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朴念仁の戯言

弁膜症を経て

善人なおもて往生す、いわんや悪人をや

母が鼠径ヘルニアの手術で入院した。

手術日は5月16日だった。

妹は前日から母に付きっきりで、朝は病院で朝食が出る前から病室に出張り、夜は母が夕食を食べ終わるのを見届けてから家路に着いた。

その間、細やかな配慮は休むことがない。

妹のその姿から献身という言葉が頭に浮かび、人に尽くすとはどういうことか、私にありありと教え示す。

と同時に、妹の清らかな無心の行動は私のひねくれた心をあぶり出し、私を不快にさせる。

男女の違いで気が利く利かないは関係ない。

その気があるかどうか。

男女の前の一人の人間としてその気を起こそうとしない己に反吐が出る。

手術後の不自由な体の母へ、労わりの言葉の代わりに小言を発する私。

母が年老いてゆくことへの無性の怒りと愛しさがごちゃまぜになって。

妹よ、ありがとう。

弟よ、ありがとう。

私は愚かな悪人です。

 

南極と犬

歩み来て、未来へ 12 観測に貢献、危険察知

 

10㍍先に2匹の犬がいた。毛が伸び、子グマのように丸くなっているが、確かに置き去りにした犬だった。近寄って来ない。こちらも足を踏み出せなかった。

1956年の第一次南極地域観測隊犬ぞり係だった九州大名誉教授、北村泰一(77)の脳裏には、50年前のその光景が自責の念とともに焼きついている。

 活 躍

日本人と極地の歴史はカラフト犬を抜きにしては語れない。カラフト犬は寒さに強く、粗末な食事にも耐え、力が強い。

20世紀初め、日本人として初めて南極探検に挑んだ陸軍中尉、白瀬矗(のぶ)もカラフト犬を連れていた。当時、南極点は前人未到、誰が先んじるかが大きな関心を集めた。白瀬、アムンゼンノルウェー)、スコット(英)らが国家と国民の期待を背負って競争していた。 

白瀬は10年に東京・芝浦港を出港、12年に南緯80度05分まで到達するが、極点には届かない。20匹のカラフト犬を置き去りにした。白瀬は生涯悔やみ、帰国後、仏前に「犬隊員」と書いて供養したという。

戦後の南極観測に犬ぞりを導入したのは第一次越冬隊長で探検家でもあった故西堀栄三郎だった。北村を含む一次隊53人はカラフト犬とともに56年11月、観測船「宗谷」で南極へと向かった。

極寒の地。雪上車は頻繁に故障した。それに代わって犬ぞりが大活躍する。走行距離は雪上車を超えた。

「それ以上に、犬たちには何度も命を救われた」。北村はそう振り返る。

昭和基地から約200㌔離れた山ボツンヌーテンに犬ぞりで向かったとき、先頭の犬が急に止まった。その先には氷の大きな割れ目。

別の場所では、先頭の犬が割れ目を飛び越えて行った後、別の犬が立ち止まった。落ちたら生還できない。「犬には危険を察知する能力があった」

 再 会

一次隊は西堀、北村ら11人が越冬、犬たちも残った。装備が貧しく、食料も燃料も潤沢とはいえなかった越冬隊は「生きて帰ればよろしい」と言われたという。

58年2月、二次隊が来るが、天候の悪化で昭和基地にたどり着けない。北村ら一次隊は小型飛行機で宗谷に帰還した。15匹の犬は鎖につないで基地に残した。

北村は三次隊に参加、一年ぶりに昭和基地に到着する。2匹の生き残りに再会したのはその時だった。

置き去りにしたことを恨んでいるはず。動けなかったのはそう思ったからだ。2匹がどの犬か分からず、残した犬の名を片っ端から呼んだ。

「タロか」。そう呼んだとき、1匹のしっぽが動いたような気がした。「タロか」。もう一度叫ぶとしっぽが大きく揺れた。

もう1匹に呼び掛ける。「じゃジロか」。お手のポーズを取った。ジロの癖だった。

置き去りにした一年前の重苦しい空とは打って変わって陽光がまぶしかった。北村と2匹の犬はどちらかともなくにじり寄る。やがて抱き合った。

ほかは7匹は鎖につながれたまま死んでいた。あと6匹の姿はなかった。

「15匹は単なる犬ではない。南極を生き抜いた戦友だ」。北村は死んだ7匹をソリに乗せ、南極の海に水葬した。「魂がつぶれた」。しぼり出すような声だった。

日本は南極でオゾンホールを観測し、大量の隕石(いんせき)を発見した。今年、南極から帰った第四十九次越冬隊長の牛尾収輝(46)は「犬ぞり時代から積み上げてきた観測データが大きな成果をもたらした」と話す。

移動手段として欠かせなかった犬ぞりは今、ヘリコプターや高性能の雪上車に取って代わられた。カラフト犬の姿はない。

 供 養

京都府舞鶴市の造船所。初代「宗谷」から四代目となる南極観測船、新「しらせ」の建造が急ピッチで進む。その名は白瀬中尉にちなむ。世界トップクラスの砕氷能力、最新鋭の観測機器、LAMも配備される。11月に初航海の予定だ。

だが、北村は最近の観測・研究には批判的だ。「機器や設備に頼りすぎではないか。研究者も基地の中にばかりいる。外に出て、だれもやっていないことをやるという冒険心がなければ新しい発見もない」

タロ・ジロとの再会から9年後、昭和基地近くで白い犬が死んでいるのが見つかった。特徴から、行方不明だった6匹のうち「リキ」の可能性が高い。

「南極で活躍したのはタロ・ジロだけではない」。あれから半世紀、北村は今年、再び南極を訪れ、犬たちを供養してやりたいと願っている。77歳の隊員は前例がない。選ばれるかどうか。

「でも『ありがとう。すまなかった』と言ってやりたいんです」

(文・沢野林太郎さん)平成21年3月28日地元朝刊掲載

 

とてつもない巨人、利休

直木賞に決まって 山本 兼一

このたび、「利休にたずねよ」という作品で、第140回の直木賞をいただくことに決まった。まことに光栄なことだと感謝している。

歴史小説を書くにあたって、わたしは、できるだけ綿密な取材をすることを信条としてきた。

松本清張賞をいただいた「火天の城」を執筆したときは、7年の時間がかかった。

織田信長のために安土城を建てる城大工の物語だが、たっぷりと時間をかけて取材したかいがあって、城郭建設現場のリアリティーが出せたと自負している。この秋には映画化されて公開される予定である。

信長に仕えた鷹匠(たかじょう)を書くときには、鷹狩の会に入って、鷹狩に連れて行っていただいた。自分でモンゴルでの鷹狩も体験してきた。

やはり信長に仕えた砲術師の話を書くにあたっては、火縄銃を手に入れたうえ、火薬の譲受、消費許可を取得して、射撃場で実際に射撃をした。火縄銃の射撃は、いまも趣味として続けている。自分で鉛を溶かして鋳型に流し込んで玉を作るのがたいへんなのだが、全日本選手権大会にも出場している。知らない人に言うとたいていは驚かれるのだが、火縄銃実弾射撃の愛好者は、少数ながらいて、年に4回、全国的な大会が開催されている。

山伏の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)を書くためには、吉野の奥駆け修行や、羽黒山のこもり行に参加した。

刀鍛冶の話を書くときは、親方の工房を訪ね、弟子部屋に泊めてもらって、鍛刀(たんとう)の手伝いを体験させていただいた。

これらの取材は、体育会系で、疲れるし気も張るが、それでも楽しいものだった。

千利休を書くにあたっては、当然、お茶を習わなければならない。

かなり敷居の高さを感じたが、えいっと思い切って、門をたたいた。

通わせていただいたのは、京都紫野大徳寺の塔頭(たっちゅう)でおこなわれている稽古(けいこ)会である。

わたしは、そのお寺の近所で育ち、いまでもそこに住んでいる。自宅から歩いて行ける距離に、利休とゆかりの深いお寺があったことが、そもそも利休を主人公とするこの作品を書くことの大きな動機であった。

お茶を習いに行って、まず驚いたのは、その精妙さである。

茶道をご存じの方にはなんでもないことだが、最初、わたしは、畳の目を数えるということを知らなかった。

客としてすわるときは、畳の縁から十六目。水指の前に茶碗と棗(なつめ)を置くときは、あいだを三目離すー。茶を点(た)てるという華やかな所作のなかに、そんな厳しい規律を持ち込んだ利休という人物が、わたしには、とてつもない巨人に思えた。たしかにそのとおりにしたほうが美しいのである。

さまざまなことを実際に体験するうちに、胸のうちに物語が醸されてくる。

「利休をたずねよ」の場合、物語の醸し具合が、ちょうどころあいだったと、自分でも満足している。

※平成21年3月1日地元朝刊掲載

 

山本氏はこの5年後の平成26年2月13日に亡くなった。

享年57。

同氏の気骨ある著作の数々に今後の動向に注目していただけに早過ぎる死が惜しまれる。

だが、人生の長短がその深浅に等しいとは限らない。

「いかに生きたか」、その意味では充実した人生を送られたものと察する。

山岡鉄舟を主人公にした「命もいらず名もいらず」を近いうちに読んでみたい。

 

若いころ下向いてた

老いの哲学⑧ 俳人宇多喜代子(うだきよこ)さんが語る

 

私が直接、俳句習った桂信子いう人に「一本の白髪おそろし冬の鵙(もず)」いう句があるけど、老いは不意打ちに来ますわね。じわじわ来るようである日、突然。こないだも私の後ろ姿を写真に撮った人がおってそれ見たらまあ、完全におばさんだね。後ろなんて見えないじゃない。「前」は張り切ってやってるつもりでも。もう頑張らないのがいい。逆らう必要ない。

まあ俳句いうのは年寄りも受け入れられる文芸だから、よろしいよ。若いときは「老人の趣味」と言われるのがものすごい嫌だったけどね、明らかにボケ防止にいいと思うようになったわ。適当な頭脳労働でしょ。人と接するでしょ。それと季節とか動植物とか、動くもんに関心を持つでしょ。老人生理学にいいわけ。

今は天体がおもしろい。雲なんかね、一日見てても飽きないね。月の形で今日は何月何日か、だいたい分かるようになったし。若いころは下ばかり向いてたなあと思って。なんか小理屈こねてやっとったけど。エネルギーがなくなるからね、思考の。それもあんまり無理せん方がいい。

かつてこぶしを振り上げて「文学」やってた同輩たちが、今もって同じスタイルで、若い者に負けまいとやっているのを見ると、かわいそうで。「年寄りぶりっこ」の方がいいって。昔から「年寄りぶりっこ」言われてんの、私。松田聖子ちゃんが出てきたころから。

お正月はこうせい、とか、お月見は…とか、お年寄りが言うようなことばっかり言うてたからでしょ。でも昔のお年寄りはそれが、次の歳事を待つのが喜びだったと思うんですよ。今は楽しみの間口が広がったから、あれですけど。

年取るとね、未来ってせいぜい来年の花見までよね。長いスパンで未来を考える必要なくなるのは、今が楽しいいうことでな。おばあさんは「向日葵(ひまわり)の大きな花が咲きにけり」みたいな句つくるわけだ。そりゃそうだわなあ言うて。ほんとおもしろいわ。

阿部みどり女が「九十の端(はした)を忘れ春を待つ」と詠んだりね。九十といくつか忘れた言うの。虚子が年下のお弟子・風生とのことを「風生と死の話して涼しさよ」とかね。晩年みな恬淡(てんたん)として、力を抜いた句をつくる。これはしめたもんですね。なかなか、意識してできるもんではないから。

私はそうねえ。「粽(ちまき)結う死後の長さを思いつつ」「死に未来あればこそ死ぬ百日紅さるすべり)」。これは親しくしてた中上健次が死んだときに詠んだ句ですけど、あれは実感だったな。死んでからの方が長いな、と。死んでからずーっと死んでるんだな、と。若いときに詠んだ死の句とは全然違う。

観念的じゃなくなるね。親しい人が多く向こうへ行くとね、向こうの世の方が近くなる感じで。日野草城の「菊見事死ぬときは出来るだけ楽に」やないけど、痛くなかろうか、くらいでね。

※平成2136日地元朝刊掲載

 

 

人間弾圧の象徴、復元を

歩み来て、未来へ ハンセン病重監房

足元にある食事の差し入れ口から骨と皮だけの手が突き出ていた。それが右に左に泳ぐ。
しゃがんで声をかけた。「飯だよ。早く引っ込めて」。「あぁ?」。独房から男の声がして、一瞬、手の動きが止まった。だが、また宙をさまよう。「早くしなよ。飯なんだから」。「わあぁ」。今度は奇声になった。
「放っておけッ」。後ろにいた看守が怒鳴る。「飯なんかやらなくていい。次の房へ行け」
群馬県草津市国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」にあった患者の監禁施設、通称「重監房」。入園者の鈴木幸次(85)は太平洋戦争末期の数カ月間、そこに食事を運んだ。「翌日、給食係に行くと一人分減っていた。死んだんだよ」。60年以上過ぎても忘れない。「人間に対する扱いじゃねぇよ」
 医療はせず
標高1,200㍍の草津高原。温泉街から3㌔ほどの森の中、約360平方㍍の広さに重監房の礎石が残る。正式名称は「特別病室」。だが医療が行われた形跡はない。
当時足を踏み入れた鈴木らの証言では、コンクリートで造られ、高さ約4㍍、中には独居房が八つあった。入り口から鉄の扉を四、五枚開けてようやく房にたどり着く。通路には屋根がない。冬の寒さは厳しく、氷点下20度近くまで下がり、積雪も深かった。四畳半ほどの広さの房には暖房も照明もなく、縦10㌢、横約80㌢の素通しの窓が唯一の明かりだった。
食事は午前8時半と午後2時半の2回。地面から30㌢の高さの差し入れ口を通して渡した。じゃがいもや大根を混ぜて炊いた麦飯一膳(いちぜん)ぐらいに梅干しやたくあん。器に盛るのではなく、木の箱にそのまま載せた。
重監房が使われたのは1938-47年の9年間。記録によれば、この間に92人が収監され、14人が〝獄死〟、8人が出所後に死亡したとされる。だがその記録が正確かどうか。
「そんな数じゃすまない」。鈴木は言下に否定した。
収監者を外に出して風呂に入れるのを見たことがある。「おばけだった。やせすぎて浮いてくるから、係の人が湯に押し込んでいた」
 責任問わず
ハンセン病患者を隔離する法律が制定されたのは1907年、医学的根拠はなかった。患者の不満が高まり、逃走や反発が増えると、政府は弾圧を強め、監禁などの懲戒権限を各所長に与えた。
新潟大医学部准教授の宮坂道夫(44)(医療倫理学)は「欧米諸国に並ぼうと近代国家を目指した日本にとって、ハンセン病は後進性の象徴だった」とみる。患者は〝国辱〟として隠ぺい、排除された。「隔離ばかりか、強制労働、懲罰制度にも誰も疑問を抱かないほど人権意識がなかった」
近代国家をアピールするつもりで露呈したのは、皮肉にも後進性だった。
実家の農作業で一時療養所を抜け出したり、賭けをして遊んだりした人たちが、全国の療養所から重監房に送られた。「草津送りするぞ」。職員がこの一言を発すると、患者たちは何も言えなくなったという。
重監房は戦後、楽泉園入園者が待遇改善を求めた47年の〝人権闘争〟で使用中止に。人道問題として国会で取り上げられ調査もされたが、設置や運営の責任が問われることはなかった。53年に取り壊されたとされるが確かな記録さえない。
 続いた隔離
特効薬の投与が始まった戦後も「公共の福祉」の名の下に隔離は続く。開始から90年、強制隔離は96年に終止符を打った。2001年には熊本地裁が隔離政策の違憲性を認める。歴史はようやく正しく流れ始めた。
東京都東村山市の多磨全生園入園者自治会長佐川修(78)は「判決以降、社会が関心を持ち、回復者が自由に発言できる環境ができた」と話す。
「重監房は日本のアウシュビッツだ」。楽泉園入園者自治会副会長の谺雄二(76)はナチス・ドイツによるユダヤ強制収容所になぞらえ、人権弾圧の象徴として復元を求めている。
宮坂は02年、新潟大に谺を招き講演会を開催、その主張に共鳴した。「栗生楽泉園・重監房の復元を求める会」を設立、10万人以上の署名を集めて04年6月、厚生労働省に提出した。同省は08年から復元に向けて調査を始めている。
公立の療養所が設立されて今年で100年。55年に1万人を超えた入所者は全国15施設で2700人に減り、平均年齢は80歳近くになった。4月にはハンセン病問題基本法が施行、療養所の一般開放も目前に迫る。
楽泉園の自治会は今、千㌻を超える「証言集」を編んでいる。鈴木は重監房の話を含め10時間以上、体験を証言した。
人間として扱われず死んでいった仲間たち。「重監房の体験を人権教育の基礎にしてほしい」。記憶を語る鈴木のほおを、涙が伝った。
(敬称略、文・平野雄吾さん)平成21年3月7日地元朝刊掲載

 

尺蠖(せきかく)の屈するは

尺蠖之屈、以求信也 『易経

全体は「尺蠖の屈するは、以(もっ)て信(の)びんことを求むるなり」。尺蠖は、尺取り虫。信は伸と同じ意味で、のびる。
尺取り虫が体を曲げるのは、伸ばそうとしてのことである、との意。
尺取り虫が身を屈するのと同じく、人間も一時的に不遇であっても、それは将来に備えての準備なのだ、ということ。
もとの文では「竜蛇の蟄(かく)るるは、以て身を存するなり―竜や蛇が、冬蟄居(ちっきょ)するのは、身を守るためである。人も時には退いて後日に備えねばならぬ」と続いており、将来に備えることの大切さをいう言葉。
(監修は全国漢文教育学会長の石川忠久さん、本文は鶴見大教授の田口暢穂さん)
※平成21年2月27日地元朝刊掲載

 

命(めい)を知る者は天を怨まず

知命者不怨天、知己者不怨人 『説苑(ぜいえん)』

後半は「己(おのれ)を知る者は人を怨まず」。命(めい)は、天が定めためぐり合わせ。天命。
天命を知る者は、何事も天の定めたことで、人の力ではどうにもならないことだからだと考え、天を怨まない。自分を知る者は、他人の自分に対する態度は、自分の言動、態度に原因があるのだから仕方がないと考えて反省し、人を怨まない、ということ。
天命に逆らわないというのは、中国の伝統的な人生観だが、現代ではちょっと通じにくいかもしれない。だが後半は、国や時代を超えて、一人ひとりに大切な心構えだ。
(監修は全国漢文教育学会長の石川忠久さん、本文は鶴見大教授の田口暢穂(のぶお)さん)
※平成21年2月25日地元朝刊掲載