朴念仁の戯言

弁膜症を経て

不食という生き方④

歩く(走る)ことで不調は解消される ※(走る)は朴念仁の追記

事務所に相談に来られる方に中には、不調や病気の原因が「運動不足」によるものである方が割といらっしゃいます。
まったく歩けないならまだしも、普通に生活しているのに心身が不調だというケースでは、その多くが運動不足なのです。
とくに現代人は、あまり歩いていません。
ちょっとした距離を車で移動する、これは文明社会のもたらした象徴的な功罪ですが、乗り物による移動を減らし、自分の足で歩く(走る)ことこそ、根本的な悩みにアクセスし、それを解消できる方法なのです。
英文学者だった私の祖父は96歳で死去するまで仕事を続けましたが、90歳を超えても、毎日10㎞ほど散歩していました。
首や肩に慢性的な凝り、痛みを抱える方、いませんか?
これは血流が詰まっている状態です。
首や肩を揉んで詰まりを解消しようとしますが、痛い部分を揉んでも全身のエネルギー循環が促されることは少なく、実際は歩く(走る)ほうが効果的です。
歩く(走る)と足の裏が刺激されますが、足の裏は体の中で首や肩から最も遠い場所であり、その遠い場所を活用することで全身のエネルギー循環が活発化し、結果として首や肩の凝り、痛み、それを引き起こす詰まりが解消されます。
足の裏には五臓六腑に通じるツボがあります。歩くと、ツボが刺激されると同時に、心肺機能が活性化します。無理に歩く(走る)必要はありません。自分ができる範囲、体調に差し支えない範囲で歩く(走る)ことが大切です。
さて、歩く(走る)ことで体の機能が活性化すると、心が安定します。
メンタルの不調、つまり悩みを抱え続ける状態というのは、頭にエネルギーが偏り、そのエネルギーが詰まっている状態です。
歩く(走る)ことで、それが解消されます。
頭で考えると悩みから抜け出せませんが、体を動かすとその状態が消えます。
気分転換に散歩する、ちょっと遠出する、そういうことがリフレッシュになるのは、頭が悩みを「忘れる」状況を作り出すからです。
「私は体を動かすことで忙しい」
そうやって脳をだますのです。
アマゾンにある熱帯雨林インディオ地区は、アスファルトで舗装されていません。土の上を裸足で歩くのが彼らの風習です。彼らは足の裏を介して、人間に地球のエネルギーが循環していることを知っています。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方③

おたがいに譲ればすべて解決する

最近は、弁護士会から講演を依頼されることもあります。
そこでよく言われるのが「あなたの考え方には正直驚きましたが、実は私も興味があります」という感想です。
弁護士というのは、依頼人の利益や権利を守るために仕事をします。
だからこそ、相手を攻撃する材料をできるだけ持っていないとダメだと、常に考えて行動する習性があるのですが、私自身はどんな相談や公判においても、まず「争わない」という方向で考えます。
そこがショックだったようです。
人生を続ける限り、私たちは何らかの「立場」を持ちます。
その立場が脅かされる、何とかしてくれ、相手を懲らしめてくれ、そんな感情が顕著に出るのが裁判です。最もシビアな人間関係が暴露されます。
だからもし、裁判になったら絶対に勝たないといけないというのは、世のほとんどの人が考えることでしょう。
でもそこで和解、つまり話し合いで解決できるのなら、それに越したことはありません。これも多くの人が納得できる点だと思いますが、人は怒りに包まれていると、ちょっと先の未来が想像できなくなるものです。
そこにあるのは、相手に対する「恐怖心」です。
恐怖の根源には「知らない(未知)」という感情があります。
相手を知らない、気持もわからない、状況を把握できない、理解できない、考えられない、そんな感情こそ恐怖の根本に存在するものです。
負の感情が成長すると、今度は「知りたくない、わかりたくない」という強い拒否感になります。
弁護士、代理人という職業は、クライアントが敵視する相手を懲らしめる仕事がメインではありません。クライアントに状況を把握してもらい、その状況を解決するためのお手伝いがメインです。
それがわかれば、私がなぜ「争わないこと」を原点にするのかを理解してもらえるのではないでしょうか。依頼人とべったりすることが大切なのではなく、距離感を保ちつつ、解決の道筋を探る共同作業が大切なのです。
この仕事には「互譲の精神」が重要です。
読んで字のごとく、互譲とは「おたがいに譲る」こと。和解は互譲をもって解決するということです。判決はオール・オア・ナッシングですが、和解はおたがいさまの精神で両者の要求が盛り込まれます。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方②

どんな存在であれ、つながっている

争うというのは「善悪のラベル貼り」です。
自分は正しく、相手は間違っている。
それをどんな方法を用いて明白にするか? 係争はその最もたるものです。
相手を非難することで一方的な立場を得ると、一時的に高揚します。自分の正義が認められ、戦場で勝利したかのようないい気分です。以前の私も裁判のたびに、いい気分を味わいたいと思っていました。
でも、目の前で恐怖に怯えているその相手は、自分と「つながっている」存在であることを、忘れないでください。
相手を責めれば責めるほど、その負のエネルギーは後ほど自分へと返りますから、自分の持つエネルギーは汚れます。そうではなく、こちらから愛を送ることで相手の心も愛に包まれ、戻るエネルギーで自分も愛に包まれます。
世の中は、私たち自身の「写し鏡」です。
荒んだ社会も、気持ちいい社会も、私たちが変わることですぐに実現します。一人ひとりが発するエネルギーで作られるのが社会であり、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、すべてにつながっています。
世の中は「自他同然(自分も他人も一緒)」です。
悪いニュースを目にしたとき、被疑者や被告人を責めることは簡単ですが、では自分なら正義を貫けただろうかと、想像してみてください。その嫌悪感を自分への戒めにできれば、心を浄化できます。
そんな想像力こそ、社会を進化させるための原動力です。
私は食べることをやめて、つながりが見えるようになったと言いましたが、さらに判明したことがあります。
それは、私がお会いする人の多くが、以前の人生(過去生)のどこかでお会いしていた人たちということです。実に楽しい発見でした。
太いつながりもあるし、細いつながりもあります。こういうのも再会、あるいはリ・ユニオン、または同窓会とも言えるかもしれません。
何も私だけではありません。この本を読んでいる皆さんも、皆さんの周囲の方々と、どこかの生で出会っている可能性が高いと思います。
「以前の生で解決できなかったことを、解決するために出会っている」
人生は、常に誰かとの共同作業です。
各人が課題を持ち寄り、その解決のためにおたがいに努力しますが、生きていられる時間が限られているから、何度も生まれているのかもしれません。
何だか争いごとが多いなあと感じる人は、今回の人生の課題に「争わない」というテーマがあるのではないでしょうか。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方①

年末、久しぶりにアマゾンで本を数冊購入した。
パソコンの画面には消費者の購買欲を煽るように、注文した本に関連する本が次から次へと紹介される。
その中にあった本を、行く予定がなかった図書館で偶々見つけ、借りた。
数時間で読める文量だ。
その内容は、表現は違っても今まで読んだ本と同根であり、新鮮味はそれほど感じなかったが、私の確信を裏付けるものだった。
そのいくつかを掲載したい。

(以下、抜粋文)

食べる量を減らす、あるいは食べなくなると、自然界との「つながり」が見えるようになります。
見える、感じる、どんな表現でもいいのですが、自分が自然界とつながっているのが「わかる」ようになるのです。
これは感覚が研ぎ澄まされた状態です。
研ぎ澄まされるということは、普段、鈍い感覚の状態では決して見えなかったものが見える、つまり「霞が晴れてクリアになった」状態です。
そんな状態だから、あらゆる存在と自分との結びつきが見えるのです。
例えば道端に顔を出す名前も知らない雑草を見ただけで、その雑草と自分が太古からつながっていた事実を知ります。
蚊に対してもつながりが見えますので、一切殺さなくなります。
私も以前はさんざん殺していました。でも今は蚊を殺すことで私に「痛み」が走ります。自分の一部が傷つく痛みです。
蚊も自分の延長なのです。ちなみに蚊を殺したいと思った瞬間、その蚊は半殺し状態であり、生きながらにして死んでいます。つながっているからです。
私も普通の人ですから蚊に刺されることくらいありますが、刺されればかゆいものの、10分後には治癒しています。寝ているときに刺されていても起床したときには治っており、刺されることが気になりません。
植物や動物の気持ちも、自然とわかるようになります。
それをされると嫌だ、こうすると楽しい、彼らの気持ちがまるでテレパシーのように伝わります。
つながりを実感することがこんなに幸せなことだったなんて、それまでの私には考えもつきませんでした。
たとえが正しいかどうかわかりませんが、赤ちゃんの気持ちがお母さんに伝わる瞬間に似ているのかもしれません。
この感覚を獲得してから、私が実践し始めたことがあります。
それは相手に対して愛を送ること。
するとその人がだんだん元気になることも判明しました。
ヒーリングの世界では昔から言われていることですが、私は全ての存在と自分とのつながりが見えてから、このエネルギー交換を知りました。
怒りや憎しみではなく「いつもありがとう」「あなたを愛しています」と念じると、念を送られたほうは潜在的な意識で気づくようです。不思議なことに、次第に言葉や態度が変わります。
別につながりが見えなくてもいいのです。
すべてがつながっていることを、頭の隅っこに置いてみてください。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤(あきやまよしたね)さん

 

センター試験以前

大学入試にまつわる不快な記憶が消えたのは、厄年の前にパニック障害うつ病を患い、死なないでいるだけで精いっぱいの底つき体験を経たあたりからだ。
要するに、底上げの価値観のもとでは生きのびられなくなり、ただ生きて在ることの大事さが身にしみた時点で、入試の失敗の苦い思い出なんてどうでもよくなってしまったのだ。
40年前、国立大学の入学試験は一期校と二期校に分けて実施されていた。その名のとおり最初に入試が行われる一期校には東京大学をはじめとする旧帝国大学千葉大学などの旧医科大学が連なり、戦前の専門学校や師範学校が戦後になって昇格したいわゆる駅弁大学の多くは二期校に分類されていた。
どうしても医者になりたかったわけではないが、受験勉強に精を出していると、中学2年からおなじ屋根の下で暮らしだした継母との軋轢(あつれき)をはじめとする日常のわずらわしさから目をそむけていられた。それに、文学が好きだったけれど本業にするほど才能に自信はなく、医者になれば食いっぱぐれがなさそうだったから、医学部をめざした。
浪人の秋の予備校の進路指導で合格確実とされた大学は一期校だった。そのときの過信が妙な余裕を生み、浮ついて臨んだ一期校の試験に落ち、東北の二期校に新設された医学部に受かった。
東京からの都落ちは自意識過剰な若造の根性を強く曲げた。鬱屈(うっくつ)が作家の芽を育てるのだとすれば、この時の挫折体験ほど良質な土壌はない。
芥川賞候補になっては落選し続けた期間、入試のときに味わった悲哀に比べたら屁でもないな、と耐えられた。そして、この歳まで生きて、成らなかったことは縁がなかったのだとあきらめる図太さだけが身についた。
※作家・内科医の南木佳士(なぎけいし)さん(平成22年1月8日地元紙掲載)

 

からだの声に耳傾けて

年を重ねて あきらめ上手に

親しい付き合いの人たちが、このところ続いて大病をしている。仕事が忙しすぎたとか、長年の連れ合いの介護で、自分のからだを顧みる暇がなかったために病気の発見が遅れた人もいる。気にかかっているが何もできない。
みんな60代から70代で、そろそろ病気が出てくる年齢なのだろうか。
中には、普段から飲みすぎに注意していたのに病気になってしまった人もいる。「だから気をつけなさいって言っていたのに、これからは自重してよ」などと、本人が一番そう思っているに違いないのに、余計なことを言ってしまったり、とにかく、身辺に病気の人が多いと気持ちが晴れない。
90歳を過ぎた私が元気でいるのが、申し訳ない気持ちになったりもする。病気を機に、これから体力の限界よりも少し早めに、力を抜いて生きてほしいと願うばかりだ。

亡くなった上坂冬子さんと、健康管理について話をしていた時、こんな話をされたことを思い出す。まだ私の夫が生きていた頃のことだが、「あなたは、そばに止めてくれる人がいるから、極限まで無理することがないのよ。私のような一人ものは、仕事となれば少しくらい体調がおかしくても、起き上がれれば無理しても出かけてしまう。顔色を見て適当に止めてくれる人がいるのといないのとの違いです」
今は私も一人ものだ。止めてくれる人もいないが、からだの方が「これ以上は動けないよ」とでもいうように動かない。そのからだの声に耳を傾けて生きている。限度を超えないのは、年を重ねて身に付いた知恵のせいでもある。今の自分の手に余るものは本能的に避ける、あきらめ上手になっているからだと思う。
私は犬が好きで、道を歩いていても散歩の犬に出合うと、つい顔が笑ってきてしまう。本当は好きな柴犬を飼いたい。30代の頃に、生まれて1カ月くらいの柴犬をもらって、10年いっしょに暮した。毎日散歩をさせるとき、喜んで走りたがる犬の革紐を引っ張る力が、今も私の手に感触として残っている。元気いっぱいの犬とともに歩ける体力がない。それでは飼い主としての責任が果たせないから、あきらめなければならないと思う。
好きなことは、けっしてあきらめずに続けていく、それがしあわせな生き方だと、かたく信じてきたけれど、あきらめが肝心という言葉にすなおに従うこともできるようになってきた。年をとるって本当に面白い。
※生活評論家の吉沢久子さん(平成21年12月4日地元紙掲載)

 

楽屋で聞いた いまわの〝喝〟

◆母の最期
私は、母の龍千代が大好きだった。15歳で娘歌舞伎の世界に飛び込んだ母は、とても厳しく、そして優しい人だった。
私が4、5歳の時、当時流行したインフルエンザで40度の熱にうなされ、ほとんど意識がなくなってしまった時があった。
医者が「すぐに病院に連れて行きましょう。そうしないと死にますよ」と言うと、母は「先生、帰ってください。この子、舞台で殺しますから」と言った。
そして母は「とんちゃん、お客さんがあんたの演技を見るために高いお金払って待ってるんだよ。役者なんだから出てお行き。休みたいなら舞台で倒れな!」と言って、私を舞台に立たせた。後に妹からは、母は舞台の袖で泣いていたと教えられた。
その母が白血病だと聞かされたのは、私が28歳、母が66歳の時だった。医者は「もって半年ですね」と言った。兄弟全員が、愕然とし、兄の武生は「おふくろの好きなことさせような」と力なく言った。
「母ちゃん、どっかに行く?」と聞くと、母は突然「台湾に連れて行ってくれないか」と言った。母は、娘歌舞伎で座長をしていた戦時中、慰問で台湾に行き、芝居と踊りを披露したという。
その時、担架で運ばれて来た今にも死にそうな兵隊が、母の芝居を見て涙を流したそうだ。その姿を見た母は、女優になって良かったとしみじみと思ったという。
兄弟全員で、母を台湾に連れて行った。もう劇場はなかった。私が「ここに劇場があったんだよ」と教えると、母は「わーっ」とその場に泣き崩れた。すると、それから急に元気になり、なんと20年近くも生きてくれたのだ。
15歳で入団した私に「飲む、打つ、買うは役者の基本。芸の肥やしになる」と言って、遊びを奨励したのも母だった。飲まなければ飲べえの気持ちは分からない、ばくちを打たなければ負けた時の悔しさや表情が分からない。そして母は「見栄を張ってでもいい服を着な。ぜいたくもしてみなきゃ、人間の本当の気持ちなんて分からないよ」とも言った。
母の最期の舞台は1997(平成9)年12月、明治座公演楽日のフィナーレだった。車いすで登場した母は「これからも倅たちをよろしくお願いします」と深々と頭を下げ、万雷の拍手を浴びた。その時の光景を思い出すと、今でも目頭が熱くなる。
99年7月8日、母が亡くなった。85歳だった。医者から、もうだめだと聞かされていた時、私はちょうど九州で公演中で、妻が東京・渋谷の病院に付き添っていた。
開演5分前のベルが鳴っても、私は化粧ができなかった。何かの抜け殻のように、楽屋でぼーっとしたままだった。
すると突然「とんちゃん!」と怒る声が聞こえた。間違いなく母の声だった。しかし、母が楽屋にいるはずがない。慌てて携帯電話を取り、妻に電話すると、妻は「何で分かったの?たった今、亡くなったよ」と言った。
そんな体験をしたのは、その一度きりだった。きっと母は最期に「ちゃんと化粧をして舞台に出なさい!」と言いたかったのだろう。私は、そう解釈している。
大衆演劇役者の梅沢冨美男さん(平成21年11月23日地元紙掲載)