朴念仁の戯言

弁膜症を経て

母の記憶

「あれまあ、しろ、こんな所につながれて」
洗濯物を干しに裏庭に出た母が、日ざしを避けて居場所を木陰に移された犬に話しかけている。
近年、痴呆症のすすんだ母は、庭に出ると大きな声で犬に語りかけるようになった。

母が家内に寺の坊守の役目を譲ってからもう10年以上になるが、長年の習慣からか、どうかすると自分が今でも家事をすべてこなしているものと思い込んでいることがよくある。
しかし、母の記憶にある家事の仕方は、新築ですっかり変化した今の環境にはまったく通用しない。
家内が家事の仕方や器具の使用法を教えてもすぐに忘れ、自分勝手にとんでもないことをしでかしてはわが家にたびたび混乱を引き起こす。
私も家内も母に注意することが無駄であり、かえって良くない結果を招くとは知りつつ、つい強く咎めてしまう。
我々は、母が新たなことを記憶する能力を失っているものと思い込んでいた。

ある朝、娘が私の渡した本を開いて目を通そうとしたとき、母が突然、「典ちゃん、それ読んでしまったら、おばあちゃんに見せて」と言った。
驚く娘に母はしっかりとした口調で、「その本のことがこの間の新聞に出ていた」と言った。

母の言う書評欄は私の心にも残っていた。それは「癒されぬ病」にくじけぬ、著者自身の強い生き方を述べたものであった。 

大谷大学名誉教授の小谷信千代さん(大谷大HP「今という時間」から)

 

「そうかもしれない」

保健所の植え込みの中で震えて鳴いていた「しろ」を拾ってきてからもう11年になる。

その頃私は気分の落ち込むことの多い日々を送っていた。
高校と中学に通っていた息子と娘が、自分たちの生活に意味を見いだせず、生きてゆく気力を失いかけているように見えることが、私の心を重くしていた。
その上、私は健康も害していた。
八方ふさがりの思いのする日がよくあった。

その犬は家に連れて帰ってきても震えが止まらなかった。
手放すと物かげに隠れてしまって出てこようとしなかった。
彼の原因不明のおびえは容易になおらず、道に連れ出すと座りこんで動こうとしなかった。
成犬になっても、散歩のつど自転車の買い物かごに載せて、ひと気のない近くの山に連れて行かねばならなかった。
やっかいなものをもう一つ抱え込んでしまったように思われた。

そのようにして一年半ほど過ぎた頃、自転車におびえつつもようやく普通に道が歩けるようになった。
今では、まともな犬に育てることをあきらめかけていたことが嘘のように思われる。

私は散歩の折に「しろ、いろいろあるよな。でも、ぼちぼちやればなんとかなるもんだよな」と時々語りかける。
彼はちらっと振り返るが、私の思いなぞどこ吹く風といった顔で道端の臭いをかぐ。
草に向かって用を足している彼を待ちつつ、一瞬不思議な安堵感を覚える。
私が彼に育てられたのかもしれない。

大谷大学名誉教授の小谷信千代さん(大谷大HP「今という時間」から)

迷い

「迷いに迷った挙句、産みました」
かわいい赤ん坊を抱いて報告に来た卒業生の顔には、苦しみを経験した人にのみ見られる明るさと、大人びた表情がありました。

中絶をすすめる周囲からの圧力、産むことによって生じる経済的負担、仕事と育児の両立の難しさ等を考慮した末、宿ったいのちを守り抜く選択をした人の美しさでした。

「授業中にシスターが、神は力に余る試練はお与えにならないと仰ったでしょう。本当にそうです。何とかやっています」と言いながら、赤ちゃんにほほ笑みかけました。

「私にも抱かせて」と抱きながら、「マリア様、どうぞ、この卒業生が迷った末に選んだ決断をほめてやってください。この幼子の一生をお守りください」と祈りました。

私たちの一生は、「迷い」の連続といってもいいでしょう。小さなことでは、今日は何を着ていこうかという迷いから、大きなことでは、生死にかかわることについての迷いまで大小さまざまあります。

迷うことができるのも一つの恵みです。ナチスの収容所に送られた人々には迷うことは許されませんでした。すべてが命令による強制であり、人は、選択する自由、つまり、迷う自由を剥奪されていたのです。

「迷った時には、それぞれのプラスとマイナスを書き出し、重みによって決めなさい」
修道生活か結婚生活かの選択に迷っていた私に、上司であったアメリカ人の神父が教えてくれたことでした。

赤ちゃんを産む決心をした卒業生は、大学での講演を思い出し、プラスの欄に「神のご加護」と大きく書き込むことにより、自分の迷いに終止符を打ったのでした。

※シスター渡辺和子さん(平成26年11月28日心のともしび「心の糧」より)

 

毒性

日常ではほとんど聞かれなくなったが、上方落語などでしばしば耳にする。「どくしょうな目におうた」「どくしょうなことを言いよる」と言った使われ方で、程度のひどいことや毒々しいことを意味している。人に対して用いられる場合もあり、「どくしょうな人や」とか、「どくしょう者」と言う。

地方によっては、現在でもお年寄りの間で使われているが、若い人が実際に使っているのにお目にかかったことはない。時代とともに言葉の意味が変化したり、消えていったりするのは止むを得ないことである。しかし、一つの言葉が消えることは、ものの見方が一つ失われていくことでもある。

さて、「どくしょう者」という言葉。その語源というわけにはいかないが、親鸞の人間観を示す次の言葉とのつながりは深いと思われる。「十方衆生、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄(しょうじょう)の心なし、虚仮雑毒(こけぞうどく)にして真実の心なし」。つまり、あらゆる衆生は、欲望に汚染されて清らかな心がなく、毒が(雑)まざったいつわりの生き方で、真実の心はない、と言うのである。我々がお互いに傷つけ合うような生き方になっていることを悲しみ痛む言葉である。

「毒」とは、貧(とん)〈むさぼり〉、瞋(しん)〈いかり〉、癡(ち)〈おろかさ〉の三毒がその代表であるが、人間の行いにはすべて毒が雑ざっていると親鸞は言う。毒は文字通り、他人を傷つけるとともに、自分も傷ついていく。しかも、やっかいなのは毒に侵されていることに本人はなかなか気づかない。知らないままに毒を振り撒いていくことになるのだ。

そう思うと、「そんなどくしょうな」という言葉には、人間の毒を感じ取った気持ちが表れている。また、「どくしょう者」という時には、毒に侵されていることへの気づきが含まれていたのではなかろうか。

「毒性」。こんな言葉が消えかかっているということが、問題の原因を外にばかり見て、自分の在り方を振り返ることのない現代の世相をよく表しているのではなかろうか。

大谷大学教授の一楽真さん(平成22年11月号『文藝春秋』掲載)

アフリカの経験を小説に

47歳、無職。全財産は9万5千円。第117回文学界新人賞を受賞し、「拾っていただいて本当に感謝しています」と述べた前田隆壱さんの声には、実感がこもっていた。賞金は50万円。「全部つぎ込んで、次の作品を書きたい」と、作家の道を歩みだした。

兵庫県姫路市の高校を卒業後、会社員に。大学卒の同僚に対して強烈な学歴コンプレックスを抱きながらも「蹴散らしてやる」と仕事に燃えた。だが取引先で、後に上司となる社長に出会い「もともと頭の良い人にはかなわない」と落ち込む。「では自分に何ができるのか」。35歳の頃、道を求めてアフリカに旅立つ。

受賞作「アフリカ鯰(なまず)」には、1年半にわたった現地滞在の経験を反映させた。淡水湖があるアフリカ東部の町で、「私」が親友「岡」と全財産を失う物語。選考委員の角田光代さんは「現代版『オン・ザ・ロード』のように読んだ」と評した。

「アフリカに行くと、お金がなくても人々がニコニコしている。生活というのはなんとかなるものだと思った」。帰国するが、会社に勤める気持ちは完全に消えていた。

東京・池袋の図書館で日がな一日世界文学全集を眺めていた40歳の時、小説家になることを思い立つ。生活の糧を得る目的で始めたが、書くことで自分の内面を見つめることができた。「45歳までに新人賞を取る」と決め、賞への応募を繰り返す。1年前、便利屋や弁当店などの仕事をすべて辞め、執筆に専念した。

自称「ひどい男」。これまでの経験を基にした次回作の構想を聞いていた「文学界」の田中光子編集長が、宙をにらんで「とんでもない男だなあ」と嘆息したという。

※平成25年11月28日地元紙掲載

 

障がいを乗り越え 数学を教えたい

私は統合失調症です。19歳の時に診断されました。でも何とか山形大学理学部数学科を卒業し、特別支援学校の臨時講師や光学プリズムの製造所などに勤務しました。

もう51歳。今は実家の農業を手伝っています。このまま一生を終えてもいいのですが、「男子一生の仕事」として数学を究めたい気持ちが抑え切れないのです。

そこで今まで自分が気が付いた「岩崎の定理」の証明を母校の恩師に送り、何とか助手として雇ってくれないか、そのためには大学院の修士課程を受けなければいけないのか、などと悩んでいいるところです。

いろんな基礎科目は勉強しているので、教える自信はあります。アインシュタインだって、障がい者だったと言われているのです。

郡山市の岩崎好博さん51歳(平成25年11月25日地元紙掲載)

 

先輩に倣う

私は、東京の吉祥寺にある成蹊小学校を卒業してから、四谷の雙葉高等女学校に入学しました。家は浄土真宗でしたが、父が2・26事件で殺されたこともあり、母としては、宗教的雰囲気の中で育つようにと願って、通わせたのかも知れません。

「先輩」などとお呼びしては申し訳ないのですが、その雙葉で若くして校長に任命されたシスター高嶺という方から、私は多くを教えられました。その中で一番感謝していることは、教育の場において大切なことの一つとして、生徒一人ひとりの名前を覚え、かつ、名前で生徒を呼ぶことでした。

雙葉に入るまでは、広い武蔵野で男女共学の小学校で、のびのびと過ごしていた私にとって、急に都心の、しかもミッションスクールは馴染めない風土でした。狭い校庭では物足りなくて、階段を二段飛びに駆け降り、挙句の果て、大怪我をしでかした私は、多分、お行儀の悪い、お転婆としてブラックリストに載っていたのかも知れません。

そんな私を案じて、母が校長宛の暑中見舞いを書かせました。すると、高嶺校長から自筆の礼状が来て、そこには礼とともに「和子さん、早く学校へ戻っていらっしゃい」と書いてあったのです。
夏休み後の私は変わりました。

名前で呼び、一人ひとりの生徒を大切にすること、このことを体験したおかげで、やがて修道者となり、教職についた私は、生徒と接する教師のあるべき様について、ためらいはありませんでした。

その後、管理職を命ぜられ、今日に至っていますが、私の前にはいつも、ご自分(高嶺校長)が思いがけず校長、管区長等を命ぜられた際も、いつも「置かれた場所で咲いて」いらしたシスターのお姿が手本としてあります。

※シスター渡辺和子さん(心のともしび 平成26年11月18日「心の糧」より)