朴念仁の戯言

弁膜症を経て

デジタルの阿弥陀クジ

聞こえづらい〝人の声〟

最近はテレビもデジタル化され、生活のすべてがデジタル化される時代がやってきつつあるが、ご承知のようにデジタルとは音も映像も「1」と「0」の記号の組み合わせで出来た疑似自然であり〝生(なま)〟の情報ではない。

そういった流れは甘んじて受け入れざるをえないわけだが、私にはひとつだけどうも受け入れがたいものがある。それはデジタル化社会の到来を軌を一にし、メーカーに何か問い合わせようとしても、〝生〟の人の声が聞こえにくくなっているということだ。

必ず録音された人間の声からはじまり、要望別に分類された数字キーを打ち込まされ、その数字を打つとまた次の数字と、いつまでたっても人間の〝生〟の声に至ることが難しい。苦労してやっと目的まで〝到達〟して一息つくと、出てきたのは生の声ではなく、録音が答える仕組みになっていて、ひどく徒労感を覚えたりすることもある。

社会環境がデジタル化するのは時代の趨勢(すうせい)としていたし方ないにしても、問い合わせシステムでまで人間の存在が消される傾向があるのは納得できないのである。これはひとつには効率化のために、その分だけユーザーに労力の提供を強いるメーカー側の仕組みであるわけだが、かつてのメーカーはそこまで効率化優先主義ではなく、もっと〝人間の声〟が近かったように記憶するのだ。

こういった非人間化は特にインターネットやケータイ電話の問い合わせ時などに顕著だ。笑い話ではないが数字キーの間をさまよいながら最後の最後に生のオペレーターの声が聞こえてくると懐かしささえ覚え、まるで阿弥陀(あみだ)クジを引いてやっと〝当たり〟に至ったような気分にさえなるのである。

また、何かを問い合わせるためにネットなどでメーカー名を探し出しても電話番号を記しておらず、メールアドレスだけが記されていることも多い。いずこにおいても効率化のもとに〝人間〟が消されている。

そんな中、先日、あるオーディオメーカーに昔の機種の使用説明書を入手するにはどうしたらよいか問い合わせようとネットで社名を引いたら、最初のページからフリーダイヤルの電話番号が記されており、少し驚いた。

ただし、昨今はじかに電話口に人間が出てくるようなことは望めないので〝阿弥陀クジ〟を引く覚悟でその番号に電話をするといきなり〝生〟のオペレーターの声が聞こえ、ちょっとうろたえた。昔なら当たり前のことが今では希少になっているためにいきなりクジに当たるとかえって調子が狂ってしまうのである。ちなみにこの社ではオペレーターの対応も実にしっかりしていて無償で使用説明書のコピーを送ってくれるという。ふと昭和の〝ゆるさ〟を思い出してしまった。

ケータイにしろテレビにしろ昨今の製品の性能の差はなくなっており、甲乙の評価はつけ難いのが現状だが、私個人は以上のようなまわりくどい経験から「いかに生の人間の声が近いか」を製品、あるいはメーカーに対する重要な評価基準のひとつに加えるようにしている。

(写真家、作家の藤原新也さん)平成21年5月13日地元朝刊掲載