朴念仁の戯言

弁膜症を経て

☰☰ 乾為天 けんいてん(彖辞・象辞)

乾(けん)は、元(おお)に亨(とお)りて貞(ただし)きに利(よ)ろし。
初九(しょきゅう)。潜竜(せんりゅう)なり。用うるなかれ。
九二(きゅうじ)。見竜(けんりゅう)田(でん)に在り。大人(たいじん)を見るに利ろし。
九三(きゅうさん)。君子終日乾乾(けんけん)し、夕(ゆう)べに惕若(てきじゃく)たり。厲(あや)うけれども咎(とが)なし。
九四(きゅうし)。あるいは躍(おど)りて淵(ふち)に在り。咎なし。
九五(きゅうご)。飛竜天に在り。大人を見るに利ろし。
上九(じょうきゅう)。亢竜(こうりゅう)悔(くい)あり。
用九(ようきゅう)。群竜(ぐんりゅう)首(かしら)なきを見る。吉なり。

☰☰は六爻(こう)皆(みな)陽、純陽の卦(か)。天のはたらきの健やかで息(や)むことのないのに象(かた)どる。形体をもっていえば天であり、そのはたらきが乾=健である。占ってこの卦を得た者は、その望みが大いに通るであろう、よろしく貞生(ていせい)の態度をとり保つべきである。
初九は最下の陽剛(ようごう)、たとえれば地下に潜(ひそ)む竜、才徳があっても軽々しくこれを用いることなく、修養して時機の到来を待つべきである。
九二は陽剛居中(いちゅう)、竜が田(地上)に姿を現わしたように、その才徳もようやく明らか。目上の大人(九五)に認められれば、おのれを伸ばす好機会である(彖伝(たんでん)、文言伝は、大人をこの九二を指すとする)。
九三は下卦(げか)の極、警戒を要する危位(きい)。君子たる者、終日つとめにはげみ、夕べにまた反省して惕(おそ)れ慎むこと忘れなければ、危(あやう)いながら咎は免(まぬが)れる。
九四は下卦から上卦(じょうか)にのぼったはじめ。将来の躍動を目前にして、なお深淵に臨む時の心構えで身を慎めば咎を免れる。
九五は陽剛中正、飛んで天に昇った竜。才徳が充実し志を得て人の上に立った者にもたとえられようが、なお在下(ざいか)の大人賢者(九二)を得てその助けをかりることを心掛けるがよい(彖伝、文言伝は大人をこの九五の君とする)。
上九は陽剛居極、天を昇りつめて降りることを忘れた竜。勢位(せいい)を極めておごり亢(たか)ぶればかえって悔をのこすことにもなる。
用九。むらがる竜が姿を現わしながらもその頭を示さぬよう、才徳をひけらかすことなく柔順で控え目にすれば吉である。

易経・上、高田真治・後藤基巳 訳より)

 

夢見ているよう

3.11あの日から

はだしで家を飛び出して車に家族を押し込んだ。痛えなんて感じねえ。目の前の車乗んのも、はっていくのが精いっぱい。家族を山に避難させて港に走った。津波から船を守るには沖に出すしかねえからね。海水が渦巻いて引いていた。ただごとでねえと思った。
ふつう、エンジンは暖気運転しないとアクセル全開にできねえんだけど、暖気もへったくれもねえ。時速40㌔ほどの全開で沖に向かった。1.5㌔くらい走ったところで高さ10㍍の津波が来た。(ありえ)ねえ、ねえ、ねえ。夢見ているよう。
全速力で走らせても元に戻される感じ。この波乗り切れなかったら終わり。よろよろで九分九厘諦めていた。もう駄目だってなると家族のこと考えんのね。山さ逃げた家族に会えねえのかなって。
これまで台風も突風も食らったけど、津波はおっかねえってもんじゃねえ。想像を絶する恐怖だね。
津波を越えたらその場で座り込んじゃった。九死に一生を得たって。きっと数分の違い。しょんべんむぐす(失禁した)のも分かんねかった。津波越すと、海は鏡のような別世界だった。
後ろを向いたらおれげ(私の家)がある方に津波がぶつかって土煙が舞い上がった。うちに家族いなくてよかったなあ。「千年に一回」なんていうけど、なんで俺が生きてる時代にくるかなあ。
俺は家族が無事だって知ってたから安心だったけど、家族は心配してた。夜になると船は明かりつけんのね。高台からみんな明かりで船の数を数えんの。仲間12隻。その中に俺がいるのも分かったみたい。

いわき市の漁師・阿野田城次さん51歳)平成23年4月17日地元朝刊掲載

 

日常の祈り

もう一月前以上に終えた行事だが、古人の祈りの日常が伝わる内容なので掲載した。
物が豊かな、便利な世の中に生きる我々だが、果たして何ものにも頼れなくなった時、古人同様、最後の最後は祈ることに尽きるだろう。
祈りには力がある、そう思う。

『日本人の美学21』節分
節分は無病息災などを願う行事。
「一生」ことかかないように豆は、「一升」ますに入れるとよいです。

二月三日は節分です。昔は節分を年の始めとして暮らしていた人がいました。
豆まきの行事は無病息災と厄払いの意味から生まれました。準備した豆を一升のますに入れて神棚に供えます。家長が神様を拝み、天照大御神(あまてらすおおかみ)、八百万(やおよろず)の神々に祈りを捧げ、神棚に向かって「福は内」を三回唱えてから、各部屋の戸を開けて「鬼は外」を三回、「福は内」を三回唱えながら豆をまきます。また「鬼外(おにそと)」と唱える地域もあります。
三日の午後、入り口や出窓など常日ごろ開閉する場所に、イワシの頭をヒイラギなどに刺して飾ります。イワシを焼いたにおいは鬼が嫌うといわれています。
四日は立春です。農耕民族である日本人は、この日を境にして農作業の計画を立てます。気候の急激な変化により種をまいて芽が出ても霜害に合うこともありましたが、今ではビニールハウスが導入されてその心配はほとんどなくなりました。神仏に祈る行事も少なくなっています。
昔からのことわざに「小寒の氷は大寒にとける」とありますが、もう少しで春が来ると指折り数えて待つ人たちがいます。
小寒から九日目、大寒からも九日目に雨が降ると、その年は縁起が良いと昔の人は言っています。この雨を「寒九の雨」といって、今年の苦は流れたと考えたようです。艱難辛苦(かんなんしんく)の「艱」を「寒」に、「苦」を「九」に通わせています。
あらためて神社にお参りをして祈るのではなく、いつどのような所でも心の中で祈ることをしていた昔の人に頭の下がる思いがします。

小笠原流礼法第32世宗家直門総師範の菅野菱公さん)平成21年2月3日地元朝刊掲載

天道(てんどう)は親(しん)無(な)し。常に善人に与(くみ)す。

天道無親 常与善人老子 道徳経第79章)

天の道、つまり神のみ心というものには、誰々に特別親しくする、というような個人的な心はなく、定められた法則の通りに働くのだから、天の道に叶った、大宇宙の法則に叶った人々に大きな力が働きかける。天の道に叶った人というのはどういう人であるかというと、愛深く常に調和した心をもち、調和した道をきずきあげようとしている人である。そういう人を真の善人というのである。だから、天道は、常に善人にくみする、というのであります。
善人といいますと、親鸞の話にあります、「善人もて救わる、なお悪人をや」という言葉にひっかかります。善人でさえ救われるのだから、悪人が救われるのは当然である、というわけですから、この場合ではうっかりすると善人と悪人とが立場が反対になってしまっています。
ところが、この場合の親鸞のいう、善人というのは、親鸞の立場は、この地球界の肉体人間は、すべてが罪悪甚重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)である、キリスト教的にいえば、人間皆罪の子である、という、そういう立場で人間を観ています。
ですから、自分は罪を冒(おか)したことはない、悪いことはしたことはない、自分は善人だと自負しているような人は、真理を知らない、救われ難(にく)い人である、と観るわけです。そして反対に、「常に自分の想いの中や行いの中に悪を認めていて、私は悪い人間だ、こんな悪い人間は、とても自分だけでは救われっこない。何か大きな力におすがりして救って頂くより仕方がない」、と思っているような人は、救済の光明である、阿弥陀様の方にその想念を向けることが真剣である。だから、阿弥陀仏の光明波動が余計に入ってくる。自己を悪人と思っている想いが、かえって阿弥陀仏(神)の救済の光明の道に自己を運びこんでゆくので、救われ易い、ということになるのです。
ですから、自己を悪い人だと思っているような人の救われたい念願は一途な真剣なものがあって、自己のやることには間違ったことはない、と善人ぶった、何ものの助けも自分にはいらない、と思っている人より、神仏へのつながりが強い、ということになり、親鸞のいう、善人でさえも救われるのだから、悪人はなお救われ易い、という話が生きてくるのであります。
本当にこの世の中には、自分のやることは何でもよいことだと思って、少しでも自己反省しない人があります。そういう人は、神の存在を説いても、信仰をすすめても、私には神様などいりません、私は私だけの力で沢山(たくさん)です、などと、信仰の話を鼻の先で嗤(わら)っていたりします。
ところが、実際は、自分自身がこうして生命体として生きていることそのものが、神の恩恵であることを考えないという、甚だしい思い上がりは、神霊の側から見れば、実に救い上げにくい存在であり、人間の一番根本原理である、人間は神(大生命)の子(小生命)であることを知らない困った存在なのであります。
この章で老子のいう善人は、真実神のみ心、天の道を知って行っている人のことであり、愛と調和、つまり真善美(しんぜんび)の行いのできている人のことであるのです。

(宗教者の五井昌久著「老子講義」より抜粋)

 

「無常」から明るい旋律

宗教学者 山折 哲雄やまおり てつお

金融恐慌、通貨危機、100年に一度の大暴風…。いささか大げさな言葉が、ちまたにあふれ出している。ほとんど異口同音の波に乗って、それが聞こえてくる。
けれども、どうだろう。その「金融恐慌」という名の妖怪の本質は、ただ一つの言葉〝景気循環〟という経済用語で片が付くのではないか。景気が循環するという、何の変哲もない話である。
経済は好調のときもあれば、暗転するときもある。10年、50年に一度の変動であろうと、100年に一度の暴風であろうと、ことの本質に変わりはない。
バブルの現象も、過熱すれば、やがてはじけるときが必ずやってくる。景気は、ニセ天国の上昇気流に乗ることもあれば、たちまち地の底に墜落もする。照る日、曇る日である。そんな現象をひっくるめて、景気循環と称してきたのではないか。
とすれば、この景気循環という経済用語を、分かりやすい人間的な言葉に翻訳すると、さしずめ〝無常〟〟ということになるであろう。あの諸行無常の無常である。この世に常なるものは何一つ存在しない、という意味だ。持続可能な永遠など、単なる虚妄(きょもう)のたわ言にすぎない―そういう認識である。
死と再生
だが同時に、ここで慌てて付け加えなければならないことがある。この無常の認識からは、実は明るい旋律も聞こえてくるのである。とかく世の中は、人間の運命であれ、山川草木(さんせんそうもく)のような自然であれ、変化と蘇生(そせい)を繰り返して循環を止めないということだ。死と再生のリズムである。
われわれの人生も、社会のあり方も、浮沈(ふちん)を繰り返しつつ、この循環の軌道に乗っている。何も慌てることはない、いたずらに騒ぐ事なかれ、そんな天の声も聞こえてくる。
それなのになぜ、この世界的な金融経済不安の状況を、先に述べた景気循環というキーワードで一挙に説明しようとしないのか。無常という宗教言語の力を借りて、潔く片を付けようとしないのか。
こんな言い分は、前後の脈絡を考えない横やりのように思われるかもしれない。だが、そこには、それなりの確かな理由が横たわっていると、私は思っている。
そもそも無常には、三つの考えが含まれている。この世に永遠なるものは、何一つ存在しない。形あるものは、必ず壊れる。人は生きて、やがて死ぬ。以上の三原則だ。
これを否定することは誰もできないだろう。よほどのひねくれ者でない限り、まずは疑うことのできない客観的な事実であると言っていい。
二つの選択肢
しかし困難な問題が、まさにそこから発生することも認めなければならない。なぜなら、客観的な事実をそれとして認めるにしても、それを自己の血肉として受容しようとしない文明が歴史的に存在してきたし、現に存在しているからだ。
それが、ユダヤキリスト教文明であり、アングロサクソンによって形成された西欧社会である。この人生の無常という原則に対し、この文明は拒否的な態度を取り続けてきた点で一貫していたと思う。
なぜなら、この文明にとっては、危機を乗り越えるための戦略こそが最大の関心事だったのであり、それに対し、無常というアジア的なエートス(精神)ほど、退嬰(たいえい)的で虚無(きょむ)的な思想はないと映ったからであろう。
さらに息苦しいことには、この日本の社会までが、アングロサクソン流生き残り戦略の傘の下に、すっぽり包み込まれてしまっている。そしてこれまで、その戦略に加担することに、われわれは夢中になり過ぎていたのではないか。
この先、光明は見えてくるのか…。いずれにせよ、われわれの前方には二つの選択肢が見えている。一つは、不安と危機をあおり立てる短期的な経済予測に、依然として翻弄(ほんろう)され続けるか。もう一つは、景気循環=無常の原則に立って長期的な展望を持ち、この事態に冷静に対処するよう努力していくか。
経済への視点とは、直面している緊急の問題に対処すること以上に、われわれ自身のエートスにかかわる大きなテーマでもあるはずだ、と指摘しておきたい。

平成21年1月23日地元朝刊掲載

 

ほめれば成犬も変化 名前でしからない

家族としての犬のしつけ3

今から20年ほど前、うちの動物病院にはステファンという雑種犬がいた。
子犬時代に雨に打たれて倒れているところを、小学生に抱えられてやってきた。新しい家族が見つからず、当院で生活するようになった。われ関せずの性格で、なんだか達観しているようにも見える犬だった。
前米ドッグインストラクター協会の元会長テリー・ライアン先生が来日したのは、この時期だ。先生とともに、家庭犬をほめてしつける「陽性強化法」が日本にやってきた。国内ではまだ知られていないこの方法を私は直接指導していただく幸運に恵まれた。
パートナーとして参加したステファンは7歳を超えていた。おとなしく、反抗心のない優等生だった。だが、別の視点から言えば、「無表情で人間に期待していない」という風情の犬でもあった。不足ない環境ではあったが、伴侶動物としては、何かが欠けていたのかも知れなかった。
テリー先生の教室では、犬には呼びやすい名前をつけて、名前を呼んだら良いことがあるように教え、絶対しからない。
名前を呼び、その犬の一番好きな「ごほうび」を繰り返し与える。食べ物だけではなく、「家族の笑顔」も非常に大きいなごほうびになり、モチベーションの維持につながると教わった。とても新鮮だった。
このしつけ教室に参加するようになって、徐々にステファンが変わっていった。
それまで、ステファンは人が近づいても、寝たままちらっと横目でこちらを見るだけだった。それが、私が行くと〝笑顔〟(のような表情)で頭を上げる。「今日もお出かけ?」「しつけの勉強に行く?」と、期待しているようなしぐさを見せ、待てもお座りも伏せも〝喜んで〟できるようになっていった。
子犬でなくても、成犬が十分にしつけで変われることを知った。大切なのは、犬が名前を好きになることだ。だから、絶対に名前でしからない。
名前を呼んだら、パッと目を見る。アイコンタクト、つまり目を合わせれば、集中力が生まれ、しつけや意思疎通は格段にしやすくなる。これは人間同士でも言えるのではないか。

(獣医師の柴内晶子さん)平成21年1月22日地元朝刊タイム掲載

 

餌やりに矛盾 なぜハクチョウ

「みんなのひろば」にも、ハクチョウへの餌やりが禁止され「かわいそう」「人間は身勝手だ」と嘆く意見が掲載されています。わたしの周りでも同じくハクチョウを思いやる意見を聞くことがありましたが、私は逆にその反応に首をかしげてしまいます。
まず、なぜハクチョウならば餌をやろうと思うのでしょうか。カラスに餌をやろうという人はいないのに、なぜかわいそうという人はいないのでしょうか。ハクチョウもカラスも、野生生物ならば餌を取る能力はあるはずです。
ハクチョウが弱る姿はかわいそうでも、カラスが弱る姿は何とも思わないのでしょうか。餌やりを禁止することを人間の身勝手と嘆く前に、その矛盾に気付いてほしいのです。ハクチョウは美しくかわいらしいから人間は餌をやり始めたのでしょう。人のエゴに任せてどうしてもかわいそうと思うならば、餌をやる前に、餌となる虫や小魚が自然に生きる環境を維持するべきだと思います。
 
(高校生の鈴木悠子さん18歳)平成21年1月19日地元朝刊投稿