が映し出された。
心に残ったので書き留めておきたい。

 天の父さま
 どんな不幸を吸っても
 はくいき(吐く息)は
 感謝でありますように
 すべては恵みの
 呼吸ですから     (河野 進)

 

想いは届いたか

一昨日、亡くなったOさんに会った。
自転車を押したOさんが、突如、私の横に現れたのだ。
Oさんは、私が出会った頃の、男盛りのふっくらとした顔立ちで、身体全体が発光しているような白い輝きを纏っていた。

「何か俺に言いたかったのか」
Oさんはいつもの柔和な表情を顔に浮かばせて私に訊ねた。
「感謝の、御礼の言葉を伝えたかった」
私がそう言うとOさんは、
「そうか」とだけ言った。

その時、Oさんの建設会社の跡を継いだ息子は大丈夫なのだろうか、と一瞬脳裏をよぎった。
すると、Oさんはそれを見透かしたかのように、私の身体を通り抜けてその背後にある何かに視線を送った。
Oさんの視線に釣られて後ろを振り返ると、目の前にOさんの建設会社が立ち現れ、会社の駐車場には紺色のジムニーや白い乗用車10数台が駐車してあった。
それは会社が活況を呈していることを私に悟らせた。
心配するな、と言うことか。

そして、目が覚めた。

 

感謝の言葉

7月22日、Oさんが亡くなった。
享年72。
今朝のお悔やみの欄で知った。
突然の訃報に驚き、到頭来るべきものが来たかと虚無の風が体を通り抜けた。

人生の節目節目でOさんには感謝の言葉尽きぬほどお世話になった。
大学進学時、上京してのアパート探しと引っ越し。
大学中退後の帰郷。
またも懲りずに上京、今度は専門学校へ進学してのアパート探しと引っ越し。
またも中退後の帰郷。

車の免許を取得したばかりの頃、Oさんのセドリックを借りて高校時の同級生を乗せ、まちなかを得意気に運転していたらハンドルを切り過ぎて助手席側のドアを大きくへこませたことがあった。
そんな時もOさんは一言も非難めいたことを言わず、怒らず、許してくれた。
修理代なぞ微塵も要求することなく。

帰郷して車を必要としている頃、Oさんは私が乗りたかった三菱の、白の中古ジープを手配してくれもした。
セドリックの自損に懲りず、またも助手席側のオーバーフェンダーを電柱に派手にぶつけ、そのままの状態で乗り回していたジープを下取りにも出してくれた。

家族皆で和牛専門の高級料理店に何回も連れて行ってもらった。
ラーメン店には何回連れて行ってもらっただろう。

思い出せばもっと、もっとあるだろう。
本当に親身に、血の通った身内のように家族皆の面倒を見てくれた。
他人の心の痛みを我が事のように感じる人だった。

心底感謝しています。
安らかに、安らかにお休みください。
もう一度お会いしたかったです。
いずれまた彼岸でお会いする時、感謝の言葉を伝えします。

今は此岸からOさんへ、この想いよ、届け!
本当に本当にありがとうございました。

 

篩(ふるい)

今年3月に同級生Sが亡くなった。
数年間の闘病生活。
再々発の白血病だった。

今日、郵便局で同級生Aに会った。
Aは配送専門でトラックの中から声を掛けてきた。
「Eが死んだの知ってっか」
藪から棒にAは言った。
「なに!」
「去年の12月だ。ネットで名前検索してたら死んだって出てきた」
「なんで死んだんだ」
「わかんねえ」

職場に戻るとすぐにネットの検索窓にEの名とボクシングジムを打ち込んだ。
「元日本ランカー、Eさん死去」
どこの、誰それのブログの見出しが目に入った。
見出しをクリックしてブログの文字を追っていると、紛れもなくEの顔写真が現れた。
Eは現役を退いた後、ボクシングとフィットネスを兼ねたジムを経営していた。
貫いていたのか、中学生の時から変わらぬ夢を。
いつだったか、街中を走っているEに会った時のことを思い出した。
「明日は祖母の葬式なんだ」
「通夜の今日、走ってんの?」
「うん」
こいつは感情が乏しいのか、無慈悲な性なのか、その時はEを変わり者としか理解できなかったが、今なら分かる。
死は当たり前の事実。
人は必ず死に、死ぬことを知って生きている。

同い年の人間がこれまで何人亡くなっただろう。

篩。
農作業などで使う道具。
Eが亡くなったと聞いてこれが真っ先に浮かんだ。
誰もが人生の篩にかけられる時期があるのかも知れない。
俺はその時期を一度は越えた。

篩の、網目にぶら下がっている俺の姿を想像した。
力尽きたら落ちるしかない。
えい、やめろやめろ。
万有引力なぞに従ってられるか。
まだまだだ。
もう一度想像し直した。
足を引っ掛けてでも網目から這い上がる俺の姿を。
何度も。
何度でも。

 

母の日に なんにもしない それがうち

「母の日に なんにもしない それがうち」-。兵庫県篠山市立岡野小学校4年生の青木舞佳さん(10)の詠んだ俳句が、「第12回佛教大学小学生俳句大賞」の高学年の部で選考委員特別賞に選ばれた。
応募総数2万句を超える中での受賞。
「嘘はつけないし、普通に思ったことを書いた」という青木さんは、受賞報告を受けた後の下校はスキップをして帰ったといい、「びっくりしたけれど、めちゃめちゃうれしかった」と喜んでいる。

俳句の楽しさを、「五・七・五という限られた言葉数の中で良い句をつくることがおもしろい」と話す青木さんは、「うちでは母の日に何もしないけれど、お母さんには感謝している。何も言わずとも思っているだけで十分」ときっぱり。
「賞を狙うことはない。でも、もらえるものならもらいます」とはにかんでいた。

丹波新聞(平成31年3月26日配信)

 

今生の課題

蟲が身体に棲息するようになったのは何時頃からか。

蟲が動き始めると訳の分からない感情が湧き起こる。
些細な事に不機嫌になり、沸々と怒りを覚え、口を閉ざす。
そして、寄らば斬るのベールを纏う。
そのベールを払い除け、他人がズカズカと入り込めば、すかさず三白眼で睨み付け、角立つ物言いで追い払う。

些細な事柄に不機嫌な感情を覚えるのは我なりにそれなりの理由があってのことだが、客観視すれば些細な事象に違いなく、些細と認めた時点でそれを言挙げしている自分の卑小さも認められ、それが更に蟲の動きを活発にする。

昨日、身内との会話で蟲の動きを察知した。
身内は私の感情の機微に気付いたはずだが、素知らぬ風に見過ごした。
身内の、当の本人は露ほど思っていないだろう温かな寛容さに、蟲は静かに動きを止めた。

今生の課題一つは、この肚の蟲を治めることだと思い知れ。

 

二人の患者

また厄介な病を抱えてしまい、総合病院の消化器科に通う羽目になった。

診察予約の日、待合室に向かうと、外科室から出てきたばかりの男と移動用ベッドに横たわった婦人が目に入った。
もう一人、看護師のような病院服を着た、ずんぐりむっくりの婦人の姿もあった。
男は高校時分の友人Hだった。
Hの背中越しに手を回し、Hの左腕に触れて声を掛けた。
振り返ったHは驚きの顔を示し、「おっ」と声を上げた。

「よお、おふくろさんの診察か」
「ああ、半年に一遍の定期検査だ」
「立ち会いか。顔艶も良さそうじゃねえか」
「ああ、前は俺が顔を見せても反応しなかったが、最近じゃ俺のこと分かるようになった」
「そちらさんは?」
「施設の職員さん。付き添ってくれるから安心だ」
会話を聞いていたずんぐりむっくりの婦人が頭を少し下げた。
「おめえは何でここに」
安倍晋三と同じ病になっちまってな。定期診察だ」
「ストイックな生活してっからだ」
「ああ、寿命だよ」

寿命? 何とも頓珍漢なことを言ったもんだ。
死を目前にしての言葉じゃねえか。
知ってか知らずか、常に死が意識化されてるってぇことか。

Hは、横たわった母親にしばらく付き添っていたが、母親と施設の職員をその場に残していつの間にかいなくなっていた。

診察を終え、待合室でカルテが戻るのを待っていると左側から声が掛かった。
「今日はどうしたの」
振り向いて声の主を見たが、一瞬誰か分からなかった。
ややあって仕事で付き合いのある陶芸職人のM氏と認めた。
M氏の顔は、おたふく風邪に罹った子どものように膨らみ、以前の精悍な面構えは見る影もなかった。
「あれ、Mさんも診察ですか」
「いやー、胃にポリープができてしまって今度手術しなければならなくなって。今日は3件も回ったから疲れたよ」
「そうですか」
それ以外に言う言葉が見つからなかった。
看護師が私の名を呼ぶのが聞こえた。
「今度事務所に遊びに行ってみるよ」
M氏はそう言って立ち上がり、笑顔を見せた。
それまで気付かなかったが、M氏の脇には奥さんが慎ましげに控えていた。
「是非遊びに来てください。お大事にしてください」
カルテを手に放心気味に二人を見送った。

M氏は数年前に肺がんと診断され、県内の有名な総合病院で陽子線治療を受けた。
それ以来、遅きに失したがチェーンスモーカーだったM氏はタバコを止め、飲めば午前様だった酒も止め、治療に専念した。
が、薬の副作用で顔や腹は膨らみ、人前に出るのを避けるようになった。

この日の二人の患者は何を伝えようとしていたのか、と、ふと考えた。
どうやら些細な出来事に何かしらの意義付けをして、自分に都合良い気付きを得ようとしていたらしい。

嫌みな野郎だ、てめえは。

そうか、これか、伝えたかったことは。