朴念仁の戯言

弁膜症を経て

天道(てんどう)は親(しん)無(な)し。常に善人に与(くみ)す。

天道無親 常与善人老子 道徳経第79章)

天の道、つまり神のみ心というものには、誰々に特別親しくする、というような個人的な心はなく、定められた法則の通りに働くのだから、天の道に叶った、大宇宙の法則に叶った人々に大きな力が働きかける。天の道に叶った人というのはどういう人であるかというと、愛深く常に調和した心をもち、調和した道をきずきあげようとしている人である。そういう人を真の善人というのである。だから、天道は、常に善人にくみする、というのであります。
善人といいますと、親鸞の話にあります、「善人もて救わる、なお悪人をや」という言葉にひっかかります。善人でさえ救われるのだから、悪人が救われるのは当然である、というわけですから、この場合ではうっかりすると善人と悪人とが立場が反対になってしまっています。
ところが、この場合の親鸞のいう、善人というのは、親鸞の立場は、この地球界の肉体人間は、すべてが罪悪甚重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)である、キリスト教的にいえば、人間皆罪の子である、という、そういう立場で人間を観ています。
ですから、自分は罪を冒(おか)したことはない、悪いことはしたことはない、自分は善人だと自負しているような人は、真理を知らない、救われ難(にく)い人である、と観るわけです。そして反対に、「常に自分の想いの中や行いの中に悪を認めていて、私は悪い人間だ、こんな悪い人間は、とても自分だけでは救われっこない。何か大きな力におすがりして救って頂くより仕方がない」、と思っているような人は、救済の光明である、阿弥陀様の方にその想念を向けることが真剣である。だから、阿弥陀仏の光明波動が余計に入ってくる。自己を悪人と思っている想いが、かえって阿弥陀仏(神)の救済の光明の道に自己を運びこんでゆくので、救われ易い、ということになるのです。
ですから、自己を悪い人だと思っているような人の救われたい念願は一途な真剣なものがあって、自己のやることには間違ったことはない、と善人ぶった、何ものの助けも自分にはいらない、と思っている人より、神仏へのつながりが強い、ということになり、親鸞のいう、善人でさえも救われるのだから、悪人はなお救われ易い、という話が生きてくるのであります。
本当にこの世の中には、自分のやることは何でもよいことだと思って、少しでも自己反省しない人があります。そういう人は、神の存在を説いても、信仰をすすめても、私には神様などいりません、私は私だけの力で沢山(たくさん)です、などと、信仰の話を鼻の先で嗤(わら)っていたりします。
ところが、実際は、自分自身がこうして生命体として生きていることそのものが、神の恩恵であることを考えないという、甚だしい思い上がりは、神霊の側から見れば、実に救い上げにくい存在であり、人間の一番根本原理である、人間は神(大生命)の子(小生命)であることを知らない困った存在なのであります。
この章で老子のいう善人は、真実神のみ心、天の道を知って行っている人のことであり、愛と調和、つまり真善美(しんぜんび)の行いのできている人のことであるのです。

(宗教者の五井昌久著「老子講義」より抜粋)