朴念仁の戯言

弁膜症を経て

篩(ふるい)

今年3月に同級生Sが亡くなった。
数年間の闘病生活。
再々発の白血病だった。

今日、郵便局で同級生Aに会った。
Aは配送専門でトラックの中から声を掛けてきた。
「Eが死んだの知ってっか」
藪から棒にAは言った。
「なに!」
「去年の12月だ。ネットで名前検索してたら死んだって出てきた」
「なんで死んだんだ」
「わかんねえ」

職場に戻るとすぐにネットの検索窓にEの名とボクシングジムを打ち込んだ。
「元日本ランカー、Eさん死去」
どこの、誰それのブログの見出しが目に入った。
見出しをクリックしてブログの文字を追っていると、紛れもなくEの顔写真が現れた。
Eは現役を退いた後、ボクシングとフィットネスを兼ねたジムを経営していた。
貫いていたのか、中学生から変わらぬ夢を。
いつだったか、街中を走っているEに会った時のことを思い出した。
「明日は祖母の葬式なんだ」
「通夜の今日、走ってんの?」
「うん」
こいつは感情が乏しいのか、無慈悲な性なのか、その時はEを変わり者としか理解できなかったが、今なら分かる。
死は当たり前の事実。
人は必ず死に、死ぬことを知って生きている。

同い年の人間がこれまで何人亡くなっただろう。

篩。
農作業などで使う道具。
Eが亡くなったと聞いてこれが真っ先に浮かんだ。
誰もが人生の篩にかけられる時期があるのかも知れない。
俺はその時期を一度は越えた。

篩の、網目にぶら下がっている俺の姿を想像した。
力尽きたら落ちるしかない。
えい、やめろやめろ。
万有引力なぞに従ってられるか。
まだまだだ。
もう一度想像し直した。
足を引っ掛けてでも網目から這い上がる俺の姿を。
何度も。
何度でも。

 

母の日に なんにもしない それがうち

「母の日に なんにもしない それがうち」-。兵庫県篠山市立岡野小学校4年生の青木舞佳さん(10)の詠んだ俳句が、「第12回佛教大学小学生俳句大賞」の高学年の部で選考委員特別賞に選ばれた。
応募総数2万句を超える中での受賞。
「嘘はつけないし、普通に思ったことを書いた」という青木さんは、受賞報告を受けた後の下校はスキップをして帰ったといい、「びっくりしたけれど、めちゃめちゃうれしかった」と喜んでいる。

俳句の楽しさを、「五・七・五という限られた言葉数の中で良い句をつくることがおもしろい」と話す青木さんは、「うちでは母の日に何もしないけれど、お母さんには感謝している。何も言わずとも思っているだけで十分」ときっぱり。
「賞を狙うことはない。でも、もらえるものならもらいます」とはにかんでいた。

丹波新聞(平成31年3月26日配信)

 

今生の課題

蟲が身体に棲息するようになったのは何時頃からか。

蟲が動き始めると訳の分からない感情が湧き起こる。
些細な事に不機嫌になり、沸々と怒りを覚え、口を閉ざす。
そして、寄らば斬るのベールを纏う。
そのベールを払い除け、他人がズカズカと入り込めば、すかさず三白眼で睨み付け、角立つ物言いで追い払う。

些細な事柄に不機嫌な感情を覚えるのは我なりにそれなりの理由があってのことだが、客観視すれば些細な事象に違いなく、些細と認めた時点でそれに言挙げしている自分の卑小さも認められ、それが更に蟲の動きを活発にする。

昨日、身内との会話で蟲の動きを察知した。
身内は私の感情の機微に気付いたはずだが、素知らぬ風に見過ごした。
身内の、当の本人は露ほど思っていないだろう温かな寛容さに、蟲は静かに動きを止めた。

今生の課題一つは、この肚の蟲を治めることだと思い知れ。

 

二人の患者

また厄介な病を抱えてしまい、総合病院の消化器科に通う羽目になった。

診察予約の日、待合室に向かうと、外科室から出てきたばかりの男と移動用ベッドに横たわった婦人が目に入った。
もう一人、看護師のような病院服を着た、ずんぐりむっくりの婦人の姿もあった。
男は高校時分の友人Hだった。
Hの背中越しに手を回し、Hの左腕に触れて声を掛けた。
振り返ったHは驚きの顔を示し、「おっ」と声を上げた。

「よお、おふくろさんの診察か」
「ああ、半年に一遍の定期検査だ」
「立ち会いか。顔艶も良さそうじゃねえか」
「ああ、前は俺が顔を見せても反応しなかったが、最近じゃ俺のこと分かるようになった」
「そちらさんは?」
「施設の職員さん。付き添ってくれるから安心だ」
会話を聞いていたずんぐりむっくりの婦人が頭を少し下げた。
「おめえは何でここに」
安倍晋三と同じ病になっちまってな。定期診察だ」
「ストイックな生活してっからだ」
「ああ、寿命だよ」

寿命? 何とも頓珍漢なことを言ったもんだ。
死を目前にしての言葉じゃねえか。
知ってか知らずか、常に死が意識化されてるってぇことか。

Hは、横たわった母親にしばらく付き添っていたが、母親と施設の職員をその場に残していつの間にかいなくなっていた。

診察を終え、待合室でカルテが戻るのを待っていると左側から声が掛かった。
「今日はどうしたの」
振り向いて声の主を見たが、一瞬誰か分からなかった。
ややあって仕事で付き合いのある陶芸職人のM氏と認めた。
M氏の顔は、おたふく風邪に罹った子どものように膨らみ、以前の精悍な面構えは見る影もなかった。
「あれ、Mさんも診察ですか」
「いやー、胃にポリープができてしまって今度手術しなければならなくなって。今日は3件も回ったから疲れたよ」
「そうですか」
それ以外に言う言葉が見つからなかった。
看護師が私の名を呼ぶのが聞こえた。
「今度事務所に遊びに行ってみるよ」
M氏はそう言って立ち上がり、笑顔を見せた。
それまで気付かなかったが、M氏の脇には奥さんが慎ましげに控えていた。
「是非遊びに来てください。お大事にしてください」
カルテを手に放心気味に二人を見送った。

M氏は数年前に肺がんと診断され、県内の有名な総合病院で陽子線治療を受けた。
それ以来、遅きに失したがチェーンスモーカーだったM氏はタバコを止め、飲めば午前様だった酒も止め、治療に専念した。
が、薬の副作用で顔や腹は膨らみ、人前に出るのを避けるようになった。

この日の二人の患者は何を伝えようとしていたのか、と、ふと考えた。
どうやら些細な出来事に何かしらの意義付けをして、自分に都合良い気付きを得ようとしていたらしい。

嫌みな野郎だ、てめえは。

そうか、これか、伝えたかったことは。

 

老いの行方

「脳に問題があって、もう務めることができません」
電話の相手はいつもと変わらぬ口調で淡々と話した。
町内会の役員も断ったという。
電話の話具合からは脳の障害は少しも感じられないのだが・・・。
自宅の玄関を閉ざし、外部との接触も遮断しているとか。
それほど深刻な症状なのか。

これまでの労に感謝の言葉をお伝えしたが、人生の終末期に向かう彼(か)の人の言葉としては余りに寂しい。
受話器を置くと、彼が今置かれている生活状況と精神状態が思いやられ、暗澹とした気持ちになった。
恐らく免許更新で医師診察となった、その結果ではないのか。

後日、彼の後任を推薦してもらうため、彼が属する町内会の区長の家を訪ねた。
「(彼は)認知症。去年の9月に電話があってもう後任は決めてある」
物腰柔らかく、笑顔絶やさず、好々爺然とした区長だったが、この時は見かけと裏腹なぴしゃりとした物言いだった。
(彼は人間として)もう終わったと、冷やかな宣告のように聞こえた。

以前に区長に抱いた不快な第一印象の訳がこれで分かった。
直感は真実を見抜く。

高齢化が進み、誰も彼もが認知症を発症する時代なのに、明日は我が身とも振り返らず、憐憫の情も持ち合わせず。
因果応報、他者への思いやり欠く態度が情け容赦ない仕打ちとなっていずれ我が身に降りかかるものを。
前科持ちの長男の手に老い先を握られていることを知りながら。

 

アウシュビッツ到着 ①

(もしわれわれが強制収容所においてなされた豊富な自己観察や他者観察、諸経験の総体をまず整理し、大まかな分類をしようと試みるならば、われわれは収容所生活への囚人の心理的反応に三つの段階を区別することができるであろう。すなわち収容所に収容される段階と、本来の収容所生活の段階と、収容所からの釈放乃至(ないし)解放の段階である。)

第一の段階はいわば収容ショックと名づけられるようなものによって特徴づけられている。
しかもわれわれは、心理学的なショック作用が、すでに事情によっては実際の収容より先にあったということをはっきりと想起せざるを得ないのである。
たとえば、私自身がアウシュヴィッツに送られた輸送の場合はどうであったであろうか。
次のようなその様子を想像していただきたい。

1,500名の輸送はすで数日数夜続いていた。
その列車たるや一貨車に80人もの人間がその荷物(彼等の財産の最後の残り)と共にうずくまっているのであり、積み上げられたリュックサックや袋で窓の一番上の部分だけが残っており、そこから薄暗い暁の空を見上げることができた。
すべての人々は、この輸送はどこかの軍需工場に行き、われわれはそこで強制労働者として使われるであろうという意見であった。
そして列車は今やあるひらけた平地にとまりつつあるかのようであった。
一体、今われわれがシレジアにいるのかポーランドにいるのか誰も知らなかった。
機関車の鋭い汽笛が薄気味悪く響き、それはさながら大きな災厄に向かって引かれていく人間の群の化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった。
そして列車はいまや、明らかに、かなり大きな停車場にすべりこみ始めた。
貨車の中で不安に待っている人々の群の中から突然一つの叫びがあがった。
「ここに立札がある——アウシュヴィッツだ!」
各人は、この瞬間、どんなに心臓が停まるかを感ぜざるを得なかった。
アウシュヴィッツは一つの概念だった。
すなわちはっきりとはわからないけれども、しかしそれだけに一層恐ろしいガスかまど、火葬場、集団殺害などの観念の総体なのだった!
列車はためらうかのように次第にその進行をゆるめていった。
すなわちあたかもそれが運んできた不幸な人間の積荷を徐々にかつなだめつつ「アウシュヴィッツ」という事実の前に立たせようとするかのようであった。
今やすでに一層色々なものが見えてきた。
次第に明るくなる暁の光の中に、右も左も数㎞にわたって、恐ろしく大規模な収容所の輪郭が浮かび上がってきた。
幾重もの限りない鉄条網の垣、見張塔、探照燈、それに暁の灰色の中を灰色に、ノロノロと疲れてよろめきながら、荒れはてた真直ぐな収容所の道を行くぼろをまとった人間の長い列——誰もどこへ行くのか知らないのだ。
そして短い号令の笛があちこちできこえる——誰も何のためだか知らないのだ。
すでに我々のうちの何人かは驚愕した顔をしていた。
たとえば私は一対の絞首台とそれに吊り下げられた者とが目に入った。
私はぞっとした。
しかしそれどころではなかったのだ。
すなわちわれわれは一秒毎に一歩一歩恐ろしい戦慄の中に導かれなければならなかったのだ。

 

※ヴィクトール・エミール・フランクル著「夜と霧」より

「夜と霧」出版社の序

1931年の日本の満州侵略に始まる現代史の潮流を省みるとき、人間であることを恥じずにはおれないような二つの出来事の印象が強烈である。
それは戦争との関連において起った事件ではあるが、戦争そのものにおいてではなく、むしろ国家の内政と国民性とにより深いつながりがあると思われる。
さらに根本的には人間性の本質についての深刻な反省を強いるものである。

第一には1937年に起った南京事件であって、これは日本の軍隊が南京占領後、無辜(むこ)の市民に対して掠奪・放火・拷問・強姦などの結果、約20万人と推定される殺人を行った。
これは当時の目撃者や医師・教授・牧師たちによる国際委員会によって報告書が作製されており、さらに極東国際軍事裁判においても広汎(こうはん)に資料が蒐集(しゅうしゅう)されたが、手近(てぢか)には林語堂(りんごどう)「嵐の中の木の葉」やエドガー・スノー「アジアの戦争」などの中にもヴィヴィッドに描写されている。

第二には1940年より1945年に至るナチズム哲学の具体的表現ともいうべき強制収容所の組織的集団虐殺である。
これは原始的衝動とか一時性の興奮によるものでなく、むしろ冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画がナチズムの国家権力の手足となって、その悪魔的な非人間性をいかんなく発揮した。
「近代的マスプロ工業が、人間を垂直に歩く動物から1㎏の灰にしてしまう事業に動員された。」(スノー)
アウシュヴィッツ収容所だけで、300万人の人命が絶たれ、総計すれば600万人に達するといわれる。

いまだ人類の歴史において、かくの如き悪の組織化は存在しなかった。
その規模においてかくも周到厖大な結末を示したものはなかった。
かくてこれは、人類史において劃期(かっき)的な事件として永久に人間の記憶に残るであろうことは疑えない。

ここに読者に提供するのは、自らユダヤ人としてアウシュヴィッツ収容所に囚われ、奇蹟的に生還しえたフランクル教授の「強制収容所における一心理学者の体験」であるが、これは著者も自ら言われる通り限界状況における人間の姿を理解しようとするもので、その深い人間知から滲み出る叙述の調子の高さは、現実の悲惨を救うせめてものよすがであろう。
しかし我が国の読者のためには、強制収容所についての一般的記述で客観的なものが予備的に望ましく思われたので、解説および写真によってこれを補うことにした。
おそらく読むに巻を措き、見るに耐えないページもあることだろう。

我々がこの編集に当って痛切だったのは、かかる悲惨を知る必要があるのだろうか? という問いである。
しかし事態の客観的理解への要請が、これに答えた。
自己反省を持つ人にあっては「知ることは超えることである」ということを信じたい。
そして、ふたたびかかる悲劇への道を、我々の日常の政治的決意の表現によって、閉ざさねばならないと思う。

  1956年8月
                       出版社(みすず書房