朴念仁の戯言

弁膜症を経て

仏様のような生き方

「蓄えも年金も少なく、皆さんとお付き合いすることはもうできません。暖かい土地へ移り、妻と静かに暮らします」。
そんなあいさつ状を出し、親しい人にも転居先を告げずに姿を消した男性がいた。
20数年前のことだ。
直前まで、東京で学ぶ会津出身者のための寮で学生の世話をしていた。
会津若松市の出身で大学を卒業後、職業軍人、鮮魚商、教員などをし、還暦を過ぎて寮に住み込んだ。
いがぐり頭に丸い眼鏡、腰には手ぬぐい。
質素な暮らしぶりだった。
学生の少々の暴走には目をつぶったが、道に外れた行為があれば、鋭い眼光で諭した。
後に分かったことがある。
施設の改修費を募るため会津に通った際、新幹線を使わず、東京から鈍行列車を乗り継いでいた。
少しでも改修に充てたくて節約したらしい。
鮮魚店を畳む時には「遅れた支払いは受け取りません」と張り紙をし、生活苦の人のツケを帳消しにした。
旧制中学の先輩の老人は、思い出を話しながら「仏様のような人」と涙ぐんだ。
卒業、進学、就職、転勤…。
別れの季節が巡ってきた。
この時期になると、鮮烈な印象を残して去ったその人を思い出す。
健在なら間もなく90歳になる。

※平成22年3月17日地元紙1面「あぶくま抄」より。

 

子の教育は親の責任(日本人の美学)

節目の躾

桃栗3年、柿8年、梨の大ばか16年。この言葉は誰に教えられたわけでもないのに今も頭の中に残っています。地域によって表現は異なるようで、作家の山本周五郎さんは梨ではなく「梅の木18年」と書いています。桃栗は3年目から実をつけ、柿は8年目から、梨は16年の年数がかかると解釈する人が多いようですが、この言葉は子どもの躾(しつけ)を例えているのです。
子どもの躾は3歳までに「ありがとう」「さようなら」とあいさつができるように教えることです。昭和20年ごろまでは小学校に入学するのが数え年で8歳でした。この年ごろまでに自分のことは自分でできるようにしました。
現在は3歳保育の時代です。母親は自分の子どもをよく見てください。自分は3歳の時に何ができたでしょうか。思い出してください。
デパートなどでよく見掛けますが、子どもが高級な陶器に手を触れても注意しない母親がいます。他人に迷惑を掛けないことを親がきちんと教えることです。子どもを人前で叱ったり、頭を叩いている光景も見掛けますが、子どもは悲しそうな眼をしています。このような場所で子どもを叱る母親の真意は理解できません。子どもを叱る前に母親は自分の子育てに問題がなかったかなど反省する必要があるでしょう。子どもは自分の責任で育ててください。
数え16歳は元服です。梨は教養「なし」に掛けています。16歳までに教養を持ちなさいという意味で、何事も責任を持って行動するように教えています。
梅の木18年とは、寒さに負けず凛としてかぐわしく咲く梅の花のような心構えを持ってほしいと願いを込めた言葉です。心の準備や覚悟を抱くことの大切さを説いています。
伝統文化をきちんと教えられるような親であってほしいと切に願うこのごろです。
小笠原流礼法第32世宗家直門総師範の菅野菱公さん(平成22年3月2日地元紙掲載)

 

不食という生き方⑥

家族には、思うほど深いつながりはない

家族や血縁にこだわる必要もありません。
私たちの本質が、元はたった一つの魂であることが理解できれば、この意味がすぐわかると思います。
もちろん親から生まれる以上、その人物のDNAを受け継いでいることは否定しませんが、それは単に肉体的な性質の継承です。
肉体はこの世で暮らす上での便利な「鎧(道具)」であり、その材料を分けてもらったということです。
だから、ここが似ているとか、ここが似てないとか、そういう比較なんてどうでもいいこと。血縁にこだわる気持ちは理解しますが、そのこだわりを超えたところに私たちの進化があります。
「近すぎても遠すぎても、いざこざが起きてしまう」
それが家族であり、家族という関係は、私たちがこの世で経験する「たくさんある学び」の一つです。
誤解されるような言い方かもしれませんが、私たちが考えているほど、家族(肉体面での継承のある人同士)には、深いつながりはありません。
私たちは何度もこの世に転生していますが、どこかの生で船に一緒に乗り合わせた人々、イメージとしてはこれが今の家族です。
だからと言って、家族を粗末にしていいわけではありません。
せっかく乗り合わせた仲間ですから、できるだけ素敵な思い出を作りましょう。そのときに必要なのが「依存せず、拒絶せず、適度に関わる」姿勢です。
親だから、子どもだからという上下関係も、魂レベルには存在しません。
大人以上の態度・対応がとれる子どもがいますが、何度も転生している古い魂が入っているわけですから、別に不思議なことではありません。
かつて子どもに厳しく接したとき「どうしてそんなこと言うの」と悲しい目で見られたことがあります。そのとき私は気づきました。
成長のプロセスは、親が押しつけるものではなかったのです。
子ども自身が持って生まれた性質に基づいて成長する、それが「魂の学びルール」だと知り、深く反省しました。
親は何かと周囲と比べがちですが、その子には個性があります。その子なりの学びの時間があり、独自の選択権があります。
対話は必要ですが、強制は不要です。あなたのために生まれたわけじゃない、そんな子供の叫びは正しいのです。
親の役目は見守ること。親という漢字は木の上に立ってみると書きます。おたがいの学びを尊重しましょう。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方⑤

男女の垣根を超えると豊かになる

私は「男女」についても、こだわりがなくなりました。
生まれ持った肉体上の性別はあっても、こうすべき、こうしなきゃいけないという強迫観念が、自分の中から消えました。
女性性が強い時代になると先述したのも、女性が男性に取って代わる、支配するという意味ではありません。
女性という存在が生まれながらにして持つ、優しくてしなやかな感性、受精して子どもを産むという特別な機能を持つがゆえの豊かな創造性、そういう要素が新しい世界を作る上で必要なのです。
少し前の世界の歴史は、まさに男性の歴史でした。
男性上位社会を維持するため、女性の潜在的なパワーを封印しました。それが今、解き放たれました。
男性上位社会を続けた結果、世界がシステムエラー起こしたからです。
女々しいとか、男らしいとか、女のくせにとか、そんな言葉を口にする人もいますが、これは幼少期に偏った思想をすり込まれた結果です。だからその人を一方的に責めるだけでは、事態は解決しません。
世界がシステムエラーを起こした状況で、そんな自由度のない思想をいつまでも握り締める必要はないのです。
男はこうあるべき、女はこうあるべき、そんな思い込みの垣根を超えると、今とは比べものにならないほど豊かな社会が生まれます。殺し合うこと、傷つけ合うこと、そういう行為はバカバカしいと本気で思えるようになります。
私たちの本質は、肉体的な性ではありません。
本質は魂であり、魂というエネルギー体は「たった一つ」です。
たった一つの存在から、私たちはそれぞれに分かれたのであり、そのときの生(過去生)によって、男女のどちらかで生まれたにすぎません。
同性愛者や性同一性障害の方が次々とカミングアウトされていますが、彼らは自分の性に違和感を持ち、性を変えようとします。まるで性を超えて生きようとしているようにも見えますが、そこにあるのは私たちの原点です。
そもそも私たちは「ジェンダー・フリー」なのです。
ぜひ、次の事実を知ってください。
「誰の中にも、男性エネルギーと女性エネルギーが同居している」
究極の結果とは、自分の中の「男女エネルギー」がバランスよく手をつなぐこと。肉体レベルの結果を超越した魂レベルの融合こそ、究極の結果です。
こだわりなど、もはや存在しません。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方④

歩く(走る)ことで不調は解消される ※(走る)は朴念仁の追記

事務所に相談に来られる方に中には、不調や病気の原因が「運動不足」によるものである方が割といらっしゃいます。
まったく歩けないならまだしも、普通に生活しているのに心身が不調だというケースでは、その多くが運動不足なのです。
とくに現代人は、あまり歩いていません。
ちょっとした距離を車で移動する、これは文明社会のもたらした象徴的な功罪ですが、乗り物による移動を減らし、自分の足で歩く(走る)ことこそ、根本的な悩みにアクセスし、それを解消できる方法なのです。
英文学者だった私の祖父は96歳で死去するまで仕事を続けましたが、90歳を超えても、毎日10㎞ほど散歩していました。
首や肩に慢性的な凝り、痛みを抱える方、いませんか?
これは血流が詰まっている状態です。
首や肩を揉んで詰まりを解消しようとしますが、痛い部分を揉んでも全身のエネルギー循環が促されることは少なく、実際は歩く(走る)ほうが効果的です。
歩く(走る)と足の裏が刺激されますが、足の裏は体の中で首や肩から最も遠い場所であり、その遠い場所を活用することで全身のエネルギー循環が活発化し、結果として首や肩の凝り、痛み、それを引き起こす詰まりが解消されます。
足の裏には五臓六腑に通じるツボがあります。歩くと、ツボが刺激されると同時に、心肺機能が活性化します。無理に歩く(走る)必要はありません。自分ができる範囲、体調に差し支えない範囲で歩く(走る)ことが大切です。
さて、歩く(走る)ことで体の機能が活性化すると、心が安定します。
メンタルの不調、つまり悩みを抱え続ける状態というのは、頭にエネルギーが偏り、そのエネルギーが詰まっている状態です。
歩く(走る)ことで、それが解消されます。
頭で考えると悩みから抜け出せませんが、体を動かすとその状態が消えます。
気分転換に散歩する、ちょっと遠出する、そういうことがリフレッシュになるのは、頭が悩みを「忘れる」状況を作り出すからです。
「私は体を動かすことで忙しい」
そうやって脳をだますのです。
アマゾンにある熱帯雨林インディオ地区は、アスファルトで舗装されていません。土の上を裸足で歩くのが彼らの風習です。彼らは足の裏を介して、人間に地球のエネルギーが循環していることを知っています。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方③

おたがいに譲ればすべて解決する

最近は、弁護士会から講演を依頼されることもあります。
そこでよく言われるのが「あなたの考え方には正直驚きましたが、実は私も興味があります」という感想です。
弁護士というのは、依頼人の利益や権利を守るために仕事をします。
だからこそ、相手を攻撃する材料をできるだけ持っていないとダメだと、常に考えて行動する習性があるのですが、私自身はどんな相談や公判においても、まず「争わない」という方向で考えます。
そこがショックだったようです。
人生を続ける限り、私たちは何らかの「立場」を持ちます。
その立場が脅かされる、何とかしてくれ、相手を懲らしめてくれ、そんな感情が顕著に出るのが裁判です。最もシビアな人間関係が暴露されます。
だからもし、裁判になったら絶対に勝たないといけないというのは、世のほとんどの人が考えることでしょう。
でもそこで和解、つまり話し合いで解決できるのなら、それに越したことはありません。これも多くの人が納得できる点だと思いますが、人は怒りに包まれていると、ちょっと先の未来が想像できなくなるものです。
そこにあるのは、相手に対する「恐怖心」です。
恐怖の根源には「知らない(未知)」という感情があります。
相手を知らない、気持もわからない、状況を把握できない、理解できない、考えられない、そんな感情こそ恐怖の根本に存在するものです。
負の感情が成長すると、今度は「知りたくない、わかりたくない」という強い拒否感になります。
弁護士、代理人という職業は、クライアントが敵視する相手を懲らしめる仕事がメインではありません。クライアントに状況を把握してもらい、その状況を解決するためのお手伝いがメインです。
それがわかれば、私がなぜ「争わないこと」を原点にするのかを理解してもらえるのではないでしょうか。依頼人とべったりすることが大切なのではなく、距離感を保ちつつ、解決の道筋を探る共同作業が大切なのです。
この仕事には「互譲の精神」が重要です。
読んで字のごとく、互譲とは「おたがいに譲る」こと。和解は互譲をもって解決するということです。判決はオール・オア・ナッシングですが、和解はおたがいさまの精神で両者の要求が盛り込まれます。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方②

どんな存在であれ、つながっている

争うというのは「善悪のラベル貼り」です。
自分は正しく、相手は間違っている。
それをどんな方法を用いて明白にするか? 係争はその最もたるものです。
相手を非難することで一方的な立場を得ると、一時的に高揚します。自分の正義が認められ、戦場で勝利したかのようないい気分です。以前の私も裁判のたびに、いい気分を味わいたいと思っていました。
でも、目の前で恐怖に怯えているその相手は、自分と「つながっている」存在であることを、忘れないでください。
相手を責めれば責めるほど、その負のエネルギーは後ほど自分へと返りますから、自分の持つエネルギーは汚れます。そうではなく、こちらから愛を送ることで相手の心も愛に包まれ、戻るエネルギーで自分も愛に包まれます。
世の中は、私たち自身の「写し鏡」です。
荒んだ社会も、気持ちいい社会も、私たちが変わることですぐに実現します。一人ひとりが発するエネルギーで作られるのが社会であり、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、すべてにつながっています。
世の中は「自他同然(自分も他人も一緒)」です。
悪いニュースを目にしたとき、被疑者や被告人を責めることは簡単ですが、では自分なら正義を貫けただろうかと、想像してみてください。その嫌悪感を自分への戒めにできれば、心を浄化できます。
そんな想像力こそ、社会を進化させるための原動力です。
私は食べることをやめて、つながりが見えるようになったと言いましたが、さらに判明したことがあります。
それは、私がお会いする人の多くが、以前の人生(過去生)のどこかでお会いしていた人たちということです。実に楽しい発見でした。
太いつながりもあるし、細いつながりもあります。こういうのも再会、あるいはリ・ユニオン、または同窓会とも言えるかもしれません。
何も私だけではありません。この本を読んでいる皆さんも、皆さんの周囲の方々と、どこかの生で出会っている可能性が高いと思います。
「以前の生で解決できなかったことを、解決するために出会っている」
人生は、常に誰かとの共同作業です。
各人が課題を持ち寄り、その解決のためにおたがいに努力しますが、生きていられる時間が限られているから、何度も生まれているのかもしれません。
何だか争いごとが多いなあと感じる人は、今回の人生の課題に「争わない」というテーマがあるのではないでしょうか。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん