朴念仁の戯言

弁膜症を経て

隣席のしずかな涙

本格的に小説を書きはじめたのは22歳になるかならないかといったあたりのことだが、それ以前から、私は将来当然小説を書くのだと思い込んでいた。

はじめにそう思い込んだのは、幼児のころだ。なぜそんなことを思ったのかわからない。私は絵本が好きで、母親に1時間でも2時間でもぶっ通しで絵本を読み聞かせるよう要求し、自分ひとりでも暇さえあれば文字を追っていたので、そのせいなのかもしれない。とにかく、時間がたてば年をとって大人になるのと同じように、自然におはなしをつくる人になるのだと思い込んだ。

体がおとなになると、本は好きだが、暇さえあれば文字を追うというほどでもない人間になっていた。私は美術館の学芸員や、研究者や、カメラマンを志望した。それなのに、思い込みは相変わらずだった。「おはなしをつくる人」という漠然としたことばが小説家という実用的な職業名に取って代わっただけで、ふだん特に思い出しもしないくらい強く思い込み続けていた。

私は美術史や芸術学を勉強し、趣味で写真を撮り、家庭教師をやったりゲームセンターや喫茶店や大学図書館でアルバイトをし、遊んだり、遊びもせずにただ怠けたりしながら、いつもどこかで小説を書くことを念頭に置いていた。小説家をこころざす人々の集まりには、縁がなかった。私はむしろ、まわりの友人の誰ともあまり小説のはなしをしなかった。書くことについてのはなしはもちろんのこと、読んだ本のはなしすら、めったに話題にはあがらなかった。

そういう文学的とはいえない生活のあいまあいまに、私は、私が書く小説の方向性みたいなものをいくつか決めたように思う。

そのうちのひとつを、私はよくおぼえている。いっさい書きもせず、本もたいして読んでいなかったある一時期、私は、大好きな女友達とふたりで映画を見に行った。たしかに恋愛がらみのどたばたコメディーだった。終始内容の軽さに自覚的な、軽快でしゃれた映画で、エンドロールを眺めながら、私は、まあこんなもんかな、などと思っていた。しかし、隣席の友人はしずかに涙を流していた。明かりがつくと、彼女は「現実もあんなふうに終わればいいのに」と照れ笑いをして、また新しい涙を流した。

私はそのとき、彼女が重大で深刻な、彼女ひとりの力では解決しようのない出来事に見舞われて苦しんでいることを知っていた。私はなにも言えず、ただ、このことを小説に書くんだ、と思った。彼女が「現実もあんなふうに終わればいいのに」と思えるような小説を書くのではなくて、彼女が「現実もあんなふうに終わればいいのに」と思ったことをそのまま小説に書くのだと。

そして、ずっとそのようにしているつもりでいる。このたび芥川賞に選ばれた「爪と目」もそうだし、それ以前に書いたものも、そのあとに書いたものもそうだった。私はあのとき友達が泣いたことをまだまったく忘れられないから、これからも別段変わることはないのだろうと思う。

※作家の藤野可織さん(平成25年8月7日地元紙掲載)