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朴念仁の戯言

弁膜症を経て

とてつもない巨人、利休

直木賞に決まって 山本 兼一

このたび、「利休にたずねよ」という作品で、第140回の直木賞をいただくことに決まった。まことに光栄なことだと感謝している。

歴史小説を書くにあたって、わたしは、できるだけ綿密な取材をすることを信条としてきた。

松本清張賞をいただいた「火天の城」を執筆したときは、7年の時間がかかった。

織田信長のために安土城を建てる城大工の物語だが、たっぷりと時間をかけて取材したかいがあって、城郭建設現場のリアリティーが出せたと自負している。この秋には映画化されて公開される予定である。

信長に仕えた鷹匠(たかじょう)を書くときには、鷹狩の会に入って、鷹狩に連れて行っていただいた。自分でモンゴルでの鷹狩も体験してきた。

やはり信長に仕えた砲術師の話を書くにあたっては、火縄銃を手に入れたうえ、火薬の譲受、消費許可を取得して、射撃場で実際に射撃をした。火縄銃の射撃は、いまも趣味として続けている。自分で鉛を溶かして鋳型に流し込んで玉を作るのがたいへんなのだが、全日本選手権大会にも出場している。知らない人に言うとたいていは驚かれるのだが、火縄銃実弾射撃の愛好者は、少数ながらいて、年に4回、全国的な大会が開催されている。

山伏の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)を書くためには、吉野の奥駆け修行や、羽黒山のこもり行に参加した。

刀鍛冶の話を書くときは、親方の工房を訪ね、弟子部屋に泊めてもらって、鍛刀(たんとう)の手伝いを体験させていただいた。

これらの取材は、体育会系で、疲れるし気も張るが、それでも楽しいものだった。

千利休を書くにあたっては、当然、お茶を習わなければならない。

かなり敷居の高さを感じたが、えいっと思い切って、門をたたいた。

通わせていただいたのは、京都紫野大徳寺の塔頭(たっちゅう)でおこなわれている稽古(けいこ)会である。

わたしは、そのお寺の近所で育ち、いまでもそこに住んでいる。自宅から歩いて行ける距離に、利休とゆかりの深いお寺があったことが、そもそも利休を主人公とするこの作品を書くことの大きな動機であった。

お茶を習いに行って、まず驚いたのは、その精妙さである。

茶道をご存じの方にはなんでもないことだが、最初、わたしは、畳の目を数えるということを知らなかった。

客としてすわるときは、畳の縁から十六目。水指の前に茶碗と棗(なつめ)を置くときは、あいだを三目離すー。茶を点(た)てるという華やかな所作のなかに、そんな厳しい規律を持ち込んだ利休という人物が、わたしには、とてつもない巨人に思えた。たしかにそのとおりにしたほうが美しいのである。

さまざまなことを実際に体験するうちに、胸のうちに物語が醸されてくる。

「利休をたずねよ」の場合、物語の醸し具合が、ちょうどころあいだったと、自分でも満足している。

※平成21年3月1日地元朝刊掲載

 

山本氏はこの5年後の平成26年2月13日に亡くなった。

享年57。

同氏の気骨ある著作の数々に今後の動向に注目していただけに早過ぎる死が惜しまれる。

だが、人生の長短がその深浅に等しいとは限らない。

「いかに生きたか」、その意味では充実した人生を送られたものと察する。

山岡鉄舟を主人公にした「命もいらず名もいらず」を近いうちに読んでみたい。

 

若いころ下向いてた

老いの哲学⑧ 俳人宇多喜代子(うだきよこ)さんが語る

 

私が直接、俳句習った桂信子いう人に「一本の白髪おそろし冬の鵙(もず)」いう句があるけど、老いは不意打ちに来ますわね。じわじわ来るようである日、突然。こないだも私の後ろ姿を写真に撮った人がおってそれ見たらまあ、完全におばさんだね。後ろなんて見えないじゃない。「前」は張り切ってやってるつもりでも。もう頑張らないのがいい。逆らう必要ない。

まあ俳句いうのは年寄りも受け入れられる文芸だから、よろしいよ。若いときは「老人の趣味」と言われるのがものすごい嫌だったけどね、明らかにボケ防止にいいと思うようになったわ。適当な頭脳労働でしょ。人と接するでしょ。それと季節とか動植物とか、動くもんに関心を持つでしょ。老人生理学にいいわけ。

今は天体がおもしろい。雲なんかね、一日見てても飽きないね。月の形で今日は何月何日か、だいたい分かるようになったし。若いころは下ばかり向いてたなあと思って。なんか小理屈こねてやっとったけど。エネルギーがなくなるからね、思考の。それもあんまり無理せん方がいい。

かつてこぶしを振り上げて「文学」やってた同輩たちが、今もって同じスタイルで、若い者に負けまいとやっているのを見ると、かわいそうで。「年寄りぶりっこ」の方がいいって。昔から「年寄りぶりっこ」言われてんの、私。松田聖子ちゃんが出てきたころから。

お正月はこうせい、とか、お月見は…とか、お年寄りが言うようなことばっかり言うてたからでしょ。でも昔のお年寄りはそれが、次の歳事を待つのが喜びだったと思うんですよ。今は楽しみの間口が広がったから、あれですけど。

年取るとね、未来ってせいぜい来年の花見までよね。長いスパンで未来を考える必要なくなるのは、今が楽しいいうことでな。おばあさんは「向日葵(ひまわり)の大きな花が咲きにけり」みたいな句つくるわけだ。そりゃそうだわなあ言うて。ほんとおもしろいわ。

阿部みどり女が「九十の端(はした)を忘れ春を待つ」と詠んだりね。九十といくつか忘れた言うの。虚子が年下のお弟子・風生とのことを「風生と死の話して涼しさよ」とかね。晩年みな恬淡(てんたん)として、力を抜いた句をつくる。これはしめたもんですね。なかなか、意識してできるもんではないから。

私はそうねえ。「粽(ちまき)結う死後の長さを思いつつ」「死に未来あればこそ死ぬ百日紅さるすべり)」。これは親しくしてた中上健次が死んだときに詠んだ句ですけど、あれは実感だったな。死んでからの方が長いな、と。死んでからずーっと死んでるんだな、と。若いときに詠んだ死の句とは全然違う。

観念的じゃなくなるね。親しい人が多く向こうへ行くとね、向こうの世の方が近くなる感じで。日野草城の「菊見事死ぬときは出来るだけ楽に」やないけど、痛くなかろうか、くらいでね。

※平成2136日地元朝刊掲載

 

 

人間弾圧の象徴、復元を

歩み来て、未来へ ハンセン病重監房

足元にある食事の差し入れ口から骨と皮だけの手が突き出ていた。それが右に左に泳ぐ。
しゃがんで声をかけた。「飯だよ。早く引っ込めて」。「あぁ?」。独房から男の声がして、一瞬、手の動きが止まった。だが、また宙をさまよう。「早くしなよ。飯なんだから」。「わあぁ」。今度は奇声になった。
「放っておけッ」。後ろにいた看守が怒鳴る。「飯なんかやらなくていい。次の房へ行け」
群馬県草津市国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」にあった患者の監禁施設、通称「重監房」。入園者の鈴木幸次(85)は太平洋戦争末期の数カ月間、そこに食事を運んだ。「翌日、給食係に行くと一人分減っていた。死んだんだよ」。60年以上過ぎても忘れない。「人間に対する扱いじゃねぇよ」
 医療はせず
標高1,200㍍の草津高原。温泉街から3㌔ほどの森の中、約360平方㍍の広さに重監房の礎石が残る。正式名称は「特別病室」。だが医療が行われた形跡はない。
当時足を踏み入れた鈴木らの証言では、コンクリートで造られ、高さ約4㍍、中には独居房が八つあった。入り口から鉄の扉を四、五枚開けてようやく房にたどり着く。通路には屋根がない。冬の寒さは厳しく、氷点下20度近くまで下がり、積雪も深かった。四畳半ほどの広さの房には暖房も照明もなく、縦10㌢、横約80㌢の素通しの窓が唯一の明かりだった。
食事は午前8時半と午後2時半の2回。地面から30㌢の高さの差し入れ口を通して渡した。じゃがいもや大根を混ぜて炊いた麦飯一膳(いちぜん)ぐらいに梅干しやたくあん。器に盛るのではなく、木の箱にそのまま載せた。
重監房が使われたのは1938-47年の9年間。記録によれば、この間に92人が収監され、14人が〝獄死〟、8人が出所後に死亡したとされる。だがその記録が正確かどうか。
「そんな数じゃすまない」。鈴木は言下に否定した。
収監者を外に出して風呂に入れるのを見たことがある。「おばけだった。やせすぎて浮いてくるから、係の人が湯に押し込んでいた」
 責任問わず
ハンセン病患者を隔離する法律が制定されたのは1907年、医学的根拠はなかった。患者の不満が高まり、逃走や反発が増えると、政府は弾圧を強め、監禁などの懲戒権限を各所長に与えた。
新潟大医学部准教授の宮坂道夫(44)(医療倫理学)は「欧米諸国に並ぼうと近代国家を目指した日本にとって、ハンセン病は後進性の象徴だった」とみる。患者は〝国辱〟として隠ぺい、排除された。「隔離ばかりか、強制労働、懲罰制度にも誰も疑問を抱かないほど人権意識がなかった」
近代国家をアピールするつもりで露呈したのは、皮肉にも後進性だった。
実家の農作業で一時療養所を抜け出したり、賭けをして遊んだりした人たちが、全国の療養所から重監房に送られた。「草津送りするぞ」。職員がこの一言を発すると、患者たちは何も言えなくなったという。
重監房は戦後、楽泉園入園者が待遇改善を求めた47年の〝人権闘争〟で使用中止に。人道問題として国会で取り上げられ調査もされたが、設置や運営の責任が問われることはなかった。53年に取り壊されたとされるが確かな記録さえない。
 続いた隔離
特効薬の投与が始まった戦後も「公共の福祉」の名の下に隔離は続く。開始から90年、強制隔離は96年に終止符を打った。2001年には熊本地裁が隔離政策の違憲性を認める。歴史はようやく正しく流れ始めた。
東京都東村山市の多磨全生園入園者自治会長佐川修(78)は「判決以降、社会が関心を持ち、回復者が自由に発言できる環境ができた」と話す。
「重監房は日本のアウシュビッツだ」。楽泉園入園者自治会副会長の谺雄二(76)はナチス・ドイツによるユダヤ強制収容所になぞらえ、人権弾圧の象徴として復元を求めている。
宮坂は02年、新潟大に谺を招き講演会を開催、その主張に共鳴した。「栗生楽泉園・重監房の復元を求める会」を設立、10万人以上の署名を集めて04年6月、厚生労働省に提出した。同省は08年から復元に向けて調査を始めている。
公立の療養所が設立されて今年で100年。55年に1万人を超えた入所者は全国15施設で2700人に減り、平均年齢は80歳近くになった。4月にはハンセン病問題基本法が施行、療養所の一般開放も目前に迫る。
楽泉園の自治会は今、千㌻を超える「証言集」を編んでいる。鈴木は重監房の話を含め10時間以上、体験を証言した。
人間として扱われず死んでいった仲間たち。「重監房の体験を人権教育の基礎にしてほしい」。記憶を語る鈴木のほおを、涙が伝った。
(敬称略、文・平野雄吾さん)平成21年3月7日地元朝刊掲載

 

尺蠖(せきかく)の屈するは

尺蠖之屈、以求信也 『易経

全体は「尺蠖の屈するは、以(もっ)て信(の)びんことを求むるなり」。尺蠖は、尺取り虫。信は伸と同じ意味で、のびる。
尺取り虫が体を曲げるのは、伸ばそうとしてのことである、との意。
尺取り虫が身を屈するのと同じく、人間も一時的に不遇であっても、それは将来に備えての準備なのだ、ということ。
もとの文では「竜蛇の蟄(かく)るるは、以て身を存するなり―竜や蛇が、冬蟄居(ちっきょ)するのは、身を守るためである。人も時には退いて後日に備えねばならぬ」と続いており、将来に備えることの大切さをいう言葉。
(監修は全国漢文教育学会長の石川忠久さん、本文は鶴見大教授の田口暢穂さん)
※平成21年2月27日地元朝刊掲載

 

命(めい)を知る者は天を怨まず

知命者不怨天、知己者不怨人 『説苑(ぜいえん)』

後半は「己(おのれ)を知る者は人を怨まず」。命(めい)は、天が定めためぐり合わせ。天命。
天命を知る者は、何事も天の定めたことで、人の力ではどうにもならないことだからだと考え、天を怨まない。自分を知る者は、他人の自分に対する態度は、自分の言動、態度に原因があるのだから仕方がないと考えて反省し、人を怨まない、ということ。
天命に逆らわないというのは、中国の伝統的な人生観だが、現代ではちょっと通じにくいかもしれない。だが後半は、国や時代を超えて、一人ひとりに大切な心構えだ。
(監修は全国漢文教育学会長の石川忠久さん、本文は鶴見大教授の田口暢穂(のぶお)さん)
※平成21年2月25日地元朝刊掲載

稀勢、執念の変化

検証 春場所逆転V

26日終了の大相撲春場所エディオンアリーナ大阪)で、新横綱稀勢の里の劇的な逆転優勝がファンの感動を呼んだ。13日目に左上腕部を負傷しながら強行出場し、千秋楽に本割、決定戦で奇跡の2連勝。背景などを検証した。
休場危機に陥った13日目の夜以降、東京や千葉、静岡から旧知の専門家が大阪へ駆け付けて治療を施した。前向きになり、「やると決めた以上は絶対諦めないでやると思った」と決意した。患部にテーピングをした14日目は横綱鶴竜に完敗で2敗目を喫した。
1敗で首位だった大関照ノ富士との千秋楽。15歳での初土俵から立ち合いの変化に頼ることのなかった稀勢の里が、本割で迷わず左右に動いた。変化は褒められるものではないが、勝利への執念がにじみ出た。二日ぶりに行ったこの日の朝稽古。右に変わり、もろ手突きを試す周到さだった。
最初の立ち合いで右へ変化したが不成立。「同じことはできない」と二度目は左へ跳び、動き続ける。痛む左差し手を抜き、相手を俵伝いの右突き落としで仕留めた。
2002年初場所千秋楽。千代大海との優勝決定戦を変化で制した玉ノ井親方(元大関栃東)は言う。「大一番での変化は相当な覚悟がいる。腹を決める以外にない」。そして本割の
稀勢の里を見て、「開き直って、下半身で取っていた」と決定戦での勝利を確信した。
不慣れなもろ手突きで立った決定戦。稀勢の里はもろ差しを許して後退しながら土俵際の右小手投げで逆転した。「上(半身)が駄目なら下でやろう。疲れはなく、下半身の出来がすごく良かった」と話す。大関昇進後に合気道で学んだ「上1、下9」との理論に下半身強化の重要性を再認識。四股やすり足を増やした努力が逆境で生きた。
照ノ富士は13日目に古傷の左膝痛を悪化させ、歩くのもやっとだったという。加えて、14日目に稀勢の里と当たった鶴竜が「こんなやりづらいものはない」と語ったように、目立つ大けがをした相手と取る難しさも、逆転の陰に見え隠れする。
稀勢の里の左上腕は内出血で赤黒く変色し、春巡業の休場を決断するほどの症状だ。新横綱は「自分一人の力じゃない。見えない力」と無形の力を勝因に挙げる。表彰式で君が代の大合唱の中、初優勝の先場所以上に涙を流した。(田井さん)
平成29年3月31日地元朝刊掲載

「私の肝臓をあげます」

いのちのコンパス 生体移植という選択
余命3カ月の父助けたい

付き合って7年の彼は心配しないかな。そんなことを考える前に、川野祥子さん(28)の口は動いていた。
「私の肝臓を、父にあげます」

2006年4月、父の弘さん(55)に付き添って鹿児島県内の病院を訪れた時のことだ。弘さんは肝臓がんと診断され、体調は日々悪化していた。この日の診察では、ついに「余命3カ月」と告げられた。
駐車場の車の中で黙り込む弘さん。祥子さんはいま出てきたばかりの診察室に一人で引き返し、医師に尋ねた。
「父を助けるには、移植しかないんですよね」
「そうは言っても、提供者が決まらないことには始まりません」
医師は机の書類に目を落としたまま、気乗りしない様子で答えた。脳死移植は提供数が極めて少なく、生体移植はドナー(提供者)に大きな負担を強いる。肝臓では、手術に伴うドナーの死亡例も国内で一例だけある。
家族と離れ、島にある小学校の保健室で働く母恵子さん(52)には健康上の不安があり、提供は難しい。あとは自分と、二人の妹。祥子さんは迷わず提供の意思を伝えた。医師は顔を上げ、祥子さんをじっと見つめた。
帰宅後、祥子さんは寝室にいた父に「移植するから」と告げた。返事は聞かずドアを閉めた。
自分のためにドナーになろうとしている娘。弘さんの心は揺れた。うまくいくと限らないのにわが子の体にメスを入れていいのか。たとえ自分は助かっても、娘に万一のことがあったら。
「何を考えているの?」。祥子さんから突然問い掛けられた。余命宣告から数日後の夜。迷ったまま、テレビをぼんやり眺めていた。
数秒の沈黙。「移植はしなくても…」。うつむいたまま、口にした。
「お父さん、生きたいの、生きたくないの?」
怒ったような口調。弘さんは気おされた。
「…生きたいよ」
「じゃあ、決まり」
祥子さんはさらりと言った。
当初は提供に賛成だった恵子さんは、移植の準備が進むにつれて、最悪の事態ばかり考えるようになった。
「もし命がなくなったらどうするの」。祥子さんに毎日電話をかけ、泣きじゃくった。
祥子さんと交際していた山本陽平さん(30)も、本音は提供に反対だった。インターネットで情報を集め、医師の説明も聞いたが、不安は募るばかりだった。
言い出したら聞かない性格の祥子さん。どうしても止めたくて、遠回しに思いを伝えた。「事の重大さを分かっているの?」「怖いなら怖いって言っていいよ」。
祥子さんの気持ちは変わらなかった。でも心配してくれる両親や彼のことは気掛かりだ。
「私にもしものことがあったら、この人たちはどんなに悲しむだろう」
手術は6月15日と決まった。祥子さんは入院のための着替えをバッグに詰めながら、そう考えていた。(文中仮名)
※平成21年2月23日地元朝刊掲載