朴念仁の戯言

弁膜症を経て

生きることは幸せか

壊れていった家族

宮古島の官庁街にほど近い集落に住んでいた42歳のひろ子さんが連絡をくれたのは、訪問診療の患者が増えてきた頃だった。
「私がこうなったのは、祟りのせいだと医者に言われた」と、ろれつの回らない島のなまりで言った。

ひろ子さんは数年前から体の安定が悪く、歩けなくなっていた。
動きの微調整ができずにあちこちに体をぶつけてしまう。
家の中を這って生活していた。

簡単な検査から、脊髄小脳変性症と考えられた。
筋力の調整と体のバランスが利かなくなり、最後は動けなくなる病気である。
夫と息子さんが介護していた。
沖縄本島まで行って「祟り」と言われたという。

生活に困窮しているこの家族を救いたくて、俺は訪問診療を開始した。
動きも力も制御できないひろ子さんは、体のあちこちに傷をつくった。
気を付けていないと診察している俺や介護している家族にも、本人と意思とは関係なく腕や頭をしたたかにぶつけてきた。

ひろ子さんは悲観的で、何度も自殺を試みたが、一階の窓から落ちる程度だった。
一度だけ、食器棚のガラスを叩き割って胸を刺そうとしたが上手くいかず、押さえ込んだ俺の手を傷付けた。
それからはおとなしくなった。

しばしば痙攣発作を起こしたが、病院の検査は拒否して、その都度往診した。
根本的な治療はできず、対症療法を続けるしかなかった。

次第に家族の関係が壊れていった。
子供たちも夫も、家に寄り付かなくなった。
立派な一軒家は人手に渡ることになり、ひろ子さんは民宿を営む母親に引き取られた。

数年後、訪問診療を依頼してきた60歳の男性の名前に見覚えがあった。
離婚したひろ子さんの元夫だった。
彼は末期の膵臓がんに侵され、診療開始からわずか三カ月で看取るまでの間、ひろ子さんの話は一切せず、小さなアパートで寄り添っていた外国人の女性に見守られて、静かな笑顔で最期を迎えた。

ひろ子さんの母親から、娘を施設に入れたいという連絡があった。
自宅の民宿を手放すという。
ひろ子さんに選択の余地はなかった。
そして、母親の消息は途絶えた。
ひろ子さんは施設に入り、俺の手を離れた。

10年以上が経過したある日、外科の処置を頼まれてその施設へ行くことがあった。
デイルームで車椅子に乗ったひろ子さんを見つけ、笑顔であいさつしたが、虚(うつ)ろな目で「誰か?」と訊かれた。
反応が鈍く、言葉もほとんど発しなかった。

生きることが幸せなのか、また分からなくなった。

※医療法人鳥伝白川会理事長の泰川恵吾さん(平成28年年5月6日地元紙掲載「生きること死ぬこと」より

大きく開いた目

独りで逝った人

診察室に、死んだ獣のような臭いが漂っていた。
診療ベッドにうずくまって背中を丸めていた女性が振り返った。
「飯田さんですね。担当の泰川と言います」
彼女は脂気のない黒髪の中からギラギラした大きな目をのぞかせて、真っ直ぐに俺を見た。
「ああ、よろしくね。この痛いの、何とかしてよ」
東京・新宿の東京女子医大病院で半年以上研修医をしていたが、こんな愛嬌のない女性は初めてだった。
飯田さんは左右両側の乳がんで、左側には異臭を放つクレーター状の潰瘍があった。
1990年当時、乳がん治療はまだ手探りだった。
飯田さんは言いたい放題で、病院スタッフの話はあまり理解してくれなかった。
同じ部屋の女性たちとも打ち解けなかった。
46歳独身、家族も友人もいないという。
仕事は何をしているのか分からなかった。
誰も相手にしない彼女の話を、俺は一生懸命聞いた。
手術で両側乳房と、浸潤した皮膚、リンパ節など大きな範囲を切除した。
抜糸の頃には痛みを訴えなくなっていたが、肝臓と肺、骨への転移が問題だった。
「木村先生と、あんたは信用してもいい。他のやつは、駄目だ」
飯田さんは、他の患者さんと差別せず、真っ直ぐ目を見て話す乳腺班長の木村講師に対してだけは敬語を使った。
木村講師の勧めで、当時の最新の化学療法を受けたが、効果は一時的だった。
化学療法の休薬期間に、飯田さんが苦しんでいると連絡が入った。
吐き気が強く、半日は尿が出ていない。
骨転移による高カルシウム血症だった。
大量点滴、ステロイド剤、カルシウムを下げるホルモン剤の投与で改善したが、その後、何度も同じ症状に苦しんだ。
化学療法が再開されると副作用に苦しめられた。
彼女は目に見えて衰弱していったが、それでも「あんたたちを信用している」と言った。
ある週末、彼女が突然の腹痛を訴えた。
胃潰瘍穿孔(せんこう)による腹膜炎で、手術しなければ数時間で死に至る。
ゴルフ中の木村講師が飛んできた。
初めて見る木村講師の胃切除手術は鮮やかだった。
飯田さんは腹膜炎を乗り切ったが、もう化学療法を続けるのは無理だった。
数カ月後に肺転移による呼吸不全に陥り、最後は大きく開いた目を俺に向けて呼吸停止した。
親戚も知人も、誰一人病院に来なかった。
彼女が人生をどう思って逝ったのか、俺には分からなかった。

※医療法人鳥伝白川会理事長の泰川恵吾さん(平成28年年4月7日地元紙掲載「生きること死ぬこと」より)

重症患者と取り残されて

諦めていい命?

1989年、東京女子医科大に新設された救命救急センターは戦場のような忙しさだった。
大学を出た俺は、研修医として最初の4カ月をここで過ごした。
患者は途切れなく運ばれてきた。
2、3日眠れずに連続勤務することが多く、休日はなかった。
先輩の指導はとても厳しかった。
初出勤からひと月たった頃、大腿動脈を刺された患者が搬送されてきた。意識がなく、脈拍も微弱だった。緊急手術で血管を修復し、何とか救命することができた。
しかし、8床しかない救命センター専用の集中治療室が満床で、仕方なく手術後は別棟の集中治療室に入った。術後の多臓器不全で尿が少ない。かろうじて血圧だけは安定した。
ほっとしたのも束の間、次の緊急手術の連絡が入った。
「おい、君、研修医、この患者を診ておいてくれよ」
そう言い残して、先輩たちは皆、手術室に消えた。
俺は重症患者とともに取り残された。尿が出ない患者の点滴と利尿剤による水分バランス調整は困難を極め、容易に心不全や肺水腫に陥る-。その程度の知識はあったが、まだ経験がなかった。
多忙を極める先輩たちに、いちいち連絡して教えを乞うのは恐ろしかった。ベテラン看護師さんと、ポケットの当直医マニュアル、ナースステーションに常備の薬のマニュアルだけを頼りに、何とか患者の生命を維持することができた。
3日目に教授回診の行列がやってきて、重症患者と俺はようやく発見された。教授を筆頭とする指導医たちは状況を把握すると、すぐに救命センター専用のベッドに患者を移すよう指示を出した。この間、俺は不眠不休で、食事も看護師さんに分けてもらっていた。
「おまえ、バカだなあ」
先輩の一人が意地悪な笑みを浮べて言った。
「新宿でケンカした、こんな入れ墨だらけの身元不明の患者なんて、身をすり減らして診る価値あるのか? 損したと思わない?」
俺は愕然とした。価値のない患者なんていないと叫びたかったが、言葉にならず、ただ睨み返しただけだった。
「だから、俺は救急とか嫌いなんだよ。計画性も方針もないだろ」と、その先輩は小声で言い捨てて踵(きびす)を返し、教授回診の尻尾に加わった。
消化器外科志望の先輩だが、医局長の決める人事は絶対だった。救命救急は好き嫌いでするものではない。失っていい命も、諦めていい命もない。俺は殴りたい気持ちを必死に堪(こら)えた。

※医療法人鳥伝白川会理事長の泰川恵吾さん(平成28年3月24日地元紙掲載「生きること死ぬこと」より)

 

先祖の思い 魂宿る

小正月、雪で白一色だった奥会津に一気に彩りが加わる。
団子さし、もぐら除けや長虫除け、賽(さい)の神、早乙女踊り、初田植、成木責(なりきぜめ)…奥会津には小正月の行事が多い。
その一つに「道具の歳取り」がある。仕事や日常で使っている道具を祀り、感謝して五穀豊穣を祈る風習で、一昔前までは各家庭で行われてきた。今も道具の歳取りを続けているお宅があると聞き、金山町を訪ねた。
「まず仏様にお供えしてきます」
手土産の菓子折を押し戴くと、中丸吉之助さんはそう言って仏間へと消えた。吉之助さんに付いて私たちも仏間に入ると、奥の座敷にきれいに並べられた道具が目に飛び込んできた。
一畳ほどの茣蓙(ござ)の上に祀られているのは、農具、裁縫道具、包丁、工具、習い事の道具、掃除機やアイロン、パソコンなど実にさまざまだ。道具の前には鏡餅と御神酒、御膳が供えられ、手作りの餡(あん)ころ餅や「もちのこ」と呼ばれる汁物、酢蛸(すだこ)、大根おろしが並んでいた。
ラクターや精米機など大きくて動かせないものは、車庫や納屋で同様のお供えをするという。
時代と共に道具は変わっても、慈しむ心は変わらない。
「孫が学校から帰ると、一人一人ランドセルをお祀りして拝みます」と吉之助さん。
後方の桐の箱には代々伝わる古文書が収められている。障子明かりに古文書を広げ、解る文字だけ拾い読んでいると、ふいに「ごおー」という音がした。驚いて目を上げると、吉之助さんが微笑んで言った。
只見線です」
蝋燭が点(とも)されると、吉之助さんは奥様の昌子さんとお二人で道具に深々と頭を下げ、拍手(かしわで)を打ってお参りされた。
「こうして今年も元気で道具を持って働けることに感謝しています」
日々世話になっている道具を一日休ませて労(ねぎら)い、共に歳を重ねて祝う。

三島町の五十嵐文吾さんも、毎年欠かさず道具の歳取りをされている。
文吾さんの家では大ぶりの鋸(のこぎり)や鉞(まさかり)などが並び、やはり鏡餅や御神酒、団子が供えられていた。
またたびを編んでいた文吾さんが編み組の道具を手に現れ、お話を聞かせてくださった。
文吾さんは御年93歳。21歳で応召し、三年後に終戦を迎えた。軍隊での思い出は辛いことばかりだ。冬の会津の暮らしは厳しく、毎年遠くまで出稼ぎに行った。
「子供の頃の道具の歳取りに、父の姿はありませんでした」と長女の純子さんは振り返る。
冬の間は年寄りが伝統行事を仕切り、決して途絶えさせることはなかった。
「昔の人は本当に立派だった」と文吾さん。
もののなかった時代、道具も家族同然だった。だから道具を跨(また)いだりしたらひどく叱られたそうだ。
大ぶりの鋸は純子さんのご主人の実家に伝わる古いもので、燕三条の鍛冶屋が打ち延べた一級品だ。昔はこれで大木を切り倒したのだという。
文吾さんが鋸を持たせてくれた。鋸は一人では持てないほど重かった。
「昔のことを考えれば涙が出てくる…」
文吾さんがぽつりとおっしゃった。
歳取りを重ねてきた道具には、代々それらを使い懸命に生きてきた先祖の思いと魂が宿っている。
歳取りの行事を続けることは先祖の思いを継ぎ、先祖と共に生きることでもある。

俳人黛まどかさん(平成28年2月9日地元紙掲載「ふくしまを詠む」より)

 

世界に種をまき続け

1890年7月27日午後、ゴッホは野外制作に出かけた麦畑の近くで、胸を拳銃で撃ち自殺を図った。
医師ガシェからてんかんが「不治の病」と告げられ、このままではいずれ絵が描けなくなると悲観した画家の、覚悟の上の行為だった。
弾は急所を外れ、彼は出血する胸を押さえながら部屋に戻った。
翌朝、パリからテオが駆けつける。
驚き悲嘆にくれる弟に兄は言った。
「泣かないでくれ、みんなに良かれと思ってやったことなんだ」
翌29日午前1時頃、ゴッホは息を引き取った。享年37。
深い悲しみに包まれたテオもその半年後、精神に異常をきたし亡くなった。まだ34歳だった。
今、兄弟はオーヴェールの小麦畑の中の墓地で二人並んで眠っている。
連載最後に取り上げた作品は、死の一カ月前に描かれた。
この絵の中には、ゴッホが愛したものの多くがおさめられている。
畑、農民、家、樹木、馬車と汽車、丘陵と空。
平凡な田舎の風景だが、ここには平和で穏やかな時間が流れている。
それは、画家がこの風景に限りない<共感>と<愛>を感じているからだ。
「自然に向かって孜々(しし)として仕事をすること、あたかも靴屋が靴を作るように何の芸術的な下心もなく仕事をすること、(…)そうすればちょっと見て受けた感じとは、本当はまるで違う一つの国を知ることができるのだ」
無心に絵を描くとき、自然は画家にまったく異なる姿を見せてくれる。
それは我欲で汚された人間には決して見えない<真の世界>の姿だ。
愛と平和と歓びに満ちた光あふれる真実の世界。
その世界を画布にとどめるべくゴッホは絵筆を握り続けた。
たとえその努力が未完に終わったとしても、未来の誰かがそれを引き継いでくれる。
そこに画家の希望がある。
一粒の麦は死んで多くの実を結ぶ。
未来の誰かのために、今、自分は人知れず種をまくのだ。
木喰上人(もくじきしょうにん)の次の歌をもって、この連載を閉じることとしたい。

のちのよのたねをまきおく皆ひとの 心はすぐにぼさつなりけり

※坂口哲啓さん(平成27年11月14日地元紙掲載「没後125年 人間ゴッホを求めて」より)

 

「英知と無知」感じる

池内 了(いけうち さとる)著    科学は、どこまで進化しているか

宇宙に終わりはあるのか。地球以外の星に生命は存在するか。地震や火山爆発の予知は可能か。原発の危険性の本質とは。人類が滅ぶとしたら、何が原因か…。
天文学者で宇宙物理学者の池内了(1944年~)の著書「科学は、どこまで進化しているか」はスケールの大きな問いに次々に見解を述べる。
読みながら「人間はそんなことまで解明していたのか!」と驚き、「私たちは、私たちが住む世界のことを、まだほとんど知らないんだなあ…」と呆然とする。人間の英知と無知の両方を感じて、不思議な気持ちになる本だ。
宇宙は138億年前に高温度・高密度な状態から膨張を始め、今も膨らみ続けているという。地球の誕生は46億年前。最初の霊長類が生まれたのは6500万年前で、恐竜が絶滅した「生態的な空き地」に進出した。現生人類の祖先、ホモ・サピエンスの出現はわずか20万年前-。時間の感覚がおかしくなってくる。
地震や火山爆発の予測は「現状では不可能」と池内ははっきり書く。他にも「明らかになっていない」「謎のままである」といった記述がたびたび出てくる。がんの特効薬はできないし、エネルギー問題も今後どうなるか見通せない。
「人類が滅ぶとしたら、何が原因か」という問いに池内は、「私がもっとも心配するのは、欲張りで、向こう見ずで、先行きのことを考えずに自分の利得だけを考える、そんなバカな人類であるために絶滅してしまう危険性があることだ」と書く。そして、地球温暖化によって起こる飢餓、殺人ウイルスの蔓延、核戦争といった様々な悪夢を示すのだ。
科学の、人間の限界を自覚し、謙虚であること。それが本当の知恵だと気付かされる。

※地元紙ジュニア新聞「本の世界へようこそ」より

 

言葉は私たちのもの

大野 晋(おおの すすむ)著   日本語の年輪

「言霊」という言葉がある。言葉に宿る不思議な力のことだ。私たちの祖先は言葉に敏感で、恐れ、大切にしてきた。結婚式では「別れる」「切れる」といった「忌(い)み言葉」をさけ、受験生には「落ちる」「すべる」と言わないようにする。現代人も心のどこかで言霊を信じているのだろう。
日本語学者、大野晋(1919〜2008年)の「日本語の年輪」は、一つ一つの言葉を手がかりに日本語とは何か、日本人とはどんな存在かを探る。根底には言葉への深い愛情と信頼がある。
大野によれば、言葉には、人間のものの考え方、感じ方を決定していく力がある。一方で人間も言葉を変えていく力を持つ。
「この二つの力が螺旋(らせん)のようにぐるぐる廻って、かわるがわるに働きながら日本語の長い歴史を作って来た」
うつくしい、ゆゆしい、おいしい、かわいい…。58の言葉について、古代から現代まで、用例を引きながら変化をみる。
例えば「きみ」。「万葉集」では女から男を呼ぶのに使われている。だが明治以降は「一対一の人間として相手を重く見るという新しい人間関係を示す言葉」となった。

外国語と比べた考察も。「おおやけ」は日本語ではもともと「大きな家」、つまり「天皇の家」を意味したが、英語やフランス語の「パブリック」は「ピープル(人民)」と源(みなもと)が同じだ。「おおやけ」の考え方の違いがおのずから明らかになる。
後半で日本語の歴史を概観する。戦後の一時期、漢字を全廃しようとする動きがあった。この政策に対して大野は「文字を制限して、人々の表現の自由を拘束する権利を誰も持たないはずである」と怒りをあらわにする。言葉は国のものではなく、私たち一人一人のもの。そんな声が聞こえてくるようだ。

※地元紙ジュニア新聞「本の世界へようこそ」より